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石田三成の軍師・島左近

2018年09月10日 | 戦国時代

 島左近の通称で知られる石田三成の軍師・参謀の名は清興は、俗に勝猛ともいう。娘・珠は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。島氏は奈良県平群町の領主で椿井城を本拠にしていたとされ、畠山氏、筒井氏の家臣であった。1600年の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、北の伊達政宗の裏切りに備えた家康到着に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側・中村一栄・有馬豊氏両隊に挑み(杭瀬川の戦い)、宇喜多秀家家臣・明石全登隊と共に完勝した。その夜、島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は石田三成に受け入れられずに終わる。関ヶ原の戦い最初は西軍有利に進み島左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが、黒田長政の鉄砲隊に銃撃され一時撤退する。小早川秀秋の寝返りを機に西軍は総崩れとなり、左近は死を覚悟して田中吉政・黒田長政らの軍に突撃するが銃撃により討ち死にする。

 石田三成に過ぎたるものが二つある。島左近と佐和山城。何故左近は三成に仕えることになったのか。実は島左近、関ケ原の戦いでは、我に勝算ありとした。それはどういうことなのか。島左近の文書が最近発見され、謎の人物とされていたが、その実像が浮かんできた。日立の佐竹氏と繋がって家康攻略を図っていた。秀吉が亡くなると三成は島左近に家康攻略を命令したという。今や石田を憎む者の多くが家康に傾いている。ゆえにいち早く家康を打つべきだという。家康の本拠地関東までは遠いが、畿内の見方を募れば5万はたやすい。会津の上杉や日立の佐竹と図り家康不在の関東を攻撃すれば、打倒はたやすいという。しかし石田三成は時期尚早として認めなかった。三成と家康対立の原因は、1599年の七将襲撃事件である。前田利家が死んだその日の夜、加藤清正など7人の武将が大阪の石田邸を襲撃した。三成は大阪から伏見に逃れて助かったが、三成は佐和山城に逼塞を命じられたのである。しかし左近はこれを家康打倒の好機ととらえた。佐和山城から兵を出して、油断している家康がいる伏見を一気に攻撃すればよいというものであったが、三成はこれを却下。左近の次の作戦はこうである。1600年6月、家康は上杉景勝討伐の為に大阪城を出陣、家康は近江の要衝・水口に宿泊するので夜討ちをしかけようと持ち出した。この進言に三成は応じた。左近は3千の兵を率いて佐和山城から水口に出陣した。だが、攻略を事前に察知した家康は水口に泊まらずに通過していた。三成の盟友大谷吉継も同じことを考えていた。家康が江戸に到着した頃、三成は大谷吉継は佐和山にて挙兵、ここから島左近の新たな家康攻略が始まった。

 1600年7月2日、三成の戦略は。。西軍を結集し、4万ほどの兵とともに上洛してくる家康を三河近辺で迎え撃つことは好機である。三成は大垣城、岐阜城を調略し、美濃の大名衆を味方につけた。次は福島正則の清州城攻略であるが、正則は上杉攻略で出ており、留守をあずかり老臣は開城要請に応じず、説得は難航していた。そこで三成は清州に近い大垣城に本陣を構えたが、左近は熱田に本陣を置くべきと進言したのである。熱田は東海道最大の宿場町で、桑名から熱田までの距離七里は東海道唯一の海の道であった。江戸時代には埋め立てられたが、その前は干潟であり熱田の港は七里の渡しと呼ばれた。熱田に本陣を構えれば、干潟が自然防御となり敵の軍勢を食い止めることができた。しかし左近の進言は三成に採用されることはなかった。

 東軍は大垣城近辺に布陣し、杭瀬川を境に両軍がにらみ合う形になった。9月14日東軍本陣近くの赤坂に家康が到着、左近は杭瀬川の戦いに出た。500騎の左近は杭瀬川を渡ったところで東軍を挑発、これに乗じて東軍は突撃を開始すると左近は一端退却しおびき寄せる作戦が左近のねらいであった。川を渡った東軍に対して左近の伏兵は一斉に射撃した。この時東軍の名のある武将30人ほどが討ち取られたという。家康は、井伊直政や本多忠勝に撤退を命じた。つまり左近は関ケ原の戦い前哨戦で勝利していたのである。好機に乗じて左近は夜襲をかける進言をしたが、三成は関ケ原への転進を決めた。これには小早川秀秋の謀反を封じ込めるためだとされている。かくして9月15日に関ケ原での戦いが始まるのである。左近は三成の最前線で奮闘。ところが左近は銃弾を受けて重傷を負って散った。これを見逃さなかったのが松尾山の秀秋。かくして西軍は総崩れとなった。

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なっちゃん@広島-4-1

2018年09月10日 | 仲山美姫 成島桃香 なっちゃん なつみ

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