大いなるもの

悟り、覚醒、真理、瞑想、リラックス

目覚めるともう戻れない

2019-02-15 05:49:48 | 目覚めの後の生き方

僕たちの『いのちの大元』に気づくこと。

僕たちの『本質』に気づくこと。

そのことを、このブログでは『大いなる気づき』と呼んでいます。


『真実』をほんの一瞬垣間見ただけではありますが、僕の場合は二度の気づきがありました。

そして、一度でも気づくと、そのことを伝えたくなる。

あるいは、その世界は静かで穏やかな世界ですから、その世界の感覚を、この世の日常に持ち込みたくなる。


例えば、仕事をしている時に、相手を受容・許容するとか優しく接するとかね。

それは、自我による恐れ・不安・不満・愚痴といった世界とは、まったく異なる世界です。

このような感覚を仕事なんかの日常生活に持ち込みたくなるし、実際僕はそのようにしていました。


しかし、競争社会であるこの世では、なかなかそれが通用するとは限らないんですね。

受容や許容を良心的に捉えてくれる人達ばっかりだったらいいんですけども、残念ながらそうではなかったりします。

先日のブログでは、大いなるものである『あの世の感覚』と、いわゆる普通の感覚である『この世の感覚』の調和・統合を、高いレベルでできればいいんじゃないか、みたいなことを書きました。


しかし、どうなんでしょうね。

例えば、チベットの瞑想の達人を連れて来たとして。

要は悟りを極めた人、気づきがトコトン定着した人ならどうなるんだろうという話です。

こんな人が、家族がいてその仕事で生計を立てなければならないという状況になって、仕事で納期のプレッシャーがある中で、毎日深夜まで残業することになったとする。

そんな状況になっても、瞑想の達人は平気なんですかね?

悟りを極めた人なら大丈夫なんですかね?

皮肉で言っているのではなく、素朴に「どうなんやろ?」って思うんですよ。


やっぱり平気なんだろうな。。

自我が究極に消失の状態がずっと続くんですよね、悟りの達人って。

ならば、どんな過酷な状況でも、平気なんだろうな~。


僕はまだそんなレベルには、全然達してなくって、単に『真実』を一瞬垣間見ただけの人間なのでね、到底ムリです。

『真実』をチラ見しただけの人間ですので、全然まだまだ俗人っぽいですよ。

『この世の感覚』と『あの世の感覚』の統合・調和には、まだ程遠いわけです。

いえね、何もない平和な時なら言えますよ、「この世の感覚とあの世の感覚の統合・調和が大切です」って。

だけど、実社会の様々なシーンで可能ですかって話なんです。

 

かつて体調を壊すに至った、あの時の僕はどうすべきだったのか、と今振り返ると、『この世の感覚』と『あの世の感覚』統合・調和を目指すのではなく、割り切りが大切だったんじゃないのかな、と思うわけです。

仕事をする時は、基本スタンスは『この世の感覚』で生きる。

自我による苦しみが大きくなった時に、その時だけスポット的に『あの世の感覚』を取り入れる。

仕事が終われば、『あの世の感覚』をメインで生きる。

そういうふうに、シーンごとに割り切ればよかったんじゃないかな、と思うわけです。

そして今後は、そのように生きて行こうと思っています。

要は、当時の僕は中途半端な統合・調和だったわけですよ。

割り切りが完全に出来るようになった後に、統合・調和を目指す道が啓けていくのではないかな、とも感じます。

 

『真実』を一度でも垣間見ると、もう元の世界には戻れない。

なので、垣間見た後の生き方が非常に大切になるわけですね。

では、またね。

 

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ジャッジメントとストーリーで苦しみを製造するのは止める

2019-02-13 23:59:59 | この世の生き方

この世ではいろんなことが起きます。

嬉しいこと楽しいこと、悲しいこと辛いこと苦しいこと、本当にたくさんの出来事が日々起きますね。

そして、普段の僕たちは、その出来事をそのままニュートラルに受け取ることができていません。

必ずそこに、脳内ストーリーがつくられます。

 

出来事を淡々と受け止めて、やるべきことを淡々とやるということができれば、どんなに日々、心穏やかに疲れずにラクに過ごせることでしょうか。

しかし、出来事に対して脳内ストーリーがつくられますと、心はイライラして怒り・不安・恐れなんかの感情で、疲れ果ててしまいます。

目の前の出来事や人の言ったことに対して、脳内でジャッジメントするんですよ、普通に生きていると。

 

