無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルさん、2006年の『UTADA UNITED 2006』では公演によっては喉が荒れていた為、その夜に当たった人は「宇多田の生歌はイマイチ」という感想を当時持った。もう17年も前の事だけれど、そういう感想を持った人は以後の公演に行こうとしなくなる事もあるだろうから、未だにその評価のままで固定されてる人も一定数要るのかもしれない。

Netflixで『Laughter in the Dark Tour 2018』が観れるようになった事でそれが幾許か払拭されてくれてればいいんだけども。いやもうその3年半後の『Utada In The Flesh 2010』の時点でかなり安定していたし。…NY公演はイマイチだったのかな?

ツアー、コンサートってのはそういう10年単位とかで評価とか集客が動くものだから、宇多田ヒカルのツアー経験値はまだまだ浅い。なのにここまで生で安定して歌えるようになったのは凄まじい適応力だわさ。

『40代はいろいろ♫』でも言ってたように、ヒカルは自分の歌が難し過ぎて生で歌うには適していない事をよく知っている。なのでじゃあカバーライブやろうぜなんていう提案は過去何度もしてきた。大体の歌は楽々歌える人なのだから。“Amazing Grace”とか聴いてみたいよねぇ。

それの後押しをするべく(?)“Me Porto Bonito”をカバーしたのにアテがハズレて。あれがYouTubeでいつでも観れるってなってたら状況改善に一役買ってくれてたと思うんだけども。勿体無い。いや望みを捨てちゃいけないわね、いつか許可が下りることを祈ろう。

本当は、ヒカルの生の歌唱力を“誇示”するんだったら「デュエット・ライブ」を企画するのがいちばんなんだけどね。椎名林檎をはじとして豪華ゲストが次から次へと登場してヒカルとデュエットしまくる、という。それをやったら如何にヒカルの歌唱力が高いか非常にハッキリわかるんだろうけど…そんなイヤラシイ意図じゃするはずないわな。というか、そんな意図がなくてもそう受け止められてしまうから実現が難しいという困ったアイデアなのよねデュエット・ライブって。

でなは、ライブではなく『宇多田ヒカルのうた』への返答として、ヒカルがヒカルの曲をカバーしてくれた人達のオリジナル曲を歌いまくる「宇多田ヒカルのうた-2」なるアルバムを制作すれば面白いけどね。来年リリース10周年だしそろそろいいかも。…って、あれ?このアイデアも昔書いた気がするなここで…。

勿論毎度の事ながらヒカルのオリジナルの新曲こそがいちばん待望なのだけれど、今年の後半って、今の流れだとライブツアーに雪崩れ込むのか新曲出すのか或いは両方なのか、全然見えてきてないのよね。ユーロスターで作ってた曲が日の目を見るのはいつの日なのか。

読めないねぇ。まぁいつも予想当たらんからな無意識日記は。じりじりする日々が続きます。デビュー25周年記念日まであと7ヶ月っすな。

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Twitter上の議論みたいな言い合いの99.999%くらいは「その人とその人、別の人よね?」という呪文を唱えると消え去る。

俗に言う「主語がデカい」というヤツだ。ある人の発言に対して「男はこう言う」「女はこう言う」だとか「日本人はこれだから」とか「撮り鉄ってさぁ」とか属性で一括りにした主語を出して議論を始めるとさぁ大変。2~3ステップを経る頃には対象が混乱している。具体例を挙げるとひたすら疲れるので何のことかわからない人はごめんなさい。

だが、この「主語をデカくして対象が入れ替わる」というヒトの「欠点」は、ここまでヒトが繁栄する原動力にもなっている。「旅人はもてなそう」「老人は労ろう」「困ったときはお互い様」「同じ氏族だから援助しよう」─こういった道徳の数々は、受けた恩をその属性を持つ人々総てに返すシステムによって成り立っている。受けた恩を別の人に返すシステムによってね。

それがいちばん発揮されるのが子育てだ。こどもを生んで育てるのは大変だ。損得で言えば損ばかりだが、「自分も親にそう育てて貰ったんだから」という連鎖で成り立っている。親から受けた恩を子に返すことでヒトはここまで繁栄してきたと言ってもいい。教育が重要になった近現代の話と言ってもいいが。実際に世話になった親という人ではなく、ただ生まれてきて泣き喚いて己の要求ばかり主張する存在に尽くすのだから打算的な人には無理な話なのですよ。

…なんだろう、こういう話題、独り身な自分には刺さるな…読者の人にも刺さってる気がするな…。

そんな諸刃の剣で「その人とその人って別の人よね?」システムは今日も元気に稼働中だ。善し悪しについて論じるのは難しいけれど、いやでも普段の議論はちゃんと主語を固定した方がいいですよ?


という話をしたのは他でもない、ヒカルさんの歌詞のテーマとして「親子」が重要という耳タコなポイントに加えて、これからはもうひと世代下った「親子」の方が歌詞のテーマの中心になっていくからだ。既に6年近く前の(もうそんなになるんだよ)『あなた』から口火が切られているよね。

「その人とその人って別の人よね?」システムは、逆から見ることも出来る。「別の人だと思ってたけどあれそれ私のこと?」っていうね。何が言いたいかというと今後のヒカルさんは、前々から自ら描いてきた娘として母(と多分たまに父)を見上げる目線を、「息子に当て嵌める」ターンに入っていくということだ。宇多田ヒカルが藤圭子を尊敬と愛情をもって見上げてきたように、ダヌくんも宇多田ヒカルを尊敬と愛情をもって見上げていくだろうから。全く同じではないにせよ。

もっと言えば、今と未来のヒカルは昔のヒカルの熱烈な視線に果たして耐えられるか?という話。勿論、ダヌくんが歌手を目指すとか決まった訳ではないだろうしそういう意味で尊敬の眼差しの質は異なるだろう。それに、ヒカルはダヌくんのことを悪魔呼ばわりしていないだろう。そこは全然違う。

だけれど「愛されることの重み」を、過去に自らが母を愛した熱量によって思い知らされるというのは、恥ずかしさもあるかもしれないけどやっぱり「責任重大」なんだと思うのだ。この風景は、『relationship with myself』、「自分自身との関係性」の発展形のひとつになるかと思う。『PINK BLOOD』はどちらかというと現在の自分が現在の自分自身に対してどう振る舞うかというのが主なテーマだったように思うが、そこから更に過去の自分との関係性及び未来の自分との関係性にまで視野が広がっていく。そこから更に「こうであったかもしれなかった」という仮定過去の自分、みたいなのまで考え始めたら…それは行き過ぎかな。


こういうものの見方をすると結局『Deep River +』の散文詩に行き着くよね。

https://ameblo.jp/smile-smile-smile-world/entry-11610578954.html

『然るに人が一生の中で最も愛すのは
 世界で一番似ている人───自分の子供。

 私は、子供だ。』

ここの部分を切り出すと、19歳の時点でヒカルは今の状況を予見していたかのように思われる。「その人とその人って別の人だよね?」─でも、限りなく近い。どんな風に子を、過去の自分を愛すのか、これからの歌詞の変化に注目していきたいですね。

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