無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『EXODUS』の時に所属レーベルのアイランドがUtadaを全く売る気が無かったのは当時を生きていた方々ならご存知かと思うが、それが端的に現れていたのがUtadaの“ヴィジュアル・イメージの不統一感”だった。

特に、周りのヴィジュアル・スタッフがその歌詞の世界観を全く理解していなかった事は明らかだ。何故米国と日本の対比を描く“Easy Breezy”でUtadaが水着にならねばならぬのか。それはそれで眼福だったが(←ちゃっかり楽しんどるやん)、「それでこの曲のミュージック・ビデオを名乗る気か?」と疑問に思ったのは私だけではないだろう。更にアルバムジャケットもアメコミ調の塗りで「…だから?」というものだった。

本来なら『EXODUS』は日本からの&アジアからのエキゾシズムを盛り込んだヴィジュアル・イメージを前面に押し出すべきだった。というのも、まずリミックス・シングルがリリースされた『Devil Inside』はダンス・チャート狙いでありながら和風そのものである「鼓や琴」をモチーフにしたシンセサウンドをフィーチャーしたものだったし、件の『Easy Breezy』は歌詞に『Konnichiwa Sayonara』という一節が出てきていたし、その後にリミックス・シングルがカットされる『Exodus '04』でも『Through traffic jams in Tokyo』という歌詞が出てきていた。ヒカルとしては、サウンドの面でも歌詞の面でも、それがメインという訳では無いが、日本やアジアのカラーで自らの個性を特徴付けることを厭わなかった。そこらへんをレーベルはヴィジュアル面から一切サポートする気がなかったのである。当時記事の見出しとして何度も使われた「21歳の(遅れてきた)アジアのブリトニー・スピアーズ」だと思っていたのは他ならぬレーベルの方だった、というのは全く笑えない冗談だった。

その、アメリカでのヴィジュアル・イメージの拙さを一挙に払拭してくれたのが英国デビュー時だ。紀里谷和明がここで出てきてくれるのよ。ジャケットもクールでミステリアスだったし、何より『You Make Me Want To Be A Man』のミュージック・ビデオが力作なのだ。「Casshern」でも炸裂していたサイバーパンク趣味やディストピア・イメージがこれでもかと詰め込まれている。

だがこのビデオでは、上述のような日本やアジアのイメージが前面に押し出されている訳では無い。単純に、同曲はそういった歌詞やテーマではないからだ。その代わり、このミュージック・ビデオでは、歌詞に則して、ジェンダー観の面で非常に挑戦的な内容になっていた。

元々同曲の歌詞は、タイトルの通り「男と女」の話である。そこからキリスト教圏での男女観の源泉であるアダムとイヴの物語に切り込んでいく。当時この映像を観た際、痛快を通り越して恐ろしくなった。こんな内容をキリスト教圏でリリースしていいのかと。幸か不幸か、同曲は海の向こうで(も日本でも)全く話題に上ることはなかったようだ。落胆と安堵の両方の感情を味わったよ。

Utadaの、そして宇多田ヒカルのジェンダー観はまずこのビデオを見てからでないと理解できないかもしれない。いや勿論、デビュー当初に「アダムとイブをテーマに書かないかと言われたけどあたしはそれ嫌いだからボニー&クライドの物語にした」と明言して『B&C』を歌った人だからその点では昔からヒカルのジェンダー観は知れ渡っているのだが、それが非常に“強い”主張である事は、この『You Make Me Want To Be A Man』のビデオを見なければ伝わらないかもしれない。この過激さこそ真骨頂。もしこのビデオで全米デビューしてたらと思うとゾッとしたよね……15〜6年前の話だけれどね。


……というくらい昔の映像作品なので(珍しく)ネタバレ回避気味に綴ってみたけど余計なお世話だったかな??

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宇多田ヒカルの歌詞のジェンダー論を語るにあたって難しいのは、そもそもの歌詞全体がジェンダーフリーな世界観に基づいている点だ。それは、出来上がった歌詞を聞き取る・読み取る段階は勿論のこと、創作過程において既に性別を自在に操る・解き放っているという点が大きい。

その昔もりあ亭のもりあてさんが「『First Love』の恋人像は父親なんじゃないか」と(こう短く纏めると随分乱暴だな)鋭い指摘をしていた事があった。冒頭の小道具がタバコだったりしたからね。既にこの時点で父親と(元)恋人の入換、或いは置換といった方がいいかな、属性を分離して登場人物像を構築する手法が試みられている。『First Love』でいうなら、『明日の今頃にはあなたはどこにいるんだろう』の一節などは寧ろ母親を思って書いているとも思えるし、だとするとこれなどはただの置換ではなく性別転換も含まれている。

斯様に、ヒカルの歌詞においては、幾つかの素材を置換・転換・混合する事によって独自の人物像の構築が為されている。


それが最もあからさまになったのが最近作『初恋』であって、インタビューでヒカルは「私は初恋をしていない」「強いて言うなら両親」とアルバムタイトル自体がある意味“捏造”であると示唆して歌詞が実話を素材にして構築した物語であると吐露している。

本来、ステレオタイプな先入観を挿入すれば、『初恋』なんてタイトルの曲やアルバムを女性シンガーソングライターが制作するとなったら実体験に基づいたものだろうとなどと捉えてしