湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

小林よ、アウト・ローは危険だ!・・・2017WBCサムライジャパンの戦い

2017-03-21 18:09:08 | Weblog
いよいよWBC準決勝が始まります
日本とアメリカ、どちらが勝つでしょう?

私としては、勿論、日本に勝ってほしいです
実力的には、十分、いけると思っています

問題があるとすれば
キャッチャー小林のリードです
何かといえば、外角低めに投げさせる単調なリードは問題です

日本人バッターは、外角低めを苦手とします
ダウンスイングでは、ここは打ちにくいコースだからです
空振りしなくとも、長打になりにくいのです
したがって、安全を考えると、外角低めになるのです

ところが、外国人バッターは違います
手は長いし、もともとアッパースイングですから
スイングスピードのピークに合わせて
外角低めを、楽々と長打にしてしまいます
若干当たり損ねにみえても、スタンドまで運んでしまいます
外角低め(アウト・ロー)は危険なコースなのです

また、外国人が変化球に弱いと考えるのも危険です
変化球の多くは落ちる球です
外国人打者は、これに上手に合わせてくるのです
外角低めに甘いスライダーなんかを投げようものなら
あっさり長打を浴びてしまいます
選球眼も良く、ボール球は、迷わず見逃します

意外なのは
外国人打者が、日本人投手の直球を上手く打てないことです
日本人投手の、バックスピンの強くかかった直球は
外国人打者から見ると、浮き上がってくるボールなのです
したがって、バットがボールの下を空振りするのです

以上の前提から導き出される結論は
速球投手の”直球”で勝負するということです
これに落差の大きなフォークボールを交えれば万全ですが
日本人投手は、今回の試合球に慣れていないため
フォークボールは、上手く投げられない可能性があります
そこは要注意で、無理はしないことです

それに付け加えると
サイドスローやアンダースローは、外国人は打ちにくそうです
今回の日本代表には、これが揃っていますから
継投策は、難しく考える必要はないでしょう






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チャック・ベリーの死

2017-03-20 14:07:27 | Weblog
チャック・ベリーが亡くなりました

90才だったそうです

私の父よりも、2歳年上だったんですね
ほぼ同世代ということになります
父は、チャック・ベリーのことなど知りません
でも、ほぼ同じ時代を生きてきたわけです
なんとなく、不思議な感じを受けます

男性の平均寿命を超えていますから
年齢に不足は無いのでしょうが
本人は、アルバムを出す計画を持っていたそうですから
無念だったことでしょう

中学生の頃、ビートルズを好きになり
チャック・ベリーの名を知りました
彼の代表曲は知っていましたが
夢中になって、ファンになったのは、ここ数年です
ユーチューブで、画像を楽しむようになったからです

チャック・ベリーは、ステージ上では、コメディアンのようで
冗談を言っては、観客を笑わせていました
そんな情景を見ると
英語圏の人間に生まれなかったことが
ちょっぴり残念に思えました

ギターを弾きながら、長い脚を自在に動かす独自のダンス
そして
代表曲ジョニー・B・グッドの歌詞

その田舎の少年は
読み書きは得意でないけれど
まるで鐘を鳴らすように
ギターをかき鳴らす

・・・素敵ですね

布のケースにギターを入れて持ち歩いた少年は

「ベートーベンを乗り超えろ」
(ロール・オーバー・ベートーベン)

の気概を持って
1本のギターをかき鳴らし
ロックン・ロール・ミュージックという
新しい音楽ジャンルを創り上げました

偉大なミュージシャンの死は
私の心に、ぽっかりと、大きな空洞を生じ
深い喪失感と、悲しみを遺しました





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宗教問題は難しい・・・歴史の考察

2017-03-19 13:00:31 | Weblog
私の「歴史の考察」は、
宗教問題に至って、一時、休止とします
宗教勢力からの圧力があったわけではありません(笑)

私自身の知識不足が、どうしようも無い段階に来たからです
キリスト教どころか、仏教についてすら
私は、ろくな知識を持ち合わせていないからです

何故、ここで「歴史の考察」を一時休止するかというと
戦国時代と宗教の関係は。とても深く、重要なことであり
生半可な知識で、安易な論評をしたくないからです
宗教の深い教義にまで入り込もうとは思いませんが
やはり、基本的なところは、押さえてからにしたいのです

戦国時代と宗教問題の関係を解明しようとすると
今の私の忙しさでは、どうにもなりませんし
私の体力、気力、教養の限界を超えてしまったのです

ずっと歴史問題を考えていて
実は、このまま、もっと続けるつもりになっていたのですが
宗教問題を避けられなくなって
はたと行き止まってしまったのです

考えてみれば
人と宗教の関係は、歴史そのものかもしれません
心の問題が、人を動かし、社会を動かしていくからです
私の手に負えない世界が、歴史の本質かもしれないのです

