恵文王 前356-前311 秦の皇帝:秦は西の端に位置し文化の遅れた国・西戎
┣武王 前329-前307
恵文后 ┣昭襄王 前325-前251
宣太后 ┣━━━┓
唐八子 ┃
┏━━━━━━━━━━━━┛
┗孝文王BC302-250 即位前の称号は安国君
┣荘襄王BC281-247(第30代の君主)
夏姫 ┣政(31代 のちの始皇帝)BC259-210
趙姫BC280-228(趙の出身で絶好前舞の芸妓)西安に伝わる秦腔→中原(文化の中心地)から衣装を採用
┃┃ 秦にとって趙の芸妓は憧れ
┃┣息子
┃嫪毐 BC258-238呂不韋が後宮に送り込んだ巨根(車裂きの刑に処された)
┃
┣政かも
呂不韋(-前235 商人から秦の丞相となる 仲父の称号を得て権勢を振う)
BC260年、趙姫が秦の皇子・子楚と結ばれたが、その年、夫の国・秦が母国・趙に攻め入った。これを長平の戦いという。40万人もの兵が生き埋めとなり、人骨が1995年に発見されたことで、残忍な戦いが本当であったことがわかった。その4か月後、趙姫は子楚の子を長の邯鄲で産んだ。それが始皇帝である。長平の戦いは秦が勢力を拡大する第一歩の戦いであり、生き埋めの背景には秦の国家戦略があったという。この戦いのとき子楚は、長を脱出して秦に戻ると、趙姫とその子は長平に取り残された。さらに秦は長平への戦いをやめなかったというから、趙姫と子の安否は優先されなかった。長平で暮らすこと5年、夫の子楚が即位して荘襄王として第30代の君主となった。一躍王妃と皇子になった二人は、いよいよ長平を脱出し秦に向かったのである。そして3年後子楚が亡くなると、始皇帝が13歳で即位した。趙姫も太后の地位を手に入れた。
司馬遷により記された史記には、この頃から趙姫の密通不義が始まったとある。密通相手が残したものが兵馬俑に残されている。戟と呼ばれる青銅の武器に、相邦・呂不韋の文字が刻まれており、実在の人物であったことの証である。相邦とは国の政治をつかさどる宰相のこと。戦国時代武器は重要な財産であり、これらは王または宰相クラスの人間だけが作ることを許されていた。呂不韋はまだ幼い始皇帝に代わって事実上の権力を得ていた。彼は自らを王を導く存在であるとして仲父と呼ばせていた。元々戦国時代の各国をまたにかけた商人だった呂不韋は、長の都簡単で趙姫と出会い恋仲となった。このとき趙姫は秦の皇子・子楚に見初められ、呂不韋は趙姫を献上した。やがて子楚が王になると古くからの関係を利用して宰相の地位を手に入れた。かつて自分を捨てた呂不韋と秦で再開した趙姫はとめどなく淫らに密通を繰り返した。
2006年、趙姫と同じ太后の陵墓は西安市内で発見された。趙姫の義理の母、始皇帝の祖母・夏太后の陵墓である。遺跡の総面積は17万平米、秦の時代に王族だけに許された十字の形をしている。普通二つある墓室がひとつしかない。司馬遷の史記に記載の独埋葬希望に符合した。秦では王が幼い場合には太后が政務に就いていたという。だから独埋葬も許されたのだろう。これは清の西太后などを除けば秦特有であったという。さらに遺跡からは太后の権威の証・六頭立ての馬車が見つかった。これは王だけが許された権威の象徴であったもの趙姫も同様に王が幼いから政治を執る必要があった。しかし経験不足であったからその相棒に呂不韋を選んだと考えられる。
司馬遷が史記を記したのは紀元前1世紀頃、このころ時の王朝漢の武帝が国家のモラルとして儒教を導入した。夫は妻の天也、儒教は女性の立場を厳しく制限した。かくして当時の人々は儒教の立場から趙姫を悪女とみなすようになった。趙姫は息子とともに始皇帝に対して反旗を翻した嫪毐の乱という汚点がある。呂不韋は危険が及ぶのを恐れて、趙姫に大陰人・嫪毐を与えた。趙姫は嫪毐のとりことなり、やがて隠し子が誕生。これを王位につけるために始皇帝排除を決意する。
当時22歳になっていた始皇帝は李斯を宰相として登用して法の整備を行った。特定の有力者に左右されない新たな国造を進めていたのである。つまりブレーンが呂不韋から李斯にかわった。いよいよ傀儡から脱出しようとしたと考えられる。嫪毐の乱は始皇帝の思惑通りに決着。嫪毐は車裂きの刑に、呂不韋も追放、これを不服とした呂不韋は自ら毒を飲んだ死んだ。趙姫もそれらの関りがあったとして幽閉された。かくして初めて秦の実権を握った始皇帝は他の国々の制服を開始する。そしてわずかに16年で6か国を滅ぼして紀元前221年に中国を統一した。幽閉されていた趙姫はその後始皇帝によって後宮に迎え入れられ紀元前228年に死去。この時始皇帝は都邯鄲に赴き、かつてで趙に暮らしていた時に母に渾名すものを皆生き埋めにしたという。始皇帝は50歳で亡くなると、その4年後の紀元前206年に秦は滅びるのである。何故なのか、兵馬俑で200体以上のバラバラの女性の骨が見つかった。後宮にいた女性で子の居ないものはすべて殺された。命令したのは秦朝の第2代皇帝・胡亥。始皇帝の末子で始皇帝の側近たちを殺戮し、実績は無し。父親を否定したかっただけのようである。ある竹簡が書かれたのは漢の初期、胡亥の行動の詳細を記した最古の資料である。次の王朝は漢、その理念として儒教を導入し浸透していった。