行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

世界遺産・二条城

2009-08-10 23:10:24 | Weblog
 写真は二条城。
 1603年、江戸幕府開府の同年に京都御所の守護、将軍上洛の宿舎として造営し、以後徳川幕府の威光を示す城となった。
 狩野一門の絵画、伏見城の遺構などを組み合わせ、まさに、桃山文化の集大成の建築物として、その姿を今日の我々に見せている。残念ながら天守閣は、1750年の落雷により焼失し、再築されることなく今日に至っている。
 1866年徳川慶喜はこの二条城で征夷大将軍の宣下を受け、1867年大政奉還を行った。15代将軍は、早い時期から朝廷内の評価は高く、将軍後継争いでは、父である徳川斉昭の悪印象から14代将軍慶福に先を越されるが、時代を見るに先見の明があり、当時の国難に立ち向かえるのはこうした優秀な将軍を中心に据えて交渉すべきだったが、時代の皮肉か、安政の大獄で幕府は倒幕すべきものと見做された。
 慶喜への評価は、長州の桂小五郎だったか、「家康の再来」と評価したという。
 視界の広い15代将軍は、幕府を如何に清算するか、と考えていただろう。もはや幕府再興に期待できるほどの実力が無いことを、2度の長州征伐の失敗、準備不足の開国に物価が高騰し、生活をより困窮させた世論の怨嗟を痛切に感じていただろう。

 私は、明治維新の立役者として、徳川慶喜は、より高く評価されてしかるべきだと思っている。およそ革命には流血が避けられないが、最期の土壇場で無血革命を取りまとめた政治力は「家康の再来」でも言い過ぎではないだろう。

 出典はもはや忘却しているが、薩摩を憎む気持ちは一入だったという。長州は始めから幕府へ対抗し、倒幕運動を行っていたが、薩摩はギリギリの所で幕府を裏切り倒幕に回った。もちろん、薩摩には薩摩の事情があり、藩主久光がガチガチの保守派で、倒幕など考えなかったが、新しい日本の建設には新しい国家が必要不可欠と下級藩士が奔走した結果が、幕末のギリギリまで倒幕にならなかったわけで、大久保利通が最後の最後で藩主を騙しきった上での決断だった。新国家の青写真を描けていたのは、大久保、肥前の江藤新平、土佐の坂本龍馬あたりだろう、と思われる。

 今回、霊山博物館に足を延ばさなかったのが、今更ながら悔いに感じる。

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