でも、そこは悲観的にならず
今後も、私の理解できる範囲で
「歴史の考察を」を続けたいと思います

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豊臣秀吉晩年の謎・・・歴史の考察

2017-03-18 19:12:45 | Weblog
豊臣秀吉は、死ぬまで朝鮮征伐を諦めませんでした
このことは、秀吉晩年の狂気の一つと考える人もいます
秀吉の晩年は”狂気”で説明したくなる所行が多いのです

後継者である甥の豊臣秀次を、切腹させただけでは足りず
一族すべて、身近な使用人に至るまで殺しました
しかも、そのやり方もひどい・・・

秀次の問題は、後継者問題であり
簡単に言えば、関白の地位を秀次に譲ってから
秀吉に実子の秀頼が生まれたため、秀次が邪魔になったのです
これは、不幸な出来事だったと言うしかありません
戦国の世ですから、時には、こういう事態も避けられません
ただ、なぜ、使用人に至るまで殺す必要があったのか
疑問の残るところではあります

千利休を自害させたのも、謎です
豊臣秀吉のした茶会は、昼の宴会ともいうべき派手なもので
佗茶の精神など欠片もありません
そうしたことで、千利休との対立があったと
従来は解釈されてきました

そうでしょうか?
北野天満宮の茶会に、千利休は参加しています
しかも、極めて重要な役割を担って参加しているのです
利休が、秀吉の茶道に不満を持っていたとした
あの茶会に参加することを辞退したはずです

豊臣秀次は、悪逆非道な行為をしたとされていますが
話が極端ですから、明らかに作り話でしょう
イエズス会の宣教師などは、秀次の人柄の良さを褒めています
残された書状を読んでも、異常性格の片鱗すらありません
気になるのは、秀次がキリシタンであった可能性があるらしいことです

織田信孝、高山右近、豊臣秀次・・・千利休
秀吉に粛正された人々に共通するのはキリシタンへの親和です
キリシタン大名の高山右近は、千利休の高弟でもありました

狂気と見える豊臣秀吉晩年の所行は
織田信長の遺志である”反キリスト教”に貫かれています
「バテレン禁止令」だけではなく
「朝鮮征伐」も、織田信孝の排除から千利休への切腹命令に至るまで
反キリスト教で一貫しているのです

「本能寺の変」の時に、三歳であった三法師でさえ
後年キリシタンになっています
周囲に、キリスト教の影響を受けた人が多かったからです

織田信長傘下の武士団のジュニア世代は
キリスト教や南蛮文化に親しんでいました
信長が、ずっと、ぞれらの庇護者だったのですから、当然です
彼らの多くは、心の問題を抱えていました
救いを、仏教ではなく、キリスト教に求めるのは自然な流れだったのです

ここに、豊臣秀吉の危機感がありました
晩年の秀吉の”狂気”とみえた所行の正体は
身内に忍び寄るキリスト教との戦いだったのです
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必ずしも無謀でなかった「朝鮮征伐」・・・歴史の考察

2017-03-17 17:37:52 | Weblog
「朝鮮征伐」は織田信長の「唐入り」を
豊臣秀吉が、完全に誤解したために起きた・・・というのが私の説です
その結果、家臣にも意味が分からない戦争になってしまったわけです
しかし、これが、ただの無謀な戦争であったかというと
そうでもないというのが、私の意見です

この戦争が失敗した要因は
キリシタンの小西行長が、この戦争は
その後に来る”反キリスト教戦争”すなわち・・・
スペインやイエズス会との戦争の前哨戦であることを察知し
自ら先陣を志願して、敵側に通じ、戦線を混乱させたからなのです
当然、加藤清正や福島正則は、小西に強い不信感を持ちました

「朝鮮征伐」は、作戦も良く、実際の戦闘も十分な成果を上げました
加藤清正は、朝鮮半島全域を制圧し、満州国境に至ったのです
現地の民衆は日本軍に協力的でした

”敵を捕らえてみたら、ほとんどが朝鮮人であった”

と、朝鮮側の記録にあるほどです

当時の朝鮮の王朝よりも
日本人の方が、現地の民衆を大事にしたからです
日本人が朝鮮を撤退する時は
日本軍に同行を希望する朝鮮人も多数いました
彼らの中には、陶工も含まれていて、日本に陶芸技術を伝えました
当時の朝鮮における陶工の地位や身分は、極めて低いものだったからです

「朝鮮征伐」は、戦略的には最高のタイミングでした

この少し前に
スペイン無敵艦隊は、アマルダの開戦で、イングランド艦隊に敗北しており
スペインは、アジアの戦争に介入する余裕はありませんでした
豊臣秀吉は、そうした国際情勢を全て考慮して
朝鮮征伐」を実行したのです

小西行長の妨害が無く
豊臣秀吉の寿命が、もう少し長ければ
弱体な明国は、秀吉に亡ぼされ
秀吉流の「唐入り」は実現していたことでしょう
実際に「朝鮮征伐」で疲弊した明国は
その後、満州族のヌルハチに亡ぼされています
秀吉が生きていれば、間違い無く、シナ大陸を征服したことでしょう




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秀吉が「朝鮮征伐」を失敗した理由・・・歴史の考察

2017-03-16 17:30:33 | Weblog
私は「唐入り」が織田信長のアイデアであると知って
豊臣秀吉による「朝鮮征伐」の謎が解けました
あれは、信長のアイデアを秀吉が誤解したために失敗したのです

「唐入り」が信長のアイデアなのか
それとも、秀吉のアイデアなのかは、論争があるそうです
私に言わせれば
すくなくとも、秀吉のアイデアではありません
したがって・・・信長のアイデアということになります

秀吉は、奇抜で精緻な作戦を実行することで知られています
作戦の細部に至るまで、自分で考え抜き
部下を的確に配し、正確に、実行させるのです
自分で考え、練り上げた作戦であり
部下を完全に掌握しているからこそ、実行できる作戦なのです

「朝鮮征伐」には、そうした豊臣秀吉らしさがありません

戦闘自体は、一時的には、朝鮮半島全域を征服するほどでしたから
失敗とは言えませんが、用兵は、ちぐはぐだったようです
しかも、この戦争の過程で、加藤清正や福島正則らと
小西行長や石田三成らとの対立が発生するなど
家臣間の反目を生みだし、結果として、豊臣家滅亡の遠因ともなりました
豊臣秀吉にとっては、大失敗の戦争ということになります

何故、こんなことになってしまったのでしょう?
ズバリ、豊臣秀吉が考えた戦争ではなかったからです
織田信長の遺志であったのですが
秀吉には、その意味が、よく分からなかったためです
大将が、意味も分からず始めた戦争は、家臣に意味が分かるはずがなく
早く止めて欲しいというのが
家臣達や関係者の本音になってしまったのです
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「唐入り」への秀吉の誤解・・・歴史の考察

2017-03-15 14:35:48 | Weblog
豊臣秀吉の「朝鮮征伐」は、古来、謎でした
何で、突然、あんなバカなことをしたのか?
耄碌、発狂、誇大妄想・・・まともに論じられてきませんでした

この謎に対する私の答は

”信長の遺志”

です

秀吉は、信長の意向に従って生きてきたのです
徳川家康とは、違った意味で
豊臣秀吉は”織田信長教信者”だったからです
秀吉にとっても、家康にとっても、織田信長は”教祖”でした
その教えに忠実に従うのが、信者としての当然の生き方だったのです
ただし、信長自身には、教祖なんていう意識はありませんから
彼らは、自発的追随者だったわけです

豊臣秀吉による「朝鮮征伐」は
信長の「唐入り」を秀吉的に解釈したものでした
そして、これが大きな間違いだったわけです

信長の「唐入り」は、あくまでシナ大陸進出のことでした
武力による制圧の意味はありませんでした
具体的には、東シナ海に面した貿易港を持つことでした
したがって、朝鮮経由で、陸路で征服することなど、考えていません
通商拠点を作り、通商航路を守る艦隊を持つことが、当面の目標でした

「唐入り」の詳細を
織田信長は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に話していませんでした
まだ、その時ではなかったからです
ただし、外洋性の装甲甲板を持つ軍艦の建造は始めていましたし
外洋航海のノウハウを教えるように、南蛮人に要請してもいました
信長は、戦争はなるべく避け
通商路の確保を優先して考えていたのでした

何も知らされていない豊臣秀吉は
「唐入り」を日本国内での領地獲得と同じ発想でやりました
従わなければ、屈服させるという方法で
地続きに攻略していくつもりだったのです

織田信長が考えていたのは
あくまで、通商拠点と通商航路の確保です
それによって、全世界を相手の、独自外交を展開するためです
やがて大英帝国が行う、海上権力による世界支配の構想を
信長は、この時代に。すでに持っていたのでした

世界制覇を構想する織田信長にとっては
陸地伝いの軍事的征服は、自陣営の損耗が大きく
しかも、占領地に遺恨を残すため
はじめから、極力避けるべき手段だったはずなのです・・・