「また僕のことをバカにした!」「また無理やり僕に仕事を押し付けようとしている!」とかね。

こんな感じで脳内でジャッジメントして脳内ストーリーが作られる。

でもね、それって大抵の場合は思い込みなんですよ。

 

自分の限られた経験や記憶によって、判断をして自分の脳の中でストーリーを勝手に作っている。

そして、そのストーリーで苦しんでいる。

この際、そのストーリーが正しいかどうかなんて関係ありません。

要は、自分が苦しい生き方をしたいか、心静かで楽な生き方をしたいかの、どっちを選びますかっていう話です。

 

そもそもね、自分「の」ストーリーですからね。

自我が作ったストーリーですよ。

自分がこれまで生きてきた中で身につけた、記憶や価値観なんかに基づいて、ストーリーを作っているわけだから、自分にとって正しいだけなんですよ。

 

自分にとってだけ正しい、つまり思い込みなんです。

もっと言うと、万人にとって正しいストーリーなんてありません。

それぞれ各人にとってだけ正しいわけだからね。

だからなおさら、そのストーリーの是非を問うことなんか、ナンセンスなんです。

 

各自がそれぞれの思い込みでストーリーを展開して、各自がそれぞれで苦しんでいる。

そろそろ、そういう生き方から脱却しませんか?

ナンセンスでしょ?そんな生き方。

人生という時間限定のこの世を、そんな生き方しちゃ勿体ないと思うんですよね。

 

もうね、決めてしまった方がいいんですよ。

何が起きても、ただやるべきことを淡々とやる。

脳内ストーリーが展開してきたら、「ああ、今脳内でストーリーを作ってるな」と気づく。

これだけで、1日の疲れ方が全然違ってきます。

 

僕もまだまだですが、それでも以前よりも随分楽な生き方をするようになってます。

皆さんもよろしければどうでしょうか。

今日からさわやかな毎日を生きましょう!

では、またね。

 

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この世の出来事は必然だけど受け入れても受け入れなくてもいいよ

2019-02-12 23:59:59 | 真理

僕たちの本質に気づくこと、そのことをこのブログでは『大いなる気づき』と読んでいます。

僕たちの本質は、普段思っている『自分』ではないんです。

普段思っている自分とは違う、『もう一人の自分』があって、それこそが僕たちの本質です。


もう一人の自分はいのちの根っこであり、僕たちをこのように存在せしめている大元です。

そしてすべての人たち、すべての存在の根っこが、『それ』なんです。

つまり、根っこではみんな僕たちは同じひとつのものなんですね。


僕の場合、その大いなる気づきが二度ありました。

二度パッと一瞬でしたけども観てしまいました。


一度目の気づきは、価値観・世界観の崩壊を起こしました。

今まであると思ってたものが無くって、無いと思っていたものがあって、世界が全く違って見えるようになったということです。

二度目の気づきは、実社会での生活、すなわちこの世的な感覚に埋没していた僕を、あらためて、あの世すなわち大いなる存在の静かで穏やかな世界に引き戻す、という役割を担ってくれました。


このタイミングで二度目の気づきが起きて、この世の感覚からあの世の感覚へ、大きく引き戻されたということは、実社会の生活に埋没するのも、そろそろ十分なんじゃないかと、そんなメッセージのようにも感じる今日この頃です。

二度の気づきのどちらとも、体調を壊した後に起きています。

そして、そのことは必然だったということが腑に落ちます。

 

二度の気づきのどちらとも、体調を壊すということがなければ、起きなかった。

そして、今の僕も無かった。

このことが、気づきを経ると腑に落ちるんです。

 

大いなる気づきを経ると、この世の全ての出来事が必然であり、実はそれらは完璧に調和されている。

全ての出来事に、無駄がない。

すべて必然ということが、嫌というほど分かります。

 

僕たちはその出来事を通じて、経験を自分自身の奥底に刻み込んで行きます。

普段の僕たちの感覚では、自我として生きていますので、その出来事を「自分で」あるいは「一人で」経験していると思っています。

しかし、本当はそうじゃなくって、『大いなるもの』として、あるいは『全体』として経験しているんです。

決して、あなた一人ぼっちで経験しているんじゃない、ということです。

どんな経験も、実は全体でやっている。

実は辛い苦しいことも、全体で経験しているんです。

 

