無意識日記
宇多田光 word:i_
 



安室奈美恵と小室哲哉の引退報道は「平成の終わり」感に拍車をかける。また一時代が過ぎ去ろうとしているのか。

Jpopというイディオム以前に「Pop Music」という枠組み自体が日本という国に必要か? とついつい思ってしまう。そこまでのこだわりはないのだが、大体の場合において私が「ポップ・ミュージック」とカタカナで書かずに「Pop Music」とアルファベットで書いてしまうのが、外来語としてすら日本語になりきれない感覚があるからだ。

翻訳すれば「流行歌」にでも、なるのだろうか? 直訳なら「大衆音楽」だろうが、どこか昭和っぽい。昔は地上波テレビの力が強すぎて娯楽の方向性を大きく決めていた。街頭テレビ以降、人口の何十%という人々が同じ番組を見るのだから当然といえば当然。紅白歌合戦が40%の視聴率を記録しても「低い」と呼ばれてしまうのはその時代からの名残である。

「大衆音楽」の方は、言うほど売上に直結しなかった。皆テレビやラジオから流れてくる流行歌を知ってはいても買うまでにはかなかな到らず。70年代も80年代も、ミリオンセラーは1人2人、1曲2曲の「例外」を除いて生まれなかった。

88年にCDシングルが発売されるようになり、シングルアルバムともミリオンセラーが連発されるようになる。この時代から「Jpop」という、「日本のPop Music」のジャンルが確立された。

が、結局今はCDの売上と配信の売上を足しても70年代や80年代と変わらないレベルになっている。Jpopとは90年代から00代にかけての「現象」であって、日本に新しく根付いた「生活習慣文化」とは成り得なかった。サッカーのJリーグがプロ野球や大相撲のように日本のプロスポーツとして定着したのとは対照的である。

今を生きる人々は、90年代や00年代のようなJpopがなくても別に生活に困っていない。音楽業界の人を除いて。「Pop Music」への需要は、20年間の夢みたいなものだったのかな、と安室小室の引退と共に思う。

音楽を聴かなくなった訳ではないが、「聴かなくちゃ」みたいな圧力はもうかなり薄い。日常生活で「この大ヒット曲を知らないなんて」と言われる事は皆無になった。でも「ある芸能人の不倫のニュース」は「当然皆知ってるよね」という顔をしている。ゴシップは必要とされているが、流行歌は必要とされていない。そういう現状認識である。

そんな中で宇多田さんはどうするか?…という話からまた次回。

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疲れてるだけにみえる。詐欺扱いされてた事もあるし、今回は日本全体を欺いたって事でまたひょろっと戻ってくればいい。

…っていう、建て前をうまく使ってなぁなぁで済ませる、っていう処世術が通用しなくなったのがネット時代なので、何か違う方法を考えないとね。

しかし、これはまたとない好機。これを活かさない手は無い。

私としては、覆面で復帰してみてはどうか、と思っている。彼の最大の問題は、彼の昔の音楽性と今の(表に出ない隠された)音楽性が乖離してしまっている点なので、彼の"小室哲哉"という大看板が良質な音楽を生み出すのを邪魔している現況が不愉快だった。なので、今回の引退騒動は非常に好都合。周りに一切知らせる事なしに名前も変えて今の彼の感じるままの音楽を作って発表して欲しい。私の予想では所謂TKサウンドからかけ離れた「狡猾で老獪なサウンド」が聴ける筈なのでそれだけでも非常に楽しみなのだ。今はバーチャルYouTuberが流行っているらしいのでそれのミュージシャンバージョンでいこう。アバターに鍵盤を弾かせてだな…あの独特の運指でまたたクマにバレてしまうかな(^^;)

KEIKOさんとの事をどうしていくかは引き続き彼らの間では問題だろうが、そんなものこちらの知った事ではない。こちらはミュージシャンとしての現小室哲哉としか"接した"事がないので他の時間帯にどうしてようが彼らの勝手である。今まで通り、出してくる音を聴いて判断する。それだけである。

そもそもミュージシャンの引退なんてあってないようなものだ。その昔オジー・オズボーンが「リタイアメント(引退)ツアー」と銘打って世界中を公演して回った後、次のツアーの名前が「リタイアメント・サックス・ツアー」だった事は有名だ。ハードロックバンドのキッスも解散ツアーを3,4回敢行している。その都度再結成しているんでしょう。その点、モトリークルーは潔さそうだけども兎も角、小室哲哉も心労が癒えたらまた何食わぬ顔、否、バーチャルな顔面と名前で戻ってくればいい。楽しみにしてる。

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「DESTINY 鎌倉ものがたり」を見ていて私がいちばん感情移入が出来そうだったのは、最終的に負けたアイツだった。だってねぇ、何代も受け入れられなくてもそれでも一途に想い続けるだなんてなかなか出来る事じゃないよ。そりゃあ、いつのまにか行動も歪んでいくわさ…。

天使とか悪魔とか、天国と地獄とか、神と仏と閻魔とか、まぁなんでもいいけれど、そういったモチーフは時代と地域を超えてかなり共通の様相を呈する。20世紀には比較神話学と呼ばれ、スターウォーズのモチーフとまで言われたが、現実には存在しない筈の景色を心の中でなら共有できる、という感覚は誰しも持つものだ。こちらは20世紀には集合的無意識などとも呼ばれた。