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「朝鮮征伐」までの経緯・・・歴史の考察

2017-03-14 17:58:36 | Weblog
織田信長亡き後
織田政権後継者の地位を得た豊臣秀吉は

「九州征伐」

「バテレン禁止令」

「大阪城の築城」

「小田原征伐」

「徳川家康の関東移封」

・・・織田信長が残した課題を
一つ一つ、確実に、片付けていきました

これらは、面白いほど上手くいきました
秀吉は、あらためて
信長の先見の明と、見事な戦略思考に感嘆したはずです

それはまるで、織田信長社長が作っておいた
最上階の社長室直通エレバーターに
役員の一人に過ぎなかった秀吉が
社長に代わって、乗ってしまったようなものででした
当の豊臣秀吉自身が、一番、それを感じたことでしょう

そして、秀吉は、思ったはずです

「やはり、信長様は凄い!」

「信長様のやろうとしたことをすれば、間違い無い!」

秀吉は、決意しました・・・いよいよ、その時が来た

「唐入り」(シナ大陸進出)だ!

シナ大陸に侵攻するためには、朝鮮を通らなければなりません
そこで、シナに入る前に
豊臣秀吉は、朝鮮を臣従させることにしました

「なに?朝鮮が従わないだと?朝鮮征伐だ!」

ということに、なってしまったのです

これが、豊臣秀吉による「朝鮮征伐」の始まりです
日本人は、誰一人として、その意味が分からず
さらに、何も分からない朝鮮にとっては、とんでもない話でした
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徳川家康の行動の根本・・・歴史の考察

2017-03-13 18:12:29 | Weblog
再三、恥をかいています(汗)
やはり、家康が秀吉に臣従を誓ったのは大阪城でした(笑)
前の晩に聚楽第で会って、翌日、大阪城に行ったのです

二人は、仲良く同じ舟に乗って、淀川を下ったのでしょうか?
その可能性は十分あると思います
とにかく、この二人は仲が良いのです

ところで、家康は、臣従の儀式が済むと
秀吉に対し、秀吉の着る陣羽織を所望します

「上洛、ご苦労であった!」

「何か望むものはあるか?」

なんて、ご下問があったのでしょう

それに対し、家康が
秀吉の陣羽織を所望したのは
これ以降、秀吉が陣羽織を着るようなことはさせない
すなわち、もう戦はさせない
あるいは、戦の無い世の中にする
・・・という意味です

つまり、自分が秀吉に臣従するのは
戦をなくし、平和を実現するためであり
秀吉の力に屈したわけではない・・・という意味なのです

このことは、家康には、かなりこだわりがありました
その後、ある歳の正月、大阪城での新年の祝賀会の時に
秀吉が

「ワシは、戦では失敗したことが無い」

と自慢すると、突然、家康は立ち上がり

「小牧のことは、お忘れか?」

「他の者の前ならいざ知らず、私の前で、そういうことは言わないでもらいたい」

と、発言したのです

「小牧長久手の戦い」では
秀吉は、家康に、こてんぱんにやられているからです
秀吉と家康が戦ったのは、この時だけですから
家康にしてみれば
自分の前で、戦自慢などするなと言いたかったのでしょう

しかし、私は、それ以上の意味を考えます
家康が、そこで言いたかったことは
自分が、こうしてお前さんの家来の地位に甘んじているのは
平和のためであって、戦に負けたかえらではない
・・・と言いたかったのです

「厭離穢土 欣求浄土」(戦乱の世を終わらせ、泰平の世をつくる)

の旗印を掲げて以来
家康の行動の目的は、一貫して、平和の実現だったのです



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秀吉の行動と信長の遺志・・・歴史の考察

2017-03-12 11:33:05 | Weblog
私は、徳川家康が豊臣秀吉に臣下の礼をとったのは
大阪城においてであると、勝手に、思い込んでいました
今回、あらためて調べてみると、私の勘違いであり
実際は、京都の聚楽第でした

そこで、遅ればせながら
あらためて、大阪城について、考えてみます
この城は、石山本願寺の跡地に建てられています

石山本願寺を攻め、焼き尽くした織田信長は
この地の、戦略的重要性と
城に適した立地に注目しており
大きな城を造る計画を持っていました

豊臣秀吉は天下人となると、大阪城を築城しました
天下人の権力を内外に示すために、巨大な城を建設したのです
しかしまた、これは
織田信長の遺志の実現でもあったのです

織田信長亡き後の豊臣秀吉の行動は
全てが、織田信長の遺志の実現と言っても良いのです
秀吉が、信長の真意をどこまで理解していたかは、ともかく
信長のやろうとしていたことは
ことごとく自分が実現すると、秀吉は考えていたのです
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