フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 中国映画『北京バイオリン』とテレビドラマ『北京ヴァイオリン』を見ました。 作品としては映画版が先で2002年の制作、その後テレビドラマが制作されました。テレビドラマは日本でも2007年にBSで放送され、最近まで地上波でも放送されました。
 映画もテレビドラマも基本のストーリーは同じですが、2時間ほどの映画と24回にもなるテレビドラマとでは、かなり違うところがあります。それは当然のことなのですが、私はテレビドラマ版を見てから映画を見たので、テレビドラマ版の脚色が映画版にほとんどないことに驚きました。
          
《ここからネタバレあります》
 一番違うと感じたことは、出来事の見せる順序です。これは少し文学研究の用語になってしまいますが、ストーリーとプロットの違いとも言えるでしょう。基本の設定として「息子思いの人のいい父親・劉成」と「その息子であるヴァイオリンの天才少年・小春」の話です。映画の方は、この親子の秘密が後から明かされるのですが、テレビドラマの方は最初に出てきます。テレビドラマが時間の順序にしたがって出来事を見せているのに対して、映画は後から過去にさかのぼって秘密を明かしているのです。
 このこと自体はどちらがよいとも思わないのですが、テレビドラマ版では映画版にない出来事が多く出てきます。特に父親・劉成が駅で捨て子を拾う前に、悪い仲間にそそのかされて盗みに入り、それが見つかって刑務所に入っていたことなどが描かれます。また、恋人がいたにもかかわらず、すぐカッとなる性格でうまくいかないことも描かれていました。また、捨て子をいったん警察が引き取ったのに、劉成がその子を盗み出して北京から逃亡するところもテレビドラマ独自の場面として描かれていました。
 こうしたエピソードが多く描かれていることから、私はテレビドラマの劉成が捨て子を拾って育てることにかなり強い違和感を持ちました。それは、刑務所に入っていた人が子どもを育ててはいけないという意味ではけっしてありません。そうではなくて、自分の生活さえきちんとできない人が、子どもを警察から盗み出すという犯罪をさらに重ねてしまうというところが気になりました。いくら後から子どもを大切に育てたとしても、です。
 もちろん、劉成が捨て子を引き取り育てていくことで自分の人生にも目標ができ、立ち直っていったという意味もあったことでしょう。しかし、子どもを盗み出すというのは子どもの人生を奪ってしまうことでもあり、いくら大切に育てたと言っても子どもを盗み出すのはかなりたちの悪い犯罪ですから、私はこの行為を受け入れることができませんでした。
          
 さらに、北京で小春がヴァイオリンを習う先生が実は小春の祖父だったとか、親しくしてくれた人が実は小春の父親だったとか、テレビドラマ版には「やりすぎ」と思えるようなあり得ない展開がしばしば出てきます。そんなことも含めて考えると、テレビドラマ版の方はちょっとどうかな、と思う内容で、それを先に見てしまったためにかなり先入観を持ってしまったように思います。先に映画の方を見るべきだったかもしれません。

 映画版は、かなりベタな作りとも言えますが、テレビドラマ版の余分なものがないことがうまく作用しているように思えました。 小春が捨て子となった理由や劉成が拾って育てるまでの経緯などが映画版には描かれていません。そのあたりは視聴者の想像に委ねられるわけで、それだけ無用な限定をされずに済んでいるとも言えます。
 テレビドラマよりも映画そのものを、メディアとして優位に置く人が多いなかで、私はテレビドラマにより興味をひかれる少数派の人間だと思っています(→ 「テレビドラマのよいところ」 )。しかし、『北京ヴァイオリン』に関しては、映画版のシンプルさがテレビドラマ版の過剰な描き込みを上回ったのではないかと感じました。

          



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