設計事務所の裏窓

夫は建築士。設計事務所をやってます。
裏から眺めた感想、日々の独り言。
不定期便で頑張ります~!

「叱る」行為

2004年11月15日 17時04分35秒 | 独り言
人を叱るというのは難しい。
それに比べて 人を怒るというのは なんと簡単な事だろう。
「怒る」という行為の裏には 当たり散らす自分もいて 大層感情的な
自分がいる。それは 感情的なだけに 相手には大ダメージを与えられるし
相手を屈服させる事も簡単だ。でも それだけでは問題は解決出来てない。

毎回 子供に対して「怒っている」ばかりの自分は頭では こうやって
超理想の躾学がわかっていながら 全く出来ていない。

自分の子供がまだまだ 小さかった頃は「公園デビュー」という言葉が
巷に出始め それと共によく「虐待」という事件もテレビでやっていた。
やれ家にいる母親が孤独だとか 母親自体が大人になっていないから
夫婦の疎通が出来ていない 地域の繋がりがない等々 虐待をおこした
母親像を 事細かに こうじゃないか ああじゃないかと報道していたものだ。

でも自分は毎回 このような事件が起きるたびに いつも皆のこういう
視線とは全く別の視線でこういう事件を見ていた。それは
「事件性になるのは紙一重。そんな自分は 結構いるのでは・・・・」
という大層 今考えれば空恐ろしい考えだ。そんな考えに落ち込むほど
あの頃の自分は 子供を育てているという感触でなく 毎日終わらせるという
言葉がピッタリなほど 余裕のない毎日だったのだ。

大昔は 洗たく機もなく掃除機もなく 母達は多くの家事と多くの子供に
追われ しかも老人を介護しているような家庭もあって それでも
「子供が大変だ」などと息切れしている母は少なかった。
そうやって何も大した事をしていない自分が たかが年子のたった二人の
男の子を育てる事に 息切れしている自体 自分自身が情けなくなる。

要は悪循環の繰り返しだ。
母が余裕ない。それは感染病のように子供に伝わり 子供自身も何か
満たされない。大人が困る事ばかり繰返す。それを何かの子供が出す
サインだとは全く気がつかず またひたすら「叱る」のではなく
「怒り 力でねじ伏せる」これがエスカレートしたもの もしくは
自分が親であるとか 大人であるとかの タカがすっぱり抜けたとき
「虐待」という行為が起きてしまう時もあるのではないだろうか・・・・・

長男の背中を思いっきり 叩いた事があった。
何で そうなったのか もう記憶もさだかでないが あの時の自分の
手の痛さは痛烈に覚えている。まだ2歳代の幼い長男に大人が痛いと
感じるほどの叩きは 一歩間違えれば 本当にぞっとする。
あの時手を上げた自分は 完全に「怒っていた」そんな鬼のような母に
確か長男は泣きながらしがみついてきた。叩かれても叩かれても
自分にしがみつく息子を見て しばし途方にくれた記憶もある。

今は立てば ほぼ目線がちょっと近づきある息子。
さすがに手が痛くなるほどの「怒り」の場面はないにしても
口で態度で いつも彼らをしっかり冷静に親として「叱る」時に
毎度「怒っている」自分がいる。

しっかり「叱る」というのは「褒める」事よりも 実は難しい。
こんな課題がいっぱいあるから未熟な自分は 毎度「親」という
仕事に毎日息切れを いまだにしている。情けなしの毎日だ・・・・・