うろこ玉絵日記

日々のなにげない一こまを絵日記にしてみました。大阪に近い奈良県在住です。
マウスでかいてまーす。

さよなら大河原さん

2014-12-14 | Weblog
大河原さん、10月に亡くなっていた。
神奈川にいたときは時折手紙をやりとりしていたけれど、奈良にきてからはお互い疎遠になっていた。もっとしつこく連絡すればよかった。


大河原孝一さんの過去の記事


大河原さんは、教育勅語、軍人勅諭を徹底的に叩き込まれ、競うように序列の上位に立とうとした。
命を投げ出して国難に当たるのが栄誉であると、侵略へと突き進むひとつの歯車になっていった。


「誰からもこの戦争がなぜ、何のために起きているの聞くこともなければ考えることもしなかった」


山ひとつ見当たらない広大な平野を行軍し、雨に濡れた古兵の軍服を乾かす為に中国人の家の箪笥、家の扉、大切な農具を奪って燃やすのを見てショックを受けたと言う。


「これが中国で続けていく仕事なのか」と考えたけれど、命令されるがままにありとあらゆるものの強奪に加担していった。


敗戦後、ソビエトを経て撫順戦犯管理所へ。
当時の中国の日本人戦犯への政策は
「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり殴ったりしてはならない。一人の死亡者、一人の逃亡者も出してはいけない」
「罵ったり手をあげてはいけない。医療の完全を期し、一人も死なせてはならない」
というものだった。


管理所で働く人の多くは日本人に家族を殺されていたので、中央には何度も転勤の要求や、極刑をという意見が出されたものの
「15年先、20年先に結果は出る」とそのつど要求は却下されたという。周恩来の政策。


極刑も覚悟していたけれど寛大政策によって全員起訴免除。
やっと懐かしい祖国の地を踏めば、今度は「中共帰り」という差別が待っていた。
「洗脳組だ」「アカだ」と誹謗され、公安にもつきまとわれ、歴史修正主義には中傷され続けた。それでも加害証言を死ぬまで続けてきた大河原さん。




奈良まで持ってきてた。-2007年の「自然と人間」から抜粋する。


『特集 戦禍の記憶 元兵士が加害を語るまで』

92年12月8日、札幌で開かれた「戦禍を語り継ぐ集い」で大河原さんは自らの体験を話した。大勢の前で証言するのは初めてのことだった。
この話を聞いた小学校の先生が、子どもたちにも戦争体験を教えてほしいと大河原さんに依頼した。
子どもたちにどう言えばいいのか自信はなかったが、自分の話でよければと引き受けた。
大河原さんの話を子どもたちはしーんと聞いていたという。
話は、1944年秋の討伐作戦、宿営していた農家の近くをうろついていた農民を捕まえる場面へと進んでいく。

年の頃は40歳前後の非常に身体のがっちりした、手の節もごつごつした丈夫そうな農民でした。
小隊長はわたしに「大河原、お前がこいつを殺せ」と命令しました。
私は、それまで軍隊に入ってから人を殺したことは一回もなかったものですから、非常に緊張しました。
しかし、命令だから、軍隊では聞かないわけにはいかないんです。それで、どうやって処理しようかと考えて、まず、私の部隊の初年兵に命じて、銃に剣をつけさせてですね、
「突く用意をしなさい」と言って、一方、別の初年兵には連れてきた男を、庭の一番隅にあった井戸の前に立たせました。
そして、初年兵に私は「お前、あの男を突け」と命じたんです。
二人の初年兵が代わる代わる突いたんだけど、恐ろしくて、とても突けないんです。
人をあやめる、人を殺すということは全くやったことのないことで、とても恐ろしくなるんですね。
それで、大きな声で「突け」と怒鳴って命令する。
そうすると初年兵は何とか命令に従おうと思って突く。突くけどね、やっぱりそばまで行ったら恐ろしくて突けないんだなあ。
だから銃剣の先がここにぶつかるんです。そうすると農民が着てる服、秋だからまだシャツです。
そのシャツにだんだんだんだん血が染みてくるんです。何回も突くから傷つくでしょ。
それを見ていた私は「これはいかん」と思って「その銃剣をオレによこせ」と、そして銃剣をもらって
「お前たちいいか、日頃言っているとおりにやれば突けるんだ。見てろ」と言って、その農民を初年兵に教えているように「えいっ」と動作して突きました。
初めてのことです。もちろん恐ろしかったです。
しかしわたしは逃げることも隠れることもできない。自分が教育した初年兵もいる。分隊長も見てる。
そこでは腹を決めて私はびっと刺した。
そうしたらねえ、体がね、あの重い体がぐうっと寄ってくるんです。重いんです。
そして、その農民は口から血をだあっと出しました。心臓を突いてますからね。口から血が出ました。
そして、これはまずいと思って、すぐ、その向こうにある井戸まで押していって突き落としたんです。
そして、私は分隊長に「大河原はあの男を処理しました」と報告しました。
報告が終わって、私は自分の気持ちがなかなか落ち着きませんでした。
しかし夕方になって皆といっしょにご飯を食べるとき、ご飯も食べられたし、夜眠ることもできたことを覚えています。


長いインタビューの中でのこと「何度も話をしている」と言いながらも、中国人殺害に話が及ぶと、大河原さんの目に涙が浮かぶ。
自らを問うことのどれほど辛く苦しかったことかが伝わってくる。
小学校での1時間ほどの話を終えたあとに、一人の子どもから「戦争をして一番つらかったことは」と尋ねられ大河原さんはこう答えたという。
「一番つらかったことは人を殺すことだよ。それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ。しかし、人を殺すということは、やっぱり自分の心を殺すことだ」

抜粋終わり。




大河原さんの優しくて力強い声は今でも記憶に残っています。本当に寂しい。


侵略されている被害者の立場からすれば、勝手にこちらまで出張ってこられて、たとえ殺しはしなくたって略奪や連行や強姦をされて
「それがなければ、雨が降ろうが寒さが来ようがひもじい思いをしようがまだ乗り越えられるよ」なんていわれたって知ったこっちゃない迷惑な話なのだと、今読めば思うけど。


加害と被害がほぐれない、いばらのように複雑にからみあっている。



大河原さんたちは歴史修正主義者の跳梁を許すな、と中帰連を結成して訴えつづけてきた。
それなのに。いまのこの惨状だ。



わたしはこの国が本当におそろしい。大河原さんや、皇軍兵士たちに殺され、じゅうりんされてきた人たちの声は、どこにも届いていないのではないか。


大河原さん、わたしたちは本当に力不足ですね。










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4 コメント

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Unknown (der Reisende)
2014-12-14 19:50:22
過去の記事は、下曽我の会館で話を聞いた、あのときでしょうか。
このコメントを書いている時点では、まだ開票速報前の時間ですが、なくなった人に、日本の行く末、同じことを繰り返してまた国を滅ぼしたところを見なくて済んだなんて言わせないように、私たちが踏ん張らなければね。
あきらめるわけにはいかない (にんぎょ)
2014-12-14 23:21:52
大河原さんお亡くなりになっていたのですね。残念です。今日の衆議院議員選挙の結果が報道されていますが厳しい結果になっています。しかし、あきらめるわけには行きません。大河原さんをはじめとする戦争体験者の思いを受け継いで進んでいこうと思います。
der Reisende (うろ子)
2014-12-16 09:44:59
コメントありがとうございます。
選挙の結果もまあ予想通りだったけど、本当にこの国の人は過去にしてきたことを学ばないね。

絶望的ですが、生きていかなくてはなりません。
にんぎょさま (うろ子)
2014-12-16 09:45:57
残念ですね。
なんとも言葉がありませんが、それでもあきらめてはいけませんね。

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