経験によっては、自我という感覚からすれば、理不尽なこともあるでしょう。

だけれども、大いなるものとして、そしてそこから顕現する僕たちとして、全てをひっくるめた『全体』、その全体にとって必要な経験が、今そこで起きているんだと。

そして、その経験を避けて通ることはできない。

必然なので、避けることはできません。もう、腹をくくるしかないんです。

身も蓋も無い言い方をすれば、「じたばたしても無駄」ということです。

冷たい言い方に聞こえますか?

 

でもね、腹をくくるしかないんですよ。

必要な経験は必ず起きる。

起きることは、絶対起きるんだから。

 

その経験から何を学ぶか、そして、その後どう生きていくか、そのことを自身で考えて歩んで行く。

そうすることで、人生の妙味が出てくるんじゃないでしょうか。

 

しかしね、全ての出来事が必然だからって、無気力・自暴自棄になる必要はないですよ。

僕たちは「自由意思を味わえる」という感覚を、大いなるものからギフトとして与えられている。

だからその感覚を存分に味わって、自分で考え自分で人生を切り拓いていけばいいわけです。

文章だけみると、なんだか矛盾しているように感じるかもしれないけど、僕たちはある意味『自我』としての自分と『大いなるもの』としての自分という二面性を持っている。

本当は二面性でさえないんだけどね、あくまで「ある意味」ね。

だから、二面性に悩み二面性に振り回されるのではなく、二面性を理解し人生を素敵に生きることにつなげられたら、それで良いのではないでしょうか。

 

人生では本当に色々起きます。理不尽なことも沢山ある。

すべての出来事を無条件に受け入れるなんて、とても出来ないかもしれない。

でもそれでも、あなたに『大いなるもの』が沁み込んでいて、奇跡ともいえる『いのちの息吹』が吹き込まれていることは、ひとときも変わらない真実です。

それは、静謐で穏やかな世界が、実はあなたの本質ということです。

そのことを、想い出すのも忘れ去るのも自由です。

もしかしたら、想いだすのも辛くなったその先に、真理の扉が啓けるのかもしれません。

いま祈ります。あなたに気づきの訪れることを。

あなたの今日に真理の扉が啓きますように(祈)

 

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目覚めへの道は4つほどあるようですが、道は素敵に歩みましょうね☆

2019-02-11 12:21:18 | 目覚めへの道

このブログでは、『大いなるもの』すなわち、僕たちのいのちの根っこ、僕たちの本質とは何なのかについて書いています。

書くことになったきっかけは、数年前の僕自身に起きたある『気づき』です。

このブログでは、『大いなる気づき』あるいは『大いなる目覚め』と、少々大仰に呼んでいますが、こうとでも呼ばないと表現できないんですよ。

本当に、自身を大きく変えた、そして人生を変えた気づきだったんです。


自分の本質がなんなのか、ということに気づくことってね、本当に本当に大きなことなんですね。

僕たちが普段認識している世界とは全く違う、もう一つの世界が、実は在る。

そして、その世界こそが僕たちの本質なんです。


その世界について、なんとかしてお伝えしたいので、このブログで色々書いているんです。

お伝え出来ることは、文章じゃもちろん限界がある。

直接お話もできればな、と思うこともあります。もちろん、コトバにはやはり限界があることを承知した上でね。


正直ね、このブログに書いてあることって、いわゆる普通の人間関係や職場においては、なかなか言い出しにくいでしょう?

