無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回はファンダムの話をしたので、今回は「アイデンティティ」の話。日本語だと「帰属意識」と訳される事が多いこの言葉だが、自分のような日本語圏民としてはピンと来ないというのが正直な所。まぁそれはさておいて。

ヒカルのアイデンティティって何?となるとそりゃまぁいろいろあるよね。アジア系の人種だということ、職業が音楽家であること及び音楽家一家で育ったこと。東京とニューヨークを行ったり来たりして生きてきたこと(今はロンドン)、などなど。そして言語に関しては完全なる(いや完全以上の)日本語と英語のバイリンガルで、最近はフランス語にイタリア語にスペイン語まで手を伸ばしていて。ならヒカルの場合、言語はアイデンティテを語る際に相対化されていてそれに帰属する感覚は薄いのかなと思いがちだが私これ真逆なんだと思うのよ。

確かに、特定の(国の)言語に自己を依拠させるというのは少ないかもしれないが、もっと普遍的に「言語」そのものにフォーカスしたとき、そこに強烈にアイデンティティを感じているように思われる。それは文学好きであることや作詞家であることもそうなんだけど、もっと直接的に、人間による言語活動の存在自体が宇多田ヒカルのアイデンティティの大きな部分を占めているのではないかなと。


そう思わされたのが例の“non-binary"のカミングアウトの件だ。久々にビルボードのインタビューを引用する。
https://www.billboard.com/music/pop/hikaru-utada-interview-bad-mode-feature-1235020381/

『I didn’t know the word “nonbinary” until probably not even a full two years before that. When I came across the idea of it… in Japanese, there’s this expression, “fish scales fall off of your eyeballs.” (“Me kara uroko ga ochiru.”) It’s a weird expression, but that’s exactly what I felt. It’s a moment of “eureka,” or shock, almost.』

グーグル先生に任せるとこう。

『「ノンバイナリー」という言葉を知ったのは、おそらくその2年ほど前でした。その概念に触れたとき…日本語で「魚のうろこが眼球から落ちる」という表現があります。 (「めからうろこが落ちる」)変な表現ですが、まさにそう感じました。 「エウレカ」、つまりショックの瞬間です。』

これは、ヒカルが言葉とそれが表す概念に出会ったときの感動がどれだけ大きかったかを物語っているように思われる。もっと踏み込んでいえば、言葉を知ることで自らのアイデンティティを着地させたのだ。

このあと

『 I just thought it was a me thing. To know there were loads of people out there feeling something similar, it was the most validating experience I’ve ever had. It just changed everything – my relationship with the world and myself – but it wasn’t anything I felt I needed to tell everyone.』

『私はそれこそがまさに私のことなのだと思ったのです。似たようなことを感じている人がたくさんいるのを知ることは、私が今まで経験した中で最も有効な経験でした。それが世界と私自身との関係すべてを変えてしまったんです。』

とも語っているので通常の意味でのアイデンティティとの邂逅、即ち「同じような人がこの世の中に存在して一定の認知を得ていること」について非常に高い価値を見出している─つまり、「自分と同じ境遇の人たちがいることに感動し安堵した」こともまたきっちり押さえておかねばならないが、やはり最初の「エウレカ」、新しい概念と出会ったときの驚嘆と歓喜が甚だしかった点がヒカルの個性、アイデンティティの一角を占めているように感じられた。ここらへんは読者の皆さんひとかたひとかたそれぞれに感じることが多様だと思われるので、ヒカルの言葉をしみじみと噛み締めながら各々が感じたままを解釈してほしいとこです私としては。

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でそのタナソー&三原勇希with有泉編集長featuring宇野維正なpodcastで盛んに連呼されてたのが

・ファンダム
・アイデンティティ
・コミュニティ

の3つの単語だった。恐らく喋ってる方は「盛んに連呼」してるつもりは全く無い。宇多田ヒカルファンとして聴いた時に「そうか、他のアーティストについて語るときはこういう単語が普通に飛び交うんだなぁ」と思った訳である。

「ファンダム」については昔から語られてる通り、宇多田ヒカルにそんなものはほぼない。ファンクラブ作ってないからね。ヒカルがそうしてる理由は複数あるが、根本的に「集団を作る」という気持ちがないのだわ。なぜ人は群れるかというと大多数の人間は「不安だから」で、早い話が「孤独は嫌」だからなのだが、ヒカルさんは一貫して「孤独とどう付き合うか」を歌詞の主たるテーマとして掲げてるので、そもそもこのアーティストシップと合わないんよね集団の齎す幻覚って。そしてそのアーティストシップは宇多田光というパーソナリティに自然に備わったものでプロの作詞家云々以前に存在しているものだ。単純に「そういう人なので」ってだけですね。

ヒカルは自分のことを、学生時代のクラスの中での振る舞いを思い出しながらこう形容している。

「どのグループの人たちとも仲良くしてるけどどのグループにも属さないヤツだった」

って。プロのミュージシャンになってもそれがまるまるそのまんまという、ただそれだけのことなのだ。

だがこれが幅広いファン層を生むから面白い。実はファンの方も、「もし同じクラスだったとしてもつるまなかっただろう人たち」で構成されているのよね。そんな人たちと沢山知り合ってきたわ私も。

これが奇妙な帰結を生む。ミュージシャンのファンダムというのはどうしても偏る。一定の学業や職種の人が多い…とまでいうと語弊があるが、「いかにも矢沢永吉ファンっぽいよね」とか「あゆ好きそう」とかいうのがすぐわかる人たちがかなりの割合を占める。ところが宇多田ファンにはそういうのが皆無なので、一定人数が集まると「自律的に動きそうな小さな社会」が形成されてしまうのだ。ラーメン屋さんがいてお医者さんがいて法律家がいて税理士がいて研究者がいてコンビニ店員がいてドライバーがいて先生が居て…いや勿論他のミュージシャンのファンでもこういうことにはなるんだろうけど、宇多田ファンの場合は原理的にこうなることになるのが少々違う。「クラスタを選ばない」から。

つまり、「特定のグループに属す気のない人間」を集めたらちゃんと機能しそうな社会が形成される…この逆説的とも言える結論は、考えてみるまでもなく当たり前のことだったりする。だってそれが本当の実社会だからね。幾つものグループ、コミュニティがそれぞれのシマを形成しながら、それらがなんとか繋がり合って漸く自律的な社会が出来上がってるんだから。オタクとヤンキーの気が合わないったって、精密機械を作る人と建物を建てる人、どっちもいないと社会は作れないでしょ。(オタクとヤンキーの親和性についてはここでは語らんよ?(笑))(…って、こういうステロタイプな分類をすると不興を買うよね)

そしてこれが、「宇多田ヒカルのヒットには上限がない」ことの証明の1つになっている。年齢や職業や学業や性別やなんやかんやで分断されたグループやコミュニティに依拠せずに活動している為、いざヒット曲が生まれるとあらゆるクラスタから支持を得られる。今までで何度か桁外れな大ヒットを生んできた理由がここにある。集団を縦断できるこの強みは、いざヒットが出なくなったときのファンベースの脆弱さとは裏腹だ。それもまぁ、何かを意図していたというよりは、学校のクラスでの振る舞いからミュージシャンのしての活動から何から、ヒカルがずっと自分らしく生きてきたことの帰結でしかなく、そう肩肘張って語るようなことでもないんだよねと「お前がそれを言うか」な一言で締め括りたいなと思います。笑。

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