無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『SAKURAドロップス』に於ける『君』は、恐らく『真夏の通り雨』の『あなた』に近い。

『桜まで風の中で揺れてそっと君に手を伸ばすよ』は『揺れる若葉に手を伸ばしあなたに思い馳せる時』だし、『止まらない胸の痛み超えてもっと君に近づきたいよ』は『勝てぬ戦に息切らしあなたに身を焦がした日々』だ。こうして書いていてもどっちがどっちかわからなくなる位似ている。となれば答は明白で、『真夏の通り雨』の『あなた』は母のことなのだから『SAKURAドロップス』の『君』もまた母のことだ。

そうあっさり言われても、という不満が出るのはよくわかる。それはこの2曲のラブソングとしての重心の置き所の違いに起因する。

『真夏の通り雨』はまず母への追悼の歌として受け取った人が大半だろう。そこに副次的に、ヒカルが言うところの『中年女性が若い頃の恋を思い出す歌』としての意味づけがなされ得る。追悼歌が主でラブソングが従だ。

一方『SAKURAドロップス』は当時(恐らく今でも)「失恋ソング」として受け入れられていた。これを母に恋い焦がれる歌と解釈した人間は余程少数だったろう。多くのラブソングが親への愛の読み替えだとヒカル自身が言及するまでなかなかそこまで踏み込めなかった。 即ちいわゆるラブソングが主で母への思いを綴った歌としての側面が従だった訳だ。

その主従の差を作っているのが『あなた』と『君』という呼び方の違いで、母のことを「あなた」と呼ぶのはまだ馴染めるとしても母のことを「君」と呼んでいるとはなかなか気付けない。そのトリックを掻い潜れれば違和感や不満も幾らかは減るように思う。


それにしても。当時のメッセを読み返してみると、ヒカルは母のポスターを自分の部屋に貼って悦に入る重度のマザコン…かどうかはわからないが、過度に母を溺愛する娘だったのは明らかだ。何をメッセに書いていても総て受け入れていた私を一瞬とはいえ一歩引かせたのだから大概であった。慣れればそんなもんかと思えたのだけれど。それくらいに母への感情が強かったのだからその思いを歌にしていたとしても自然だった、とまぁ後付けとはいえ今なら思える。

後付けできるようになった今、『真夏の通り雨』や『道』と同じように『SAKURAドロップス』の歌詞も手が届きそうで届かない母に恋い焦がれる歌として聴き直してみればまた新しい展望が拓けるかもしれない。勿論歌詞の解釈に正誤を問うなど野暮な話なのでひとりひとりが自由に読みほどいていけばいいのだが、誰かに視点を添えられるのもたまには悪くないと思うよ。

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