両宮山古墳
両宮山古墳は山陽自動車道の山陽IC近く・山陽町穂崎に位置します。ICを降りて西、ほぼ27号線沿いにすぐに見つけることが出来ます。古墳の説明板のところには駐車場があり、西隣には「稚媛の里」という看板もあり、古墳見学に訪れるには充分な環境が整っています。(撮影:クロウ)
両宮山古墳は、五世紀後半の築造とされる前方後円墳で、備前地域では最大の全長194m、県内では備中地域の岡山市・造山古墳(五世紀前半、360m)、総社市・作山古墳(五世紀中ごろ、286m)に次ぐ大きさである。 最も高い方墳部分は高さが41mあり、水をたたえた幅約28mの周濠がすぐ横を巡っている。 二重の周濠は四世紀末、畿内の大王陵などに出現し、その後地方に分布したとされる。 両宮山古墳は地方では古い例で、規模は同時期では中四国以西で最大という。 すぐ北側にあり、関係があるとみられる和田茶臼山古墳(五世紀後半、全長53m)でも二重周濠が確認されている。
南側周濠より 西側周濠より
この古墳の南側には道路をへだてて、二つの独立した前方後円墳がある。西が森山古墳(全長85m)で、前方後円形をよくとどめ、とくに周庭帯をのこしている。 東は廻り山古墳(全長65m)で、両者とも巨大な両宮山古墳の倍塚である。
ところで、この両宮山古墳は先の看板にもあるように稚媛が眠る古墳とも言われている。 稚媛というのは吉備上道田狭の娘で、雄略天皇の妃となった。
幼武皇子は葛城氏との関係を深めるために韓媛を妃に迎えようとしていた。また、履中天皇の子・市辺押磐皇子だけでなく、その弟・御馬皇子も石上穴穂宮に顔をだすようになり、現大王の後を継ぐ候補が現れたことを考えると、将来の孤立を防ぐためにも吉備国をも味方に引き入れる必要があった。また吉備国としても大和の権力に勝つのは困難であると思っている以上、吉備の娘を王家に差し出し、生まれてくる子が次の大王にでもなれば、吉備の安泰は狙える。幼武皇子は、西国を固めれば大和にも劣らない力を持つ吉備国の勢力であるだけに、手を結ぶために吉備上道田狭に縁談を持ちかけ、吉備稚媛を妃とすることになる。 後のことであるが、吉備稚媛は磐城皇子、星川稚宮皇子の二皇子を産んだ。そして幼武皇子が雄略天皇としての最後を迎えたときに吉備稚媛は星川稚宮皇子を煽って大和政権を握ろうと王位を狙ったのである。吉備水軍も擁立させようと河内に向かうが戦いに敗れ、それ以来吉備は大和の従属と化してしまったのである。
春日大娘皇女
宮主宅媛 ┣橘仲皇女
葛城高額媛 ┣雌鳥皇女 荑媛(葛城蟻臣娘) ┣白香皇女
┣神功皇后170-269 ┣菟道稚郎子皇子 ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇
息長宿禰王┃ ┣矢田皇女 ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498
┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女 ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
┣ 麛坂皇子 ┣ 16代仁徳天皇257-399 ┣ 御馬皇子
┃ ┣ 根鳥皇女┃ ┃
┣ 忍熊皇子┏仲姫命 ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
大中姫 ┣高城入媛 ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
品陀真若王┛┣大山守 ┣ 18代反正天皇336-410
応神天皇 ┣ 19代允恭天皇 -453
┏━ 磐之媛命 ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
┃ 仁徳天皇 ┃長田大郎女 ┃
┃ ┃ ┏ ┃┻眉輪王┣ ┃
┃ ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
┃ ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
┃ 日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子 和珥童女君
甘美内宿禰 ┃ ┗ ┃━┓ ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰 ┣ 葛城葦田宿禰 ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
┣葛城襲津彦-347┃ ┃ ┣ 磐城皇子 ┃
┣巨勢小柄宿禰 ┃ ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
┣蘇我石川宿禰 ┣葛城玉田宿禰┃ 吉備稚媛 ┣ 22代清寧天皇444-484
┣平群木菟宿禰 ┃ ┣葛城円 ┣ 八釣白彦皇子 ┣ 稚足姫皇女
┣紀角宿禰 ┃ ┗毛媛 ┃ ┣葛城韓姫
┣羽田矢代宿禰 ┣黒媛 ┣ 坂合黒彦皇子 葛城円
┣葛城蟻臣 ┏忍坂大中姫
┣荑媛 ┗衣通姫(そとおりひめ)