じいの徒然日記

内野聖陽さんにfall in loveしたじいのおバカな毎日を綴った日記

内野さんメモ

10/14~26 芭蕉通夜舟 東京公演
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10/25  映画「八犬伝」公開
11/22 映画「アングリースクワッド」公開

M.バタフライ 東京千秋楽

2022-07-30 18:46:52 | 観劇記
7月10日東京千秋楽の観劇記です。

東京公演の千秋楽 客席も舞台上も昂っていたような空気感、そしていつも以上に熱い熱い演技で……しかもハプニング発生 2幕でソン・リリンが花瓶を割るシーンがあるのですが、割れた花瓶が岡本くんの足に絡まってよろけそうになってヒヤヒヤ 打ち掛けの足元を大きく振り歩きながら避けようとしていたのですが絡まってなかなか離れてくれなかったみたいで大変そうでした。何とか滞りなく進んだのでホッとしましたが、ほんの一瞬が大怪我に繋がるので本当に無事で良かったです

ガリマールの回想、脳内劇場、、、要所要所で登場する友人マイク。今回ふと思ったのが出没するタイミング……ガリマールが「強い西洋人の男」になっている時なのではないかと思ったんですよね。ソン・リリンとの出会いの後だったり、恋愛感情に任せてソンの元に向かう場面だったり、恋の駆け引きをしている時だったり……実際マイクは「俺たち西洋の鬼だからな」と言っているし。。。ガリマールには実際本当にそういう友達がいたのかもしれないけれど、この日はマイク=もう一人のガリマールだったのでは?と思ってしまって……今まで経験したことのないような感情だったり行動だったり、自分には無縁だと思っていたことが起きたことに自分の中でツッコミをいれていたのではないかと思ったり……あるいはガリマール自身の願望や理想がマイクという存在だったのか、はたまた彼自身の中に残っていた理性(と呼ぶべきなのか、正しい存在としていいのか??ではあるのだけれど)だったのかもしれないと思ったり……ふとホッとする存在でもあったりするので不思議な人だなぁと改めて。

ソンが真の姿を見せてガリマールに迫った時に「嘘の方を愛していたのに」と言い放ち外見だけを見て好きになったことを否定しなかった……あ~あ言っちゃったよ と毎回トホホな感じで観ていたのですが、内面は見ていなかったのか?西洋が東洋を蔑ろにしていたのと同じではないのか??それって本当の愛と言えるのか???とアレコレ考えていると想像と妄想は果てしなくてね←それもまた楽しいのですが(苦笑) 男性が創り出した女性を愛する……逆だったらどうだろうかとこれまた観る度に思うこと。女性の方が強かだからガリマールのように引きずられることはないのでは?と考えるのは自分自身が女性だからなのかもしれませんが(そういう区別もどうなんだろう)、女性が創り出した男性(←男がどう振る舞えばいいのか女性が一番分かっている)に対してどう思うのか……憧れる気持ちはあっても愛の対象にはなり得ないから自分の中では分からないというか本当のところは各々誰もが分かっているような、分かっていないようなことがあるのかもしれないと思ったりもするのですが、東洋と西洋にも同じことが言えるのかどうか……“弱い”東洋の裏にある本音を西洋は理解できないけど、西洋は外見でしか東洋を見ていないと言っている東洋の方もまた西洋の本質を見ていない、分かっていないのではないかと……ソンがガリマールの本音の本音、内面の内面まで読み取れなかったように。

脳内劇場の中のソン・リリン。シンプルにMバタフライという作品において物語を進めて観るために客観的?通常モード??舞台上の設定や会話を実際のものとして素直に受け止めればいいのかもしれませんが(真実と事実は違う、でも実際に起きたことではあるんだし・・・)、ガリマールの視点で語られているの脳内劇場の登場人物として捉えると、敢えてソンが男性という現実を見せたり冷酷なソンの姿を現したりするのはもしかしたらガリマールにとっては現実との決別→幻想に生きることを決意した表れではないだろうかと、特に2幕後半を観ながら思いました。裁判で最後までソンが男性ということを知らなかったと言い続けたということになっていますが、それは受け止めきれなかったとか現実逃避というのとは違うのではないだろうかと……本当は男性を愛していてソンのことも受け入れている自分がいることは分かっているのだけれど、プライドや彼の中だけの理性がそれを受け入れることを許さなかったのではないだろうかと感じました。それで行き着いた先が自分の思い描くものを現実にしたい気持ちが創り出したのがあの脳内劇場だったのかもしれないなぁと。。。ソンの愛を受け入れていたらまた違った結末になったのかもしれないですけどね。

ガリマールを罵り迫っていくソンとの対峙シーン。強姦者の視点の反転、西洋と東洋が逆転した設定でのやり取りを見せつけられるこの場面はヒリヒリしながらも爽快だったり しかも西洋の、白人の方が強者の社会であるはずのフランスの地で、西洋人=女性的な立ち位置=ガリマール/東洋人=女性に見せかけて実は男性=ソンというところが本当に興味深い面白味がある。しかも「東洋人である限り男にはなり得ない」といソンの言葉を被せてみると別のものが見えてきて、M.バタフライが単なるオペラの蝶々夫人の復讐の意味合いにはならないような気がして……ソンもまた西洋という他者を理解できていないように思えるのですがどうなんだろうか 自分にとって自分自身があるように他者もまた他者自身を持っている。どんなに相手を理解しようとしても自分自身と同じように理解することはできない……例えばその国の言葉を話せて住み慣れている国であってもそこで生まれ育った人とまるっきり同じにはなれないように。だから相手を尊重しましょうね~ということではなく、不可能なことを認めることが理解の一端ではないのかなぁと、そんなことを考える公演でした。

前回の観劇で気になったラストシーン、、、ソンが獄中のガリマールに微笑みかけた件。今回もう一度気にして観てみたのですが、ガリマールが幻想の世界で生きることを選んだようにソンもまたガリマールを引きずって生きていくように見えました。「バタフライ、バタフライ」という呟きがソンの哀しみそのものに聞こえてきました。お互いがお互いを思っていながらベクトルが違う故に交わらず分かち合えないまま新しい結末を探し続ける人生を歩むのかなぁと思うと何だか切なくて哀しかったなぁ。。。
コメント
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