平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

幕末160 1864年 長州征伐

2017年01月24日 | 幕末

 高杉が藩を脱出して逃亡していた頃、軍艦奉行勝海舟に江戸からの召喚状が届いていた。当時勝は神戸海軍操練所で坂本龍馬とともに海軍士官の育成を行っていた。実は幕府は操練所の閉鎖を考えていたから勝を江戸に召喚した。神戸操練所で修行していた土佐脱藩浪士が池田屋事件で落命したことにある。勝は幕臣でありながら、宮中にテロを仕掛けようとする連中を集めて海軍術を学ばせているというものである。かくして勝は軍艦奉行を罷免され、後任には幕府絶対派の小栗忠順がつき、神戸海軍操練所の廃止に動き出した。

 時を同じくして長州征伐総督の尾張藩主徳川慶勝によって西郷隆盛は大坂城に呼び出された。長州征伐に関する参謀としての意見は次である。首謀者の三家老の首を差し出し藩主は謹慎という意見に慶勝も賛成した。内乱が長期化すれば外国勢力にとっては都合がよい。早期に事態を収拾すべきということで組織された長州征伐軍は15万、対する長州軍はせいぜい3万であり、和平交渉の窓口には岩国藩主吉川経幹である。1864年11月18日は長州征伐軍の総攻撃予定日とし、西郷は吉川との和平交渉し、吉川は西郷の申し出を受け入れた。まずは三家老の福原(長州支藩・徳山藩主の六男で長州藩主敬親の兄)、益田(長州藩永代家老の家柄)、国司(久坂玄瑞とともに攘夷運動を展開した)は割腹、三家老の補佐役であった宍戸左馬介、佐久間佐兵衛、中村九郎、竹内正兵衛の首を切った。

 ところが5卿の処分については保護か幕府への送還かでこじれていた。この解決に一役買ったのは福岡藩士の喜多岡勇平、月形洗蔵である。薩長のいずれにも親交のある彼らが、西郷に代わって交渉を行うのは自然のことだっただろう。後に薩摩と長州は薩長同盟を結ぶことになり、このときに坂本龍馬、中岡慎太郎が活躍するのであるが、中岡慎太郎は月形とは旧知の仲であり、薩長結ぶべしという考えになったのは月形の影響が大きいと考えられる。この月形、月形半平太のモデルでもあり、先駆的な考えが受け入れられずに非業の死を遂げるときの名セリフ「月さま雨が・・・春雨じゃ濡れていこう」は、このときのセリフなのである。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 幕末159 1864年 長州ファイブ-2 | トップ | 幕末161 1865年 長州征伐 »
最近の画像もっと見る

幕末」カテゴリの最新記事