行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

本日の自分への応援歌

2009-03-05 23:50:37 | Weblog
 「気が狂いそう・・・♪」

 今日はこの歌詞がどうしても頭から離れなかった。仕事中、メロディを思い出しながらこの歌詞の続きを思っていた。「THE BLUE HEARTS」の「人にやさしく」だが、思いっ切りシャウトして歌いたい衝動に駆られた。しかし、私も一応社会人。それをする事はできるが、そうしたら全てが終わってしまう事も分かっている。大人とは息苦しい世界である。

 帰宅した後、続きが気になり、昔購入したCDを探し出した。全てが懐かしい。伝説の名曲ばかりで「何故いまさら・・・?」と思ってしまうが、良い曲は良い。学生時代、時間なんて関係無しに夜中までカラオケで歌い倒した事があった。「情熱の薔薇」、「TRAIN-TRAIN」、「終わらない歌」、「リンダ リンダ」・・・。翌日から数日間、声が出なくなるが、とにかく楽しかった。

 何だか今日は本当に疲れた・・・。パトラッシュ、夢にまで見たルーベンスの絵だ・・・。そして週末はパトラッシュならぬ、おばかなお犬の散歩に駆り出される。

ブログ(日記)を続ける心理

2009-03-05 23:26:58 | Weblog
 何やら面白そうな記事があったので読んでいた。

 希薄な自身の存在を残すためとか、日常の平凡な出来事を特別なものに昇華させる行為だとか、色々好き勝手な事が書かれていた。確かに、と思うところもある。私の場合、日記帳に活字として残す習慣が全く無いのに、ブログでは、割と続けられている。誰かに読んでもらいたい、そういう心理が働いているのかもしれない。自分だけしか読まないものをわざわざ書こうと思わないのが正直な気持ちである。もちろん、義務感で書いているわけでもないし、嫌になったら止めても構わないくらいの気持ちで、両者のバランスがちょうど良いところで釣り合っているのだろう。

京桜

2009-03-03 23:30:08 | Weblog
 日本人が楽しみにしている文化の一つが桜である。花見と称して宴会を催す事が多いが、私は桜に囲まれた空間をただ過ごす事が好きだ。

 自分の近所ででも桜は楽しめる。しかし、以前購入した、るるぶの京都編を眺めていたらやはり、京都で桜を見たい!という気持ちが強くなった。JR東海のキャッチコピー集が掲載されており、仁和寺、毘沙門堂、天龍寺、善峯寺、二条城、円山公園・・・どの桜も美しい。CMのうち、二条城編は感動さえ覚える。『将軍徳川家康はここで辞令を受け、その260年後、15代将軍慶喜は皮肉にもここで辞表を書きました。一つの時代の桜咲くから桜散る、が、ここにあります。』(出典JR東海)
 あのBGMにナレーターの語り口、そして背景・・・、つい引き込まれてしまう。桜咲く季節に京都に行ったのは学生時代。新緑の季節に行った記憶の方が多いが、桜を見て春を楽しみたい、と思い耽ってしまう。

 日帰り姫路行きを強行できたのだから日帰り京都も可能だろうが、せめて3日間くらいは滞在したい。桜の咲くタイミングはこちらの都合に合わせてくれないから、こちらが合わせなければならない。仕事の加減を見ながら今年は強行突破を計画し、実行に向けて虎視眈々と機会をうかがいたい。

御館の乱前後

2009-03-01 23:50:49 | Weblog
 上杉謙信の死因は脳溢血だったという。

 加賀手取川で織田軍の柴田勝家らを難なく撃破し、信長にとって、信玄亡き後の信長包囲網の最大の敵だった。謙信に上洛の意志があったかどうか、以前NHK番組で取り上げていた。結論(と言っても、限り無く可能性の高い推測であるが)は上洛意志はあったとの事。
 当時の地理から見て、越前から北近江に出るルートが確実である。琵琶湖を挟んで、東回りか西回りになる。東回りのルートを選べば安土城、西回りの場合、近江坂本か比叡山に進む事となる。関東管領に就任する頃は関東に固執していたが、武田信玄が健在で、いつ北信濃から越後を狙うか分からない不安が付きまとい、関東平野に出兵しても長期間の滞在は不可能だった。また、越後国内には依然として謙信に心服しない勢力も残っていたため、冬場、雪が越後と上野の国境を阻み、その間反旗を翻されたら帰国できなくなる危険もあり、関東に出陣したまま越冬する事も許されない状況だった。

