平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

金沢藩主・前田利家

2010年04月03日 | 戦国時代

 ここ、前田家の御廟があるのは富山の瑞龍寺で、利家公だけではなく利長公や織田信長の石廟などもある。 瑞龍寺については又別の機会に譲るとして、ここでは前田利家と賤ヶ岳の戦いについて。。。

 前田利家1539-1599は幼名を犬千代といって、豊臣秀吉と同じ年の生まれである。 14歳のときに利家は土地の領主・織田信長に仕えた。 信長の弟・信行が前田家の領地である荒子庄の主人であり、当時弟の評判はすこぶる良かった。 しかし利家はカブキ者といわれた信長に仕え、寵童の扱いを受けたのである。 ところが出仕を差し止められたことがあった。 秘蔵していた笄を十阿弥という同朋に盗まれたときに斬殺したことで 信長の怒りをかったのである。 後に幾多の戦いで功をあげて復縁した。 利家は前田家の四男であったが信長の後押しもあって兄・利久の後を継いで前田本家の当主となった。 利家の運が次に大きく開けたのは信長の死後である。 柴田勝家を長とする北陸軍団の一員であったが、勝家と秀吉が天下を争った賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は勝家の一員でありながら秀吉の味方をしたのである。 利家はかつては部下であった秀吉に誠心誠意仕え、秀吉五大老になっている。

--------------賤ヶ岳の戦い-------------

 明智光秀の謀反により信長が暗殺されると、1583年に織田軍団内の覇権を目指して羽柴秀吉と柴田勝家が激突する。 本能寺の変の9ヶ月後である。 全体の形勢は山崎の合戦で光秀を下して大きな功績をあげ、さらに織田軍団内での地の利を得た秀吉に有利に進んでいた。 織田軍団内は秀吉、丹羽長秀勢と柴田勝家、織田信雄、神戸信孝、滝川一益勢の二つに分かれる。1582年11月、勝家は長浜城主の柴田勝豊に命じ、秀吉と和平を図る。北陸にいた、前田利家、不破勝光、金森長近が介添え役であった。 この前田利家らと勝家は、北陸方面軍の同僚であり、個人的に利家は、清洲の浪人時代に勝家から世話になって恩義を感じ、一方秀吉とは4女を養女に出すなど親しい同僚関係だったが、秀吉は長浜の柴田勝豊を囲み、勝豊は勝家の甥の佐久間盛政と不仲だったことからあっさりと降服し、秀吉方となる。さらに織田家の後継者とされた信長の孫、三法師秀信を手中にしていた美濃の岐阜城の神戸信孝を降服させ、翌2月には滝川一益を攻める。勝家は、本格的な対決を覚悟し、徳川家康との友好交渉進めていたが、秀吉の行動は予想以上に早く、越後の上杉景勝に越中、能登への侵攻を促す一方で、勝家は徳川家康に書状に送るなど外交戦が展開された。

 1583年2月末勝家軍は越前を出、府中城主の前田利家の長男利長を先陣に、勝家の甥佐久間盛政、前田利家らが次々と出陣、勝家も3月9日に北庄をでた。 柴田の近江侵入を聞いた秀吉は伊勢攻めの兵力の大半を近江に向かわせ、佐和山を経て、17日には勝家勢の退いた木之本まで進出する。 兵力は羽柴方が有利であったが、柴田方は山にしっかりと陣を築いたため、無理攻めはできない。4月に入って滝川一益が美濃侵攻し、織田信孝が再び挙兵する。 秀吉は木之本を秀長に任せ、15000人を率いて美濃に向かう。 戦いの初期に勝家方に寝返った山路将監が、秀吉陣は正面の神明山の守りは堅いが、その奥の余呉湖東の大岩山の守りが薄いと進言する。戦意の高い佐久間盛政が攻撃を強く志願、慎重派の勝家も押さえきれず認めるが、勝家陣には統率力に欠けるという根本的な弱みがあった。 4月20日の未明、佐久間盛政は張り切って山中の陣を出る。近くの岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の桑山重晴に急を知らせ、援護を求める。しかし二人は多勢に無勢と退却、清秀は奮戦するも討ち死にする。初戦の勝利を盛政が勝家に知らせ、全軍での攻勢を求めると、勝家は撤退を求める。

 賤ヶ岳の秀吉軍の窮地を救ったのが琵琶湖対岸の坂本にいた若狭と近江2郡の領主の丹羽長秀だった。2000の兵とたまたま舟で賤ヶ岳方面に向かっていた船上から賤ヶ岳方面で戦が行われているのを知った長秀は部下の反対を押し切って海津から上陸、いったん賤ヶ岳を降りた桑山晴重らと再び登り、拠点を確保した。21日盛政軍は秀吉が駆けつけてきたことを知り、撤退を決意する。勝山城主の柴田勝安がしんがりとなるが、この勝安軍に大垣から来た秀吉の本体が攻めかかる。福島市松、加藤虎之助ら後に「賤ヶ岳の七本やり」と宣伝される。 新手の勢いをうけて佐久間隊総崩れとなり、勝家与力の不破勝光、金森長近も戦線を離脱し勝家軍はついに総崩れとなった。

在(金晴院)     
 ┣知好1590-1628     
前田利家1539-1599(金沢藩主初代)     
  ┃┃┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
  ┃┃┃┣-
  ┃┃┃永姫1574-1623(織田信長娘)
  ┃┃┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
  ┃┃┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
  ┃┃┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
  ┃┃まつ(芳春院)1547-1617
  ┃┃  
  ┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
  ┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代) 
  ┃┃ ┃┃正室:摩須(保科正之娘)
  ┃┃ ┃┃ ┣-
  ┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代) 
  ┃┃ ┃┃ ┃正室:松(徳川綱吉養女)
  ┃┃ ┃┃ ┃ ┣-
  ┃┃ ┃┃ ┣吉徳1690-1745(加賀藩主5代) 
  ┃┃ ┃┃町姫 ┃┃┣宗辰1725-1747(加賀藩主6代)
  ┃┃ ┃┃   ┃┃側室:伊与(浄珠院)⇔前田直躬1714-1774(前田土佐守家5代) 
  ┃┃ ┃┃   ┃┣重煕1729-1753(加賀藩主7代)   
  ┃┃ ┃┃   ┃側室:民(鏑木氏・心従院)
  ┃┃ ┃┃   ┣前田利和1734-1759
  ┃┃ ┃┃   ┣楊姫(佐竹義真正室)
  ┃┃ ┃┃   側室:真如院
  ┃┃ ┃┃   ┣-
  ┃┃ ┃┃   大槻伝蔵1703-1748(吉徳重臣)
  ┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院 
  ┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代) 
  ┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
  ┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
  ┃┃ ┃┃須磨
 ┃┃ ┃八尾
 ┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
 ┃┃┗千姫
 ┃寿福院1570-1631
  ┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)

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