『真夏の通り雨』、ここからの歌詞はダブル・ミーニングとして強く取り上げる内容ではないので解説は省略する。「亡き母を偲ぶ歌」として解釈するにしても、「昔の恋への追憶の歌」として解釈するにしても、どちらにせよ「別離」という同じテーマを扱っているので、その共通項に関する歌詞は分けて解釈しなくても大丈夫なのです。
『思い出たちがふいに私を
乱暴に掴んで離さない
愛してます 尚も深く
降り止まぬ 真夏の通り雨
夢の途中で目を覚まし
瞼閉じても戻れない
さっきまであなたがいた未来
たずねて 明日へ』
…この二段落にもそこまで同様、様々なノウハウが其処彼処に込められているので解説したくてウズウズしてるんだけどね。今回は埒外ということで。やれやれ。ああでも、最後の
『ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない渇き
ずっと止まない止まない雨に
ずっと癒えない癒えない Wow 』
については少しばかり書き留めておきたい。
「雨は止まないのに渇きは癒えない」
という水分量に着目した矛盾がこの最終盤の歌詞の目論見なのだけど、音で聴いていると『かわき』である部分がこうやって書き文字で表すと「乾き」ではなく『渇き』である事には注意が必要だ。
「乾き」の方は「乾燥」に使う漢字で、文字通り水分が飛ぶこと/水分を飛ばすことを指し示す為、「要らないものを取り去る」というニュアンスが浮かび上がってきがちなのに対して、「渇き」の方は「のどがかわく」の時に使う漢字で、「必要なものが足りない」という願意を表す。“水が欲しい”ってこったね。同じ現象を、相反する価値観で捉えたものだと言っても差し支えない。
つまり、『真夏の通り雨』の『渇き』は「渇望」の意味なのだ。欲するのに得られない、手に入らない。それでもなお欲する、望むこと。『止まない雨』は「止まらない悲しみ(の涙)」の比喩なので、これらを組み合わせると、
「悲しみは止まらない
心から欲しいものは得られないままで」
となる。故にこの歌は依然「亡き母を偲ぶ歌」でありながら同時に「昔の恋への追憶の歌」でもあり続ける。こうやって、歌の最後の最後まで。叶わなかった恋であっても今でも想いは変わらない。満たされない想いはそのまま続いていく、とそんな解釈になる。
「もし通り雨が降ってる途中で死んでしまったらその人(の人生)にとって通り雨は降り止まなかった」という主旨の発言を当時のヒカルはしている。ほんの僅かの通り雨の間も死を常に身近に感じているから出た発想、着眼点だったのではないか。死による別離も失恋による別離も、魂を捧げる意味では通じるところも多い。それによって成し遂げられたダブル・ミーニングの真の意味合いについて、次回は解説する事になる、かな?