 信長との直接対決を開始した頃、最大のライバルだった信玄は没し、子の勝頼が当主となった。彼は上杉との停戦を望み、信長に盛んに攻撃を仕掛けていた。状況的には最大の、最後の機会と見ても妥当である。

 その矢先、脳溢血で越後春日山城で他界した。享年49。謙信自身も自分の死を予期せず、明確な後継者を決めていなかった。謙信は毘沙門天に帰依するあまり妻帯せず、実子を持たない。養子として姉の子・景勝と北条家との和睦後、北条から迎えた景虎の2人がいた。血縁では景勝だが、景虎は才色あり、また、謙信が、かつての自身の名であった「景虎」を名乗らせている事から、景虎に対する期待の程がうかがえる。しかも前関東管領上杉憲政も景虎を支持していた。謙信の死直後、遺言があったとする不自然な証言が有り、直江景綱の妻が聞き取って看取ったというのだ。第一、脳溢血で既に倒れている人間が話す事などできず、恐らくは「跡継ぎは景勝でよろしいか」とのみ尋ねたか、或は始めから何も無かったのではないか。景虎側は当然承服できない。ここで景勝と景虎の「御館の乱」が始まる。合戦前、景勝は後継者は自分ではなく景虎ではないか、と自信を喪失して一向に戦意が揚がらなかったが、直江兼続が説得を続け、景虎軍に先制攻撃を仕掛ける。景虎の背後には北条、武田が控え、長期戦になればこの2大勢力とも戦う事になる。景勝軍だけでこれらと戦うのは不可能である。
 ところが、北条本家は景虎を見捨てて何の行動も起こさず、武田勝頼は、直江の献策した軍資金の提供であっさり軍を引いてしまった。北条から養子入りしたため景虎の周囲には兵は集まらなかったが、それでも最後まで戦い続け、部下も北条本家の体たらくを知りながら、孤軍奮闘して散っていった。この結果、景勝が後継者となり謙信の後を継いだ。この頃の北条は老木である。3代氏康が健在なら越後に侵攻する事もあったろう。後に信長が横死した際、速攻で甲斐に進出するべきところを上野の滝川一益を追い払っただけで満足してしまい、結局、秀吉に滅ぼされる。甲斐・信濃は無法地帯と化していたため、天下に覇を唱える気概があるなら、この戦略を執るべきだった。甲信は武田家滅亡直後に新たな支配者となった信長が死に、相次いで支配者が変わり、政情が不安定であった。甲斐の河尻秀隆は一揆との乱戦で戦死、徳川家康は信長の接待に応じ安土、堺に出向き、本能寺の変を知る。明智軍が京の中心地を押さえ、生死不明だった。

 景勝は、天才の後を継いだ重圧のためか、人前で笑顔を見せた事は無く、常に眉間に皺を寄せ厳しい表情であった。たった一度、笑ったことがあり、飼っている猿がいたずらで景勝の烏帽子を奪って木に登り、そこで被って会釈した時に笑ったという。また、家臣も景勝を恐れ、秀吉の全国統一後、富士川を船で渡河する際、人が乗りすぎて今にも沈みそうになった。この時、景勝が合戦時に攻撃の合図をするように持っていた軍扇を振ると、乗っていた者は泳げなくとも慌てて川に飛び込んだ。
 諸侯はこの話を聞いて、景勝の家臣統率に舌を巻いた。

 大河では、今夜の回で謙信が亡くなったらしい。見忘れたため感想は分からないが、景勝が後継者となったのは事実である。