「僕たちの本質は大いなるもので、僕もあなたも無くって、実はひとつで。。」とか職場で言い出したなら、なんかの宗教にハマったんじゃねえか、とか頭おかしくなったんじゃねえか、とかちょっと病んでるんじゃないか、とか思われるのがオチでしょうね。


しかし、こうやってブログで書いていれば、興味のある人だけ読んでくれるので、ブログって本当に良いツールだなぁ、と改めて思うんですね。


さて、つらつらと、取り留めもなく書きましたが、その『気づき』ってのは、いつ訪れるのかって話なんですけども。

これはね、誰にも分からないんですよ。

今日、気づくかもしんないし、明日かもしんないし、10年後かもしれない。

あくまで分からないんです。


「この瞑想をしたら気づきます!」というのも無いですしね。

だけど、ここ数年の経験から、どうやら気づきを促進する、効果のある事っていくつかあるみたいですね。

「それをやれば必ず気づけますよ!」とは言いませんが、でも気づきを促進する方法とか生き方はありそうだ、と。

目覚めへの道。気づきへの道。大げさに言えば、悟り・覚醒への道。

そういう道がありそうに思います。

これまで、縁あっていろんなお方と会ってきて、その方々は気づきを求めて止まない方ばかりだったんですよ。

そして、その方々の顛末も色々と知っています。

あるいは、瞑想の場を設けたりもしてきたのでね、その場で気づいた方にも立ち会ってきたわけです。


そんな感じで、気づきへの道について経験則に基づき整理した結果を申しあげます。

気づきへの道は、おおよそ下記の4つ。

1.瞑想の道:瞑想を深め、自我を薄め、『観照者意識』のプロセスを経て、閾値を超えて気づきへ至るケース。

2.苦しみの道:人生に苦しんで苦しみ抜いて、苦しみが臨界点を過ぎ、自我が一気に剥がれ落ちたケース。

3.愛の道:自身が『愛』の生き方をして『愛』そのものに成ったケース。

4.波動の道:気づいた人やその集まりに同席・対面して、気づきが促進されるケース。

細かく分類すればもっとあるんだけど、おおむねこんな感じです。


僕の場合は、うつ病からの回復過程における苦しみの最中に、散々「1.」をやっていたので、「1.」+「2.」のハイブリッド型と言えるかな。

 

いずれにしても、気づきへの道は人それぞれですから、自分のペースでいくのが良いと思います。

気づきを求めるだけの人生になってしまって、毎日が苦しいものになってしまったら、素敵な人生とは呼べないでしょう?

あなたが、いのちの根っこであるということ。

あなたの本質は大いなるものであるということ。

僕たちはひとときも変わらず『それ』であり、ひとつであるということ。

その真実は決して変わらないのだから、あせらず落ち着いて、気づきへの道を歩まれるのがよいかと思います。

今日のあなたに気づきの道が啓けますように(祈)

 

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気づきの前は体調を壊している

2019-02-10 11:18:41 | この世の生き方

これまでに、僕にとっての二度の『大いなる気づき』があったわけですけども、どちらもね、しんどかった時とか体調を壊した時の後に起きてるんですよ。

どちらの気づきも、苦しみがきっかけになっている。

一度目の気づきは、今から7年以上前ですよ。

当時、過労や職場の人間関係から、本格的なうつ病になって、その後医学的に寛解と言われても、不安とか恐怖が消えなくてどうしようもなくて、毎日毎日何年間も本を読み漁ってたんですね。


スピリチュアルとか精神医学とか哲学とか、いろんな本を読み漁り、「幸せはどこだ?幸せはどこだ?」って幸せを渇望していました。

そして、不安と恐怖が消えず、絶望さえも通り越したその先に、大いなる気づきがあったわけです。

 

それから7年間くらいの間、どちらかというとこの世のアレコレに埋没していました。

大いなる気づきがあったからといって、俗世間を捨てて山籠もりというのではなく、実社会と向き合って生きて来たわけです。

仕事も、結構頑張ったしね。


この7年間、どんなにハードな時であっても、いつも「『大いなるもの』を携えて」生きてきた。

なので、少々のコトが起きても大丈夫だったんですよ。

だけどね、いま振り返ると、『この世的な観点』では、僕はまだまだ甘かったな、と思うんですね。

いくらあの世界を垣間見たとか、覚醒とか大いなる気づきとか言ったって、例えば、自分の生活を支える仕事においては、「上手く」立ち回らないといけない。

そうでないと結果的に、自分が追い込まれていってしまうっていうのは、やはりあるじゃないですか、現実的には。

そのことが良いか悪いかは置いといて、この資本主義社会は競争原理だから、実社会においては致し方ないことなんですよね。


僕の基本的なスタンスとしては、一度目の大いなる気づきを得て、職場でもすごく穏やかに過ごせてたんですね。

何年間も、結構忙しい時もあったけど、それでも大丈夫だったんですよ。

いつも、『大いなる気づき』を携えて生きていたからね。

 

だけど、特に最後の1、2年ぐらいは、本当に、自分がこの世的な観点で見ると「あまちゃん」だなって思うんです。

競争の世の中で『大いなる気づき』を携えて生きていっても、上記の「上手く」立ち回ることをしないとね、結構大変なんですよ。

人に優しくしたり、人を受け入れたり、許容したりしても、残念ながら、それを好意的にとってくれる人ばかりじゃない。

むしろ、いいように利用されてしまう事ってあるんです。

 

そこを、僕は割り切って、スイッチを切り替えることが、まだ不十分だったんですよね。

だから、どんどん追い込まれて、うつになってしまったのでしょう。

まぁ、精神的な問題以前に、晩御飯は夜の12時過ぎでみたいな生活をしていたら、肉体的にまずおかしくなりますよね。

どんなに遅くなっても、次の日朝早く通常通りに仕事を始めるのだから。

 

当時の職場の組織としての問題も、やはりあったと思うんですよ。

僕は仕事量が多いこと自体は、それほど苦にならなかったのですが、とにかく仕事がアンコントローラブル。

これが、心身にこたえた。

あと、特定の誰それにも責任の一端はやはりある、と僕は思っています。

この世的な観点で振り返った場合、僕が体調を壊したのは「100%僕の責任」とは言い切れないと思っています。

しかし、仕事や職場や誰それを非難する意図ではありません。

自身を振り返るプロセスを経て、辿り着いた結論を素直に吐露しているだけです。

 

そして体調を壊した主たる原因は、やはり僕にあるのだという結論なんです。

それが、競争原理であるこの世を「上手く」生き抜くことができなかった点にある、ということです。

『大いなる気づき』を携えて生きるのは良いのですが、それがすべての人や組織に通用するわけではないんです。

いくら許容や優しさを大切にしても、それが通用しないケースは多々ある。

むしろ、利用されナメられることさえあるんですよ、残念ながらね。

そして、その根本原因は僕にあった。

この世の実社会を生きる術と、あの世の『大いなるもの』の世界を、調和・統合するのが、きっと不十分だったんです。

当時は、『この世的感性』と『あの世的感性』を車の両輪のごとく使いこなしているつもりでしたが、まだ、甘かった。

それが、当時のぼくが「あまちゃん」だと書いた理由です。

 

 

こんな感じでね、当時、まずは肉体的におかしくなって、更に精神的に病んでいったわけです。

そして、しばらく休息を余儀なくされて、昨年の夏ぐらいからだんだん元の生活に戻って、体調も戻って、労働環境もまともなところに就けたという状況なんです。

ようやく、人間らしい生活ができるようになったな、という実感があります。

 

これからの人生は、まずは自分を大切にすること。

人を許容し人に優しくするのは素敵なことだけど、まずは自分ですね。

当時は、いつの間にか無意識的に自分を雑に扱っていたのだ、思います。反省!

 

そして今後も、『あの世的な感性』である『大いなるもの』の世界は携えていきていく。

ただし、『この世的な感性』もしっかりと実践していく。

今度こそ、車の両輪のごとく、「共に在る」ように生きたいと思います。

それは、気づきの『定着』と言いかえられるのかもしれませんね。

当時、「本当に」気づきが定着していたなら、体調を壊すことも無かったんじゃないかと思いますよ。

まだまだだねぇ、僕も。

だけどね、おかげさまで人生の『指針』がかっちりと定まりましたよ。

 

僕は『大いなるもの』を携えて生きていく、何があっても。

同時に、『この世的な感性』もないがしろにしない。

車の両輪の完成は、いつになるんでしょうかね?

 

つい先月の二度目の気づきで、更に心境が大きく変わってきたとこですし。。

完成は、すぐそこまで来ているのかもしれないし、これから少々長い修行になるのかもしれない。

あるいは、そもそも今生での完成は無いのかもしれない。

いずれにせよ、『大いなるもの』を携えることは止めませんし、これからの人生が楽しみではあります。

 

この世は大きな『経験劇場』です。

全ての経験は必然でありムダは無い。

大いなるものに抱かれ、大いなる自身で在り、いまここに、在る。

あなたの今日が素敵に成りますように(祈)

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

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