さて今は21世紀だ。大した思想的変革も見当たらず、現実が精神を追い越していく。インターネットは身体感覚すら変質させそうだ。しかし、人の心が見えるようになった訳ではない。言葉が溢れているだけである。手から零れ落ちそうな程に。

ヒカルも、どうやら「DESTINY 鎌倉ものがたり」で、私と同じヤツに心がとまったようだ。同じ理由かはわからない。しかし、普遍的な物語が誰かのエゴなのだとしたら、皮肉と真心はもう大体同じになってしまう。見えるだけでなく実際にそうなりそうなのだ。

言葉が溢れ過ぎて「建て前」は風前の灯火だ。皆が名を匿って、言葉だけを各個飛ばし続けている。渡る世間は、移ろう浮き世は、建て前が動かし続けていたのに。ほら、どちらが真心で、どちらが皮肉かわからなくなっていく。愛し合う二人が結ばれましたのハッピーエンドに心から喝采を贈り、同じ顔で敗残者の想いの残りを掬い取る。ころころころころ変わるようで、それはただまぁるいボールが白と黒に塗られているだけだ。そんな風景をみせられてPop Musicに取れる差配は限られる。つまらない、という感情を歌うか、皮肉と破壊に身を窶すか。どれだけ命を懸けようと「軽さ」には耐えられない。重さに耐えられないのは現実だが、軽さに耐えられないのは、それが現実を生きる事を拒否するからだ。生きられるのに。生きようと思えば生きられるのに。生きたいのに死ぬのは重いが、死なないのに死ぬのはまさに命を軽くする行為だ。"軽んじる"と言った方が耳馴染みがいいかもね。重さも軽さも絶望でしかない。ならばと結局、神は命を与えるのだ。まだ飽き足
らずに。

これが誕生日だ。生まれてくる事、生きる事。チェロを忘れてきたチェリストを妬み、感謝する。ヒカルに「長生き」を肯定させてしまうなんて貴方は神の使いか地獄の使者か。生きたいと言ってくれるなら、それは皆に齎された最高のバースデープレゼントだったのだ。

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35か。

毎度々々書いている事だが誕生日とは別に「歳をとる日」なだけではない。それはそれでめでたい事だがまず第一義は「その人が生まれてきた事を祝う日」である。故に祝われる当人が鬼籍に入り享年が固まってからでもその人の誕生日は祝われる。生誕百周年とか五百周年とかまでいかなくても「生まれてきてくれてありがとう」及び母親に「生んでくれてありがとう」と感謝の意を伝えればいい日なのだ。

宇多田光さん、生まれてきてくれてありがとう。
宇多田純子さん、光を生んでくれてありがとう。

そろそろダヌパも「誕生日」という概念を理解する年頃だろうか。まだ早いか。お母さんのお誕生日を祝う気持ちになるのはもう一年後になるかもしれないが、ヒカルも息子に祝われる可能性が出てきてるってのは心に留めおいといていいかもしれない。生誕を与えた相手に生誕を祝われる。"おばあちゃん"が居たらなぁと思ってしまうが、野暮ってもんかな。人生は続いていくのだ。いつ途切れるかなんてわからない。

しかしこれで…「アラサー」だったのが「アラフォー」になる転換点を迎えたって事か。ミッドサーティ? 何だかわからないが、世間の目もそれに従って…と思っていたのだが、30年くらい前の35歳と現代の35歳は全く意味合いが違う。昔はもう至って「いい大人」或いは気が早くも「中年」扱いだったが、今は業界によっては「若手」として扱われたり、逆にプログラマーやシステムエンジニアとしては「衰え始める年齢」だったりと随分幅がある。「芸能」の世界は、やや昔より年齢が上がっている感じなので宇多田ヒカルは20周年を迎えようとしてるけど「ベテラン」とまではなかなか言われない。そんな時期。

そう考えると、確かに今を生きる30代って『ほどほど』なのかもしれない。そういう時期だから出来る事もあるのだろう。まだまだ体力があり経験も豊富。結局"働き盛り"なのは今も昔も変わらない。

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あとはなりくんのデビュー作がヒットすればハッピーなのだが、そこがなんだかいちばん難しそうだよね。

まず、『宇多田ヒカルプロデュース』という割に、ヒカルのファンにアピールする音楽性ではないのが痛い。先行公開中の『Lonely One』も、Pop Musicという枠組みからは程遠い。私の趣味からすれば寧ろ『あなた』よりこちらの方が好みな位なのだが、大衆性という点ではまるで及ばないだろう。「宇多田の歌はやっぱすげーな」と後半突如登場して全部かっさらっていくヒカルのパフォーマンスに惹かれる人なら、それなりに居るだろうけれど。

これが"リーダー・トラック"だというのなら、「宇多田ヒカルプロデュース」の文言は寧ろ足枷にすらなりかねない。ミスマッチを生むかもしれない。ヒカルは自分の作品を芸術だなんておいそれとは言わないし、プロフェッショナルとしての「商品作り」にいつも抜かりない。一方なりくんのソロアルバムの芸風は、詩的なモノローグととっつき難いビデオから察するに「独り善がり」以外有り得ない。この道はまさに隘路になっている、と皮肉を言っておこうか―ってこれ駄洒落なんだけどわかりにくいわな。

一言で言えば既に多くの人がなりくんから「引いて」いるだろうし、一部の人は既に「ドン引き」だろう。如何にもスノッブで"気持ち悪い"。親切さも何もない。ただ在るだけの音楽だ。

私個人はそういう作風が大好きだ。大衆性にこだわるかどうかにもこだわらない。ただそこに在るだけなら正々堂々真正面から存在感だけで勝負してみて欲しい。心底そう思っている。半分は彼のデビューアルバムに期待しているのだ。

もう半分は軽蔑である。彼のラジオでの喋りが圧倒的に退屈だからだ。30分番組だし、選曲はそこそこ悪くないから、ふらっとヒカルの話なんかも出るかもしれないし毎週聴いてみようか「MUSIC HUB」を、と思ったが無理だった。彼の喋りのつまらなさに耐えられなかったのだ。喋りが拙いのならまだいいのだ。口を動かすのが苦手だけど頭の中は凄絶に漲りまくっている、っていうタイプの天才は好きだ。たどたどしい呟きを積極的に拾いもしよう。彼は違う。流暢に話せる癖につまらないのだ。なぜ今回披露したモノローグのように喋らないのだろう? 察しろと? 甘えるねぇ。嫌いじゃない。でも喋りがつまらないという結果が総てを押し流す。なぜなら、書いた事と喋った事のどちらかは必ず嘘だからだ。こんな他者に対する誠意のないミュージシャンは成功しない。だからこそ経営者やプロデューサーには向いているのだろう。悪い事は言わないから、今後も他人を操って甘い汁を吸う人生を過ごして欲しい。

が、ヒカルがもしも、「そこを突破したい」と考えて今回のプロデュースを引き受けたのだとしたら頗る面白い。普通に考えればあと2枚、セカンドアルバムとサードアルバムまで担当して終結だが、1枚で解き放てば未来はおぞましい色に染まるだろう。果たしてどこまで考えているのか。「この先誰が犠牲になる?」―この問いそのものを打ち消さなくてはならない。ともだちだからと引き受けたのなら…嗚呼、既に賽子は投げられたのだな。

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発表時期はいいとして、「ヒカルが他人をプロデュースすること」や「ヒカルがなりくんをプロデュースすること」に対してどう思うかは別問題だ。

そもそも、ファンにとってなりくんが馴染みのある存在なのかという所から始めないといけない。『忘却』でやたら目立っていたKOHHとは違い、『ともだち』でのなりくんはバックコーラスで、ボーっと聴いていたら居たかどうかすらわからない。クレジットに『with 小袋成彬』と書いてあるから「あぁ、誰か参加してるのね」と思う程度で。

第一、「小袋成彬」を「おぶくろなりあき」って読むの、結構難しいよね。なので読む時のストレスを減らしたくてヒカルが使う呼び名のなりくんで通してるのだが、そういう名前だから仕方がないとはいえ、古くは例えばただの西川貴教のくせに「T.M.Revolution」という仰々しいプロジェクト名でデビューしたソロアーティストが居たりと名前を覚えてもらう工夫はあってもいい筈だがそういう事もせず。あ、「Obkr」って表記はいいと思うけど。これは私には読みやすい。

もっとも、彼がこれからビッグアーティストになればその読み方すら個性になる。SMAPの草なぎ剛の「なぎ」の字だって彼が有名になったお陰で皆の知るところとなった。今こっちフォントが出ないんだけどね。そこまで行ければ名前の表記なんてとるにたらないことよ。

一応、「丸の内サディスティクexpo ver.」のカラオケなどあるけれど、どれだけのファンがあの音源をきいたやら。「MUSIC HUB」という番組はローカルの深夜だし、ネットでそんな拡散してた訳でもないから限定的なもんだろう。大概のファンにとってなりくんは「あぁ誰だっけ、どっかで名前みたかも」という程度ではないだろうか。

その意味では時期尚早、だ。もうちっとなりくんがヒカルファンに慣れ親しんだ後でなら、反応も違っていたかもしれない。まだ馴染みが無さ過ぎる。降って湧いたように「新人プロデュースします」と言われても「何よ唐突に」となるわなぁ。


でまたまた吃驚させられたのがヒカルの昨日のツイッターである。リツイートをあそこまで連発するなんて過去にあったろうかね。RIAの中の人に乗っ取られたんでないのという勢いだった。自分の作品にだってあそこまで「売りたい!」という気持ちを前面に出した事はない。コメントに「使命感」とあったけれど、よっぽど入れ込んでいるのだろう。それに対するファンの反応も気にはなる。

あとは売り方のコンセプトだ。気に入ってもらえる1万人に向けてアピールしていくか、100万人に向けてアピールして90万人に嫌われながらも10万人に支持されるか。インターネット時代で「評判」が数字に直結する中、プロデューサーたる宇多田ヒカルがどういう戦略でいくか見ものなのでありますよ。

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「ヒカルがなりくんをプロデュース」のニュースは確かに吃驚驚いたのだが、それと同時に「これ以上ない最高のタイミングの発表だったな」とも思わされたのだ。

考えてもみたまへ。もしこれが、ヒカルが何もしていない時の発表だったら?って。すわ「あらヒカルさんプロデュース業に専念する気?」という空気がファンの間に流れていた可能性は相当高かっただろう。そうなると、この、「今年(必ず)アルバムを出します」と宣言してからのなりくんプロデュース告知は、ファンの懸念を最小限に抑える絶妙のタイミングだったと言わざるを得ない。全く、誰が考えたか知らないがかなりの切れ者が絡んでいるに違いない。まぁヒカルなんだろうけどさ。

つまり、「え、他人のプロデュース…?? ああでも今年アルバム出すっつってんだから別にいいのか。」という空気がまずかなり流れる。それで大概の懸念と疑念は払拭されるが、それでも「他人のプロデュースしてる暇があるんなら自分の作品を一刻も早くリリースすればいいのに」という文句は幾らか聞こえてくる可能性は残る。

しかし、それにも恐らく理由があるのだ。ここからは私の勝手な推測だが、ヒカル陣営はアルバムのリリースをツアー日程から逆算しているのではないか。踏み込んで言えば、ツアーに必要な会場を押さえられた時期が今年の後半以降になってしまった為、アルバムリリースをかなり遅らせざるを得ない状況に陥ったのではなかろうか。

それによってヒカルのスケジュールに「妙な隙間」が生まれた。SONY移籍も手伝って、例えばTHE BACKHORNとの共同プロデュース、例えば初の歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』出版、例えばなりくんのデビューアルバムをプロデュース、といった具合に、それなりに短期間で形に出来る仕事に着手できたのではないか。それにしたってワーカホリックだけれど。

若しくは、「キングダムハーツ3」の主題歌のリリースタイミングも絡んでくるかもしれない。この曲を発表済みでないとアルバムは出せません、という。どんな演出で解禁になるかはわからないが、この曲に関してはヒカルファン、邦楽ファンのみならずゲームファンも…いや、まさしく世界中のゲームファンから期待されている、目玉ともいえる楽曲である。Ray Of Hope EPですらあのチャートリアクションだったのだ。まっさらな新曲がリリースされたら十数ヶ国でNo.1を獲得できるかもしれない。SONYにとっても超ビッグイベントになりえるのだ。

…といった諸事情があったのではと考えれば先月のデビュー19周年記念日における"やや不自然な"具体的な日程や内容に殆ど言及しないアルバムリリースとツアー開催の発表も合点がいく。ああやって先に発表していたからこそ、今こうやってなりくんのプロデュースを告知できるタイミングが生まれたのだ。ファンの不安を抑える為にも、先にヒカルの「長期予定」を皆の心に先に刻んでおく必要があったのだ。まさにプロフェッショナルな情報解禁技術。この1ヶ月様々な"浅はかな推測"を繰り広げた事について平謝りしたい気分。本当にごめんなさい。参りましたRIAの皆様。

とはいえ、だからといって「ヒカルがなりくんをプロデュースする」という現実自体をファンが素直に受け入れるかはまた別問題だ。ヒカルが自分の歌手活動を疎かにするかもしれないという懸念は概ね払拭できるとはいえ、なりくんの音楽が受け入れられるかどうかはまた別の話な訳である。

これについては「聴いてみるまでわからない」というのが偽らざる本音だから、まずは先行公開された『Lonely One』について、幾らか書いてみる事にしようかな。乞うご期待。

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いやぁ吃驚したわ。いや、「宇多田ヒカルが小袋成彬をプロデュース」っての自体は予想通りというかほぼ既定路線だった。THE BACKHORNが昔『One Night Magic』でフィーチャーされてからの昨年の共同プロデュース、という流れがあったので、いずれヒカルがKOHHやなりくんをプロデュースする機会があってもそれはそれでアリだわな、となってたのだ。ただ、その話をこの日記で一度も取り上げた事がなかったってのからわかる通り、そんな事があってもずっと先だろうなと漠然と思っていた。実際、THE BACKHORNだって10年越しの"お返し"だった訳で。それが共演からわずか一年半で、しかもヒカルのニューアルバムの年内発売が発表されてすぐに、だなんていうタイミング予想も出来なかったですよ。一部週刊誌では昨年の時点で既に"スクープ"されていたらしいが、あたしゃその記事読んでないし。

驚くべきバイタリティだよね。でもまぁ、その昔『This Is The One』『点』『線』の3つをほぼ同時発売した事もある人だ。この時は『宇多田ヒカルの言葉』と違って2冊とも編集長だったし。それを考えたら自分のと並行してもう一枚プロデュースを手掛けてても不自然では…いやいや、やっぱ凄いですよ。

こうなると当然、長年のファンは「例によってまた5月に倒れるんじゃ」と心配する所までがお約束になるが、今度ばかりは大丈夫だろう。まだまだ小さいダヌパが居るからである。幼い1人息子を残して入院とか馬鹿な真似はすまいて。子育てのプレッシャーってなお母さんに常時健康を強いるのだ。具合悪くなってる暇なんてない。

で、なりくんのアルバム発売が4月25日の水曜日という事で、作業はほぼ終わっているとみるべきか。まだもうちょっと完パケ入稿〆切までは余裕あるけれど。そうなると気になるのは「じゃあヒカルのニューアルバムはいつ発売なの?」という点だ。いちばんセンセーショナルなのは「同日発売」だが、この度なりくんは晴れて(?)梶さん沖田さん所属のエピック・レコード内レーベル(と言っていいのかな)である「RIA」所属になったそうなので、たった2人しかいないレーベルメイトをいちどきにプロモーションするのは人力的にも無理な相談だろう。同時発売にして「連動購入特典」でもつければこれ以上ない華々しいデビューになるだろうけど。今回発表になったなりくんの新曲「Lonely One」のアンサーソングをヒカルの新作に収録するとかしたら更に購買意欲は増すだろうし。

まぁそれがなくなったとすれば、裏を返せばRIAとしては4月一杯までまずはなりくんをプロモートするのがセオリーで、となるとヒカル陣営として動き出すのは今年の下半期から即ち7月以降のアルバム発売とみた方がいいのかな。当初よりアルバム秋発売の冬ツアーという組み合わせは想定されていたのでそれはそれで何の問題もない。中には「ひとのプロデュースしてる暇があったら自分のを一刻も早く出してくれ」と思った人も居るかもしれないが…まぁその話はまた次回。にしても吃驚でしたわホント。

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…梶さん何企んでんだ?

まぁそれはいいか。

デビュー20周年イヤー、というのは大抵宇多田ヒカル名義の話になるのだろうが、ソロアーティストとしてのデビュー記念日は今日である。アルバムは二週間先だが、それに先駆けて『Close To You』のマキシ・シングルが、Cubic U名義でリリースされたのである。

よく考えたら(考えなくても)カバー曲でのデビューだったんだな。まずは、有名曲で耳目を引きたい、とでも思ったのだろうか。宇多田ヒカル名義の方は、流石に750万枚は予想できなくても、その100分の1位は売れるんじゃないかと期待されてデビューした訳だ。プロモーションにそれなりの力を入れられるから、オリジナル曲でのデビューを狙った、狙えたんだと。

それに対してCubic Uの方は、そのような派手なプロモーション体制は望むべくもなかった。殆どインディーズのような立ち位置でのデビューだったからこそ、まずは有名曲ねカバーから入って、アーティスト名を覚えて貰おう、という寸法だ。恐らく、想定されたマーケットのサイズは宇多田ヒカルのそれの更に100分の1、つまり数百枚単位の世界だったのではなかろうか。

つまり宇多田ヒカルは、20年前の今日の時点では、実際に向き合う事になるマーケットの10000分の1の規模しか相手をしていなかった、しようとしていなかった事になる。そこから僅か一年半足らずでそこまで上り詰めたのだ。まさにシンデレラストーリー。もっとも、藤圭子の娘という正真正銘の歌姫の血統ではあったのだけれども。一休和尚が時の天皇の落胤だったという俗説を思い出したわ。そんな話もあったねぇ。

もし仮に、20年前の今日私がこのマキシシングルを聴いていたならきっとファンになっていただろうなと思う。前々から何度も書いている通り、Cubic Uによる『Close To You』のカバーは完璧である。或いは照實さん、まずは圧倒的な歌唱力を知って欲しくてカバー曲をデビューシングルにしたのかもしれない。その辺の話に詳しい人がいらっしゃれば是非お話を伺いたいものである。

まぁ勿論、10000分の1サイズ・マーケットの女性シンガーのマキシシングルなんていつでもメタラーの自分の耳に入る事もなく。『Automatic』が流れてくるまでその存在も知らなかったのだが、こうやって振り返ると…やっぱり奇妙なものだな。

今日からヒカルに対して「20年前から」とか「この20年間」とか使える訳だ。今Cubic Uの音源をEMIがどうにかしているという話はきかない。20周年記念盤『Precious』出したら売れるだろうにねぇ。つまり、もうCubic U名義の作品は今後リリースされる事はないのだろう。何だかちょっと寂しいが、取り敢えず5年後の25周年までに色々と整理しておいてくれると有り難い。いつか「Hikaru Complete Works Vol.1」とかいったタイトルのボックスセットがリリースできるように、といういちファンからの切なる願いです。

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イモトアヤコが「安室ちゃんのライブに"最後だから"で観に来るな。でも沢山の人に観て欲しい。」と複雑な心境を吐露したとか何とか。彼女の事は知らないが、誰しも感じる事だろう。

自分も大体同じ心境、なんだろうな。手元にチケットが余ったら「より行きたがってる人」に優先して声を掛けるだろう。自分に対して「お願いします!」と頭を下げてくる(そんなことしなくていいよ)人と、「いやまぁ暇なら」と言ってる人で悩む事などない。前者に決まっている。

問題の所在は明確で、行きたい人の分のチケットが足りないからこんな事になる。小売店でいえば売り切れ、或いは品切れだ。本来なら商機を逃した失態だが興行では逆で、公演の価値が上がる方向に左右する。そりゃ皆対処する気にならんわな。

コンサートなんて本来、「今日は早く終わったな。なんか近くでやってないかな。」と思った人がふらりと寄れるのが理想だろうに、ミュージシャンを「神格化」する余り宗教じみたチケット争奪戦が繰り広げられる。もう慣れっことはいえ、皆「そういうもんだ」と思ってる節もある。

何を「熱心」と呼ぶかはよくわからない。普段無関心なのにライブとなると急に活発に動く人、なんてのも在ったりする。一方で、極端な例だが、毎日ヒカルヒカルとうるさいくせにチケットをとるのに殆ど労力をかける気のない人もいる。私だ。そういう歪さも含めて、「本当に熱心な人」とは何なのか誰なのかという話になる。

大抵の場合その為にファンクラブがあるのだがヒカルは頑なに運営を拒否している。合ってるなぁと思うのであたしゃ特に反対しないが、熱心な人の中には「作ってくれたらいいのに」という人も居る。少なくない。声が大きくなってきたらヒカルも検討するだろうか。…ないな。

座席フルオークションが実現しない以上、定員以上は抽選で、というのが結局シンプルな答になる。実際、本当に熱心で普段から応援する心をカタチにしている人はそれを知る周りが放っておかない。なので、ひとつ言える事は結局、自分の熱心さを普段から人にわかるように表現する事、伝え続けておく事、だろうな。ありきたりだが、それがなんだかんだで近道なのだ。多分まだツアー開始までには間がある。交流しろとまでは言わない。あぁこの人宇多田さんが好きなんやろなぁと周りに伝わる何かを置いとければいい。時間的にも時期的にもまだまだ間に合うと思うよ。

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差別にしろいじめにしろ「そんな意図はなかった」「あちらにも悪い所はある」といった言い訳が常に聞かれる。これは、常に的外れだ。前に書いた通り、差別は差別のある社会があるから差別になるのだ。わかりやすく言えば、弱い者いじめだから駄目なのだ。

属する社会同士の力が拮抗していれば、相手の事を悪く言ったり嘲笑したりするのは差別とは言わない。ただの侮蔑行為である。イギリス人がオランダ人に対して酷い事を言い続けてもあまり「イギリス人によるオランダ人差別」とは言わない。場所にもよるが、イギリスとオランダなら対等に喧嘩ができる(というか、どちらが勝つかわからない)からだ。白人社会における黒人は、歴史的に圧倒的な弱者であって、だからこそ黒人に対する表現は細心の注意を払わなければならないのだ。

意図の有る無しは、確かに今後については判断の材料になるだろうが、"既に言ってしまった事"や"既に伝わってしまった事"に対しては何ら意味を持たない。言説が差別のある社会に放り込まれたらもうそれは後戻りが出来ないのである。勿論、「差別される方にも悪い所がある」というのも意味がない。当たり前だからだ。黒人が差別されていようがいまいが、黒人の中にも善人と悪人が、いやさ善行と悪行があるだろう。問題はそこではない。白人が圧倒的に強い社会が存在するからいけないのである。それを潰さない限り、黒人差別はなくならないし、グローバルな情報社会を利用する限り、無関係な筈の黄色人種である我々も、表現に注意しなければならない。


と、いう長い長い説話を経て音楽の話。ヒップホップがアメリカの商業音楽で「最強」になって大分経つ。元々アメリカでは黒人音楽が強い。ジャズやブルーズ、ソウルやヒップホップは黒人音楽の系譜である。一方で白人はカントリーミュージックを主軸にポップミュージックを展開してきた。そんな中に、黒人音楽から派生した白人音楽であるロック・ミュージックや、ハリウッドを中心とした映画音楽・ポップミュージックがチャートを賑わす、というのがこの百年の歴史である。従って、こと音楽に関しては一概に「黒人が弱い」とは言い切れず、しかし背後のアメリカ社会は一世紀経っても黒人差別がなくならない国だ。ここがややこしい。

アメリカの白人音楽の象徴であるカントリーミュージックが盛んなのは保守的といわれる南部の地域だ。私は実際にみた事がある訳ではないが、未だに黒人に対して差別意識があるらしい。おいおい、21世紀にもなって、と言い出しそうになったけれど、自国に目を向けてみると今でも隣国を差別対象としてみる人間がわんさかいる。我々は関東大震災直後の時代にでも住んでいるのかという位。これではアメリカに呆れられない。完全にどっこいどっこいだ。

でまぁ細かい話をすっ飛ばすと、90年代にヒップホップ/ソウルが商業音楽として大成功して以降、世界の商業音楽・大衆音楽は実質黒人主導になっているのだから、この世界では「黒人差別」だなんてあると言えるのだろうか、という疑問が湧くのだ。多くの黒人アーティストたちが同じ黒人たちからは勿論白人や黄色人種からもリスペクトを受けている今、もうわざわざヒップホップやジャズのアーティストに「黒人」という冠をつけなくてもよくなってきているのではないか。即ち、音楽の世界で「人種」という概念が不要になりつつあるのではないか、というちょっと夢想的なまでにポジティブな見方である。

どうなのだろう。例えば、ヒカルでいえば『In The Flesh 2010 』と『Fantome』、更に『大空で抱きしめて』『Forevermore』『あなた』で演奏している海外のミュージシャンたちのうち、誰が黒人で誰が白人か、気にしている人はどれ位居るのだろう。少なくとも私は、殆ど気にしていない。考えた事もない。いいサウンドを運んでくれる優れたミュージシャンたちがそこに居るというだけである。何なら、性別も年齢も気にしていないけどな。

この論点、実は手ごわい。続きはまたもう少し話を整理してからになるだろうな。ヒカルが「人種意識」について何か呟いてく…ちと無理かなぁ。

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あぁ、そうか。ニュースとして古くなったら、と思ってても日曜日にワイドナショー他でもう一度ほじくり返されて記事になってもう一度話題になるのね。すっかり忘れてた。しかも今回は当事者である松本人志からコメントが出るという事か。

取り敢えずこの間書いた事を繰り返しておくと、「エディ・マーフィーのコントを上演する権利は最大限尊重すべき(表現の自由)だが、それを大権力(今は地上波メディア)を使って放送する場合は細心の注意を払うべき」だ。細かい論説は繰り返さない。

「OKとNGのガイドラインを作って欲しい」という話が出たようだが、具体例で列挙しても実効性は皆無に等しいだろう。今現在でも自分たちで「アリかナシか」を判断して企画を立ち上げているのだし、今回のケースは「見通しが違っていた」というしかない。必要なのは、放送局の方針である。局として放送した以上、表現の責任を負わなければならない。放送するか否かの権限が彼らにあるからだ。制作会社や、ましてやいちタレントに責任を負わせるべきではない。駄目な内容なら放送を控える。それだけだろう。ガイドラインよりも、局の責任者と制作会社の間の関係と連絡を制度化した方が実効性はあるだろう。

「しめつけが厳しくなるとますますテレビが面白くなくなる」という意見があるが、その通りだ。今の時代、地上波テレビで披露できるネタは多くない。その代わり、インターネットのお陰で表現の場は飛躍的に増えた。際どいネタは有料枠で配信するなど、幾らでも方法はある。存分にエディ・マーフィーのネタをやればよい。それが支持されるかは、知らないけど。

なんのことはない。インターネットが普及して、地上波テレビな力を(加速させる事で)奪っただけの話。その分はネットを使え、と。それだけだ。今やまたたクマに世界中に映像が行き渡れるのだから、ポリティカリィ・コレクトネスに国際感覚が必要になるのは必然の流れ。今まで以上に受け手側の性質を読み取った表現活動が求められるだろう。

でもこの流れ、現状では日本の「文化的鎖国化」を加速させるだけなので、あまりいい面は出てこないかもしれないね。後は一人一人の価値観次第なんだけど、それがあやふやだからこうやって空気を読み合うだけになる。肝に銘じておこうか。

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両刃の剣だったな…と今になって思う。この7年、ヒカルのライブを待望する者達が将来に夢を馳せ見返した回数の最も多い映像作品は『WILD LIFE』であろう。最もクォリティーが高いというのもあるが、シンプルに、いちばん新しい。それでも7年前だけど。

何回も見返していると、ライブならではのアレンジも頭に入ってくる。スタジオバージョンとの違いを把握し、ここがこう違うから、と何度も頭の中でシミュレートする。ここは手拍子、ここは合唱、ここで拳を突き上げよう―そんな風に来るべき日のライブの予行演習に励む。身体は動かさなくても、心は会場に飛んでいる。

その当日に会場に居た聴衆から、一際大歓声を浴びたライブアレンジがあった。その瞬間、空間の温度が1℃上がったような。確かに、効果的だった。しかし、これを予行演習してしまった人は、今年のツアーでこの曲を迎えた時に、どうしたって期待してしまうのだ。これは全国ツアーだから、毎日会場が違う。全く同じでは有り得ない。だから、期待するのは無理がある。しかし7年間ずっと聴き続けてきたライブアレンジなのだ。果たしてヒカルは、この7年間で膨らみきった期待にどう応えるのか。両刃の剣と言ったが、本当に悩ましいのだ、この、『traveling』のラストで、『みんな盛り上がる時間だ』に続いて『どうしてだろうか』のメロディーに乗せて『横浜アリ〜ナ♪』と歌ってしまった事は。

最高に盛り上がった。それは、DVD/Blurayを観れば明らかだろう。しかし、これに慣れてしまった私たちに対して、今年の全国ツアーの、横浜アリーナ以外の会場でヒカルは『traveling』をどう歌えばいいのか。

静岡エコパアリーナとかならいい。大体ハマるからね。でも、これが代々木第一体育館だったらどうか。千葉マリンスタジアムだったらどうするんだ。8文字前後でないとハマらないんだぞ。みんな、『traveling』のエンディングでリズムがアウトした瞬間に身構えてしまうんだぞ。もし普通に歌ったらガッカリされてしまう。せっかく普通に歌ったのに!

これは実にゆゆ式、いやさ由々しき問題だ。いちばんの解決方法は『traveling』をセットリストから外す事だが、それは違う種類のガッカリを遥かに多く生むだけだからやめたほうがいいか。まぁなくても名曲だらけだから何とかなるんだけどね。『WILD LIFE』では『Can You Keep A Secret?』歌ってないけど、それでもあんなに満足な内容になった。普通なら考えられないよ年間第1位の超特大ヒット曲を歌わないなんて。

まぁでも、現実的には、エンディングのアレンジ自体を変えればいいよね。あそこでスロウダウンせずにメドレーで次の曲に繋げるとかすればいい。そこを勢いで押し切れば案外気付かれないだろう。とはいえ、やってくれたらそれはそれで楽しみだ。今後も「横浜アリーナ限定ライブアレンジ」として定着したらちょっと面白いんだけれどね。

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世間的には今年のツアーは「12年ぶりの全国ツアー」というのがキーワードになっている。他の20周年歌姫たちと較べて何とも久しぶりなのだが、こういうのってどう受け止められているのかな。隠れキャラ?ラスボス? イメージとしてははぐれメタルとかウルトラマンゾフィみたいな、滅多に出てこないんだけど利得幅最大、って感じだろうか。こんな昭和なタトエで通じるかは知らないが。

これだけ間があくとそうそう「熱心なファン」は維持できない。レコード/CDの売上とは別に、やはりマメにツアーしてきたアーティストががっつりファンをキープしている。12年ともなるとライブコンサートでの「客の作法」みたいなものも受け継がれず、なんだったらまた「立って観るべきか座って観るべきか」問題からやり直さなきゃならなくなるだろう。嗚呼もう懐かしい。

別にこれは12年ぶりというのと関係なく、元々の宇多田ファン層が老若男女多様な事に端を発している。いくら10年ぶりとか20年ぶりでも、例えばメタリカのコンサートで「立って観るべきか座って観るべきか」なんて議論は立ち上がらない。ローリング・ストーンズなら有り得なくはないけど…そろそろ観る方も辛くなってくる世代でして…ってそれはさておき。もし仮にコンスタントにツアーしていたとしても解決していなかったかもしれない。

答は実はカンタンでな。歌ってるヒカルの方が元々そもそも「ライブは立って楽しむもの」という前提でいる為、ステージパフォーマンスやら煽り方やらもスタンディングに対する手法になっている。なので宇多田ライブは基本スタンディングである。

だからといって、高いチケット代を払う方に選択の権利がないのもおかしい。椅子に座ってふんぞり返って「おら楽しませてみろよ」と言う権利が、お客にはあるのだ。蔑ろにするのも行き過ぎだ。

会場が幕張メッセのようなベタ地なら何の問題もない。椅子席チケットとスタンディングチケット別々に売ればよい。次にさいたまスーパーアリーナでやる時にフロアをスタンディングにするか椅子席にするかとなったらやはり椅子席なんだろうか。スタンディングでいける会場でわざわざ椅子を出しておいて「立って観てくれ」というのもそれはそれでちょっと不思議な気がするが…。

スタンディングでいちばん奇妙なのは両国国技館だけどねー。4人がけの枡席で全員靴脱いで立つという本当によくわからない仕様。流石に都心であのサイズじゃヒカルのライブは出来ないけれど(7000人位しか入らないらしい)、こういうのがあると「コンサートって別用途の会場を"間借り"して催されているんだなー」と痛感する。スタンディング前提とはいえ、スタンディングに向かない会場でもライブは敢行されるだろう。狭いとか段差が少ないとかね。そうなった場合もまた議論になるだろうな。

いずれにせよ、多様なファン層の訪れる宇多田ライブにそうそうカンタンな解はない。どういう状況になってもいい思い出が作れるように、広い視野で臨む所存でございますよ。

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メタラーの私は今年「クラブチッタ30周年」で記念ライブが沢山あってさてどれを見に行こうかなと算段している所だが、邦楽ファン、特に歌姫ファンは大変だろうなと思う。今年は1998年デビュー組が20周年イヤーだからだ。宇多田ヒカルは勿論、そこに椎名林檎に浜崎あゆみ、MISIAにaikoも1998年デビューである。そこに引退ツアーの安室奈美恵が加わるのだからいやはやどんな日程になるのか知らないが、皆記念ライブ/ツアーをやるのならそりゃ大変だろうて。チケットは問題なく売れるだろうが、この中で「一際話題になる」のは結構大変なんじゃあなかろうか。

一体どんなライブ/ツアーを敢行すれば目立てるのか。私には全くわからないし、チケットが売れるんだったら話題になる必要もない気がしなくもないが、なんとなく皆が「20周年記念」というフレーズに対して、飽きがくるとは言わないまでも大して何も感じなくなってくる事は大いに有り得る。

その中でヒカルの立ち位置はというと。本当のデビュー20周年記念日は今年の12月9日なので"最遅"である。これがどちらに転ぶのか。「あぁ、また20周年記念。今度は宇多田か。」となるのか「狂乱の20周年イヤーのオオトリを飾るのは皆さんご存知真打ち登場!宇多田ヒカル!!」となるのか、これを誰かがコントロールできるとは思えない。多分に運に左右されるだろう。

まずはやはり、当たり前過ぎる事だが、アルバムのリリース日とツアーの日程が重要である。季節は春になるのか夏になるのか秋になるのか冬になるのか。難しいのは、20周年の歌姫たちは、お互いを牽制したりはしないことだ。各々が自らの都合で動くだけ。それらが大きなうねりとなってリスナーを飲み込んでいくだろう。

ツアーの日程で、実現した時にいちばん人気を博すのはその2018年12月9日水曜日の公演であろう。正真正銘宇多田のデビュー20周年記念公演。人気が出ない筈がない。平日なんて何のその、だ。

次に人気が出るのは2019年1月19日土曜日の公演。Hikkiの誕生日を直接祝いたいというファンは山のように居る。この日のプレゼントボックスは(あれば)大変な事になる。土曜日というのもポイントが高い。凄い倍率になりそうだ。

…という2日間は、時期が冬場、しかも2018年と2019年を跨ぐ年越しツアーを想定した場合の記念公演だ。もしこれが実現したら、そう、宇多田ヒカル初の"カウントダウン・コンサート"が現実味を帯びてきそう。会場がとれていれば期待したいところ。

この、「デビュー20周年記念日公演」「初のカウントダウン・コンサート」「36歳の誕生日を祝うライブ」の3つをフィーチャーした「冬のツアー」が予定されているなら、並み居る歌姫たちの活動の中でもかなり目立てるのではないか。完全にただの妄想暴走夢物語だが、今のうちに色々と胸を膨らませておこう。実際に生歌聴いたら他の総ての事はどうでもよくなるからなッ!

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