大いなるもの

悟り、覚醒、真理、瞑想、リラックス

気づきの前は体調を壊している

2019-02-10 11:18:41 | この世の生き方

これまでに、僕にとっての二度の『大いなる気づき』があったわけですけども、どちらもね、しんどかった時とか体調を壊した時の後に起きてるんですよ。

どちらの気づきも、苦しみがきっかけになっている。

一度目の気づきは、今から7年以上前ですよ。

当時、過労や職場の人間関係から、本格的なうつ病になって、その後医学的に寛解と言われても、不安とか恐怖が消えなくてどうしようもなくて、毎日毎日何年間も本を読み漁ってたんですね。


スピリチュアルとか精神医学とか哲学とか、いろんな本を読み漁り、「幸せはどこだ?幸せはどこだ?」って幸せを渇望していました。

そして、不安と恐怖が消えず、絶望さえも通り越したその先に、大いなる気づきがあったわけです。

 

それから7年間くらいの間、どちらかというとこの世のアレコレに埋没していました。

大いなる気づきがあったからといって、俗世間を捨てて山籠もりというのではなく、実社会と向き合って生きて来たわけです。

仕事も、結構頑張ったしね。


この7年間、どんなにハードな時であっても、いつも「『大いなるもの』を携えて」生きてきた。

なので、少々のコトが起きても大丈夫だったんですよ。

だけどね、いま振り返ると、『この世的な観点』では、僕はまだまだ甘かったな、と思うんですね。

いくらあの世界を垣間見たとか、覚醒とか大いなる気づきとか言ったって、例えば、自分の生活を支える仕事においては、「上手く」立ち回らないといけない。

そうでないと結果的に、自分が追い込まれていってしまうっていうのは、やはりあるじゃないですか、現実的には。

そのことが良いか悪いかは置いといて、この資本主義社会は競争原理だから、実社会においては致し方ないことなんですよね。


僕の基本的なスタンスとしては、一度目の大いなる気づきを得て、職場でもすごく穏やかに過ごせてたんですね。

何年間も、結構忙しい時もあったけど、それでも大丈夫だったんですよ。

いつも、『大いなる気づき』を携えて生きていたからね。

 

だけど、特に最後の1、2年ぐらいは、本当に、自分がこの世的な観点で見ると「あまちゃん」だなって思うんです。

競争の世の中で『大いなる気づき』を携えて生きていっても、上記の「上手く」立ち回ることをしないとね、結構大変なんですよ。

人に優しくしたり、人を受け入れたり、許容したりしても、残念ながら、それを好意的にとってくれる人ばかりじゃない。

むしろ、いいように利用されてしまう事ってあるんです。

 

そこを、僕は割り切って、スイッチを切り替えることが、まだ不十分だったんですよね。

だから、どんどん追い込まれて、うつになってしまったのでしょう。

まぁ、精神的な問題以前に、晩御飯は夜の12時過ぎでみたいな生活をしていたら、肉体的にまずおかしくなりますよね。

どんなに遅くなっても、次の日朝早く通常通りに仕事を始めるのだから。

 

当時の職場の組織としての問題も、やはりあったと思うんですよ。

僕は仕事量が多いこと自体は、それほど苦にならなかったのですが、とにかく仕事がアンコントローラブル。

これが、心身にこたえた。

あと、特定の誰それにも責任の一端はやはりある、と僕は思っています。

この世的な観点で振り返った場合、僕が体調を壊したのは「100%僕の責任」とは言い切れないと思っています。

しかし、仕事や職場や誰それを非難する意図ではありません。

自身を振り返るプロセスを経て、辿り着いた結論を素直に吐露しているだけです。

 

そして体調を壊した主たる原因は、やはり僕にあるのだという結論なんです。

それが、競争原理であるこの世を「上手く」生き抜くことができなかった点にある、ということです。

『大いなる気づき』を携えて生きるのは良いのですが、それがすべての人や組織に通用するわけではないんです。

いくら許容や優しさを大切にしても、それが通用しないケースは多々ある。

むしろ、利用されナメられることさえあるんですよ、残念ながらね。

そして、その根本原因は僕にあった。

この世の実社会を生きる術と、あの世の『大いなるもの』の世界を、調和・統合するのが、きっと不十分だったんです。

当時は、『この世的感性』と『あの世的感性』を車の両輪のごとく使いこなしているつもりでしたが、まだ、甘かった。

それが、当時のぼくが「あまちゃん」だと書いた理由です。

 

 

こんな感じでね、当時、まずは肉体的におかしくなって、更に精神的に病んでいったわけです。

そして、しばらく休息を余儀なくされて、昨年の夏ぐらいからだんだん元の生活に戻って、体調も戻って、労働環境もまともなところに就けたという状況なんです。

ようやく、人間らしい生活ができるようになったな、という実感があります。

 

これからの人生は、まずは自分を大切にすること。

人を許容し人に優しくするのは素敵なことだけど、まずは自分ですね。

当時は、いつの間にか無意識的に自分を雑に扱っていたのだ、思います。反省!

 

そして今後も、『あの世的な感性』である『大いなるもの』の世界は携えていきていく。

ただし、『この世的な感性』もしっかりと実践していく。

今度こそ、車の両輪のごとく、「共に在る」ように生きたいと思います。

それは、気づきの『定着』と言いかえられるのかもしれませんね。

当時、「本当に」気づきが定着していたなら、体調を壊すことも無かったんじゃないかと思いますよ。

まだまだだねぇ、僕も。

だけどね、おかげさまで人生の『指針』がかっちりと定まりましたよ。

 

僕は『大いなるもの』を携えて生きていく、何があっても。

同時に、『この世的な感性』もないがしろにしない。

車の両輪の完成は、いつになるんでしょうかね?

 

つい先月の二度目の気づきで、更に心境が大きく変わってきたとこですし。。

完成は、すぐそこまで来ているのかもしれないし、これから少々長い修行になるのかもしれない。

あるいは、そもそも今生での完成は無いのかもしれない。

いずれにせよ、『大いなるもの』を携えることは止めませんし、これからの人生が楽しみではあります。

 

この世は大きな『経験劇場』です。

全ての経験は必然でありムダは無い。

大いなるものに抱かれ、大いなる自身で在り、いまここに、在る。

あなたの今日が素敵に成りますように(祈)

 

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