無意識日記
宇多田光 word:i_
 



自分の才能の相手をするのは難しい。この話でいつも例にするジミ・ヘンドリクスは、ギターを持つのが怖くなかったのだろうか。それ以上にスランプに陥る恐怖が勝っていたら手にするか。

才能は、ありすぎると携えているだけで苦痛が増える。視力が高い人は低い人は細かな違いが気になってしまう。気にするかしないかというファクターが重要だが、普通ならミリ単位の誤差までしかわからないのに視力の為にミクロン単位の違いまでわかってしまう人というのは、世の中に沢山のズレが溢れていて随分と住み難いに違いない。精度が高いだけあって、修正に要する労力は凄まじい。でも、気になる。なおさずにはいられない。苦労が増える。そんな感じである。

クリエイティブも同じである。一枚の絵を描く。この線はここが理想から3ミクロンズレている。3ミクロン修正しよう…その繰り返しだ。ミリ単位で満足する人はとっくに絵を描き終わっている。ミクロンの目から見たらズレと歪みの塊でしかないものだ。


ヒカルの才能にも、どこか似たところがある。というか、それは母親譲りだろう。耳が聞こえる。もっとよく歌える筈だ、私の歌なんかまだまだダメだ―そうやって際限なく成長を繰り返してゆく。

ヒカルはここに横の広がりがある。あれもできる、これもできる。みんなやる。身体的にも精神的にも普段が掛かる。もしもっと才能が偏っていたらと思わずにはいられない。

桜流しから、仮に更にヒカルが成長できるとすると、ジミ・ヘンドリクスのように、自らの才能に呑み込まれ翻弄される段階に突入するかもしれない。果たしてそれで宇多田ヒカルは幸せか。

もしかしたら人間活動には、そういった側面もあったかもしれない。才能やアイデアの枯渇なんかではなく、まるで逆で、放っておいたら次から次へと仕事を増やすくらいに才能が漲ってしまって、なのに一方でそれを制御する能力を持ち合わせていなかった。そのアンバランスを制御出来るようにする為に人間活動に入ったという考え方だ。

だとすれば、ヒカルが復帰後に最も向き合わなければならない相手はレコード会社でもファンでも市場でもない。自分自身の才能である。自分自身の漲る才能を出来るだけ引き出す。その為にかかる精神的・精神的普段は如何ばかりか。想像もつかないが、「作れてしまう」「生み出せてしまう」人の苦悩はなかなか理解してもらえない。ともすれば「そんなにアイデアが次から次へと湧きだして羨ましい」と言われがちだが、そこから"逃れられない"ことを考慮に入れると、そうそう気楽なもんでもないだろう。タフでなきゃいけない。

まぁ、いきなり全開でなくていい。ちょびっとずつ自らの新境地を開拓していく事で少しずつ自らの才能に慣れていけばいい。技術や器量を磨いておけばいい。20代前半のヒカルはどこか生き急いでいるところがあった。今のヒカルお母さんは「息子が居るからそうそう迂闊に死ねんな」と思っている筈だ。そして、そう思う事は逃げ道ではないと実感中だろう。向き合わなければならないのだ、いつか。いつの日にかまでに。それに耐えられるだけの心身を鍛えておく事が、復帰に向けての第一歩なのだといえるのではないか。なんか…伝わったかなぁ?

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