ミスタードラゴンズ逝く・・・悲しいすぎる

2020年01月23日 | 日記

※YouTubeからお借りしました。

中日ドラゴンズで活躍して「ミスター・ドラゴンズ」と称され、監督も務めた高木守道さんが1月17日午前4時、急性心不全で死去した。78歳だった。
岐阜市出身。県立岐阜商3年の春に選抜高校野球大会に出場し、準優勝。1960年、中日に入団。俊足、好打の二塁手として中心選手になり、63年(50盗塁)、65年(44盗塁)、73年(28盗塁)と3度、盗塁王に輝いた。堅実にして華麗なグラブさばきは球界屈指とたたえられ、「バックトス」は代名詞のプレーになった。
80年の引退後はコーチや野球解説者を務めた後、92年、中日の監督に就任したが、最下位。翌年は2位で、94年は巨人と最終戦で勝った方がリーグ優勝という試合で敗れた。95年に退任。2012年、落合監督の後を受けて2度目の監督に就き、2位。13年はチーム12年ぶりのBクラス(4位)と振るわず、辞任した。06年野球殿堂入り。
※ニュース記事を引用させて頂きました。

私がプロ野球の魅力に引き込んでくれたのは昭和の大HERO守道さんでした。
あの頃ドラゴンズの1.2番を担った、背番号#1高木守道さん、背番号#3中暁生(この頃の〝としお〟の漢字が中さんのイメージ)さんが本当に大大好きでした。
子供ながらに高木さんのバッティングフォーム(ちょっと背中を丸めぎみに構える)や中さんのバッティングフォーム(前足をちょんちょんとタイミングを取る)のまねを友達たちとしてました。

何と言ってもブラウン管越しに見た、1974年の讀賣V10を阻止しリーグ優勝した瞬間は今でも脳裏に焼き付いてます。


即、翌年から少年ドラゴンズに入会しました。
確か年会費は500円でCDマークの帽子(つばの裏に少年ドラゴンズ会員と刻まれてた)と外野子供券12枚位とクッションが付いてた記憶だったはず!?
CDマークは刺繍でカッコ良かったことは鮮明に覚えてます。

1/12(日)、あの日もいつも通り13時からの『板東サンデー』を聴いていた。
番組後半の内容はドラゴンズでコーチを歴任した(1981~83=82はリーグ優勝)讀賣のV9戦士・黒江透修さんの話題でした。
板東さんが「たいした選手でなかった」などと好き勝手話てるのを守道さんは横で黙って聞いていた様子でした。最後に来週は番組編成上イレギュラーで16時からと番組予告があり、板東さんが「そんな時間からだったらホステスのお姉ちゃん同伴で放送局に来る」と言いながら、色々守道さんと板東さんでおもしろおかしくエピソードを語りながら番組が終わって行きました。
それが守道さんのご存命中最後の生放送での肉声となりました…。

ユニフォーム姿最後の勇姿を生で見たのは2013年シーズン。4位という成績で退任することとなり、ナゴヤドームラストゲームでの挨拶でした。
思い出は2012年シーズン。
リーグ2位となりCS進出。CS.1stを勝ち上がり、東京ドームCS.Finalを3連勝し、1敗のアドバンテージを含む3勝1敗と日本シリーズ進出王手をかけた。
その後ドラゴンズが1敗したのが悔しく応援せねばと、いても立ってもおれず観戦予定もなかったがネットオークションでプラチナチケットを手に入れ東京ドームに向かいました。
結果連敗し、悔しながら夜行バスで翌日の朝方名古屋に着きました。帰宅せず仕事へ。どうしても守道さんの胴上げが見たいとまたまたオークションで高くはね上がったプラチナチケットを入手し夕方新幹線に飛び乗りました。2-4惜敗でした…。守道さんの胴上げを見ることなく2012年シーズンが終わりました。
結局、守道さんは監督で2度6年間あと一歩のところばかりで一度も胴上げされることなく悲運の将のままあの世へ逝ってしまいました。
現役時はとにかくプレーを魅せる、立ち振舞いのカッコいい選手でした。
〝バックトス〟は守道さんの代名詞であり”いぶし銀“と称される様になりました。
監督時は勝てるゲームは全力で勝ちに行く采配、好きでした。コーチや選手らと衝突もあったと聞きますが、僕ら見てるファンは客観的や他人事の様な振る舞いをする監督より、現場で熱くなり勝負事にとことんこだわる監督を応援したくなるものです。

最後に中日球団主催による追悼セレモニーを検討していると球団代表のコメントがありましたが、中日ドラゴンズ一筋のドラゴンズ愛に満ち溢れた〝ミスタードラゴンズ〟に最大級の追悼セレモニーを是非ともお願いしたい。

守道さん、これからもドラゴンズをどうか見守って下さい。
心よりご冥福をお祈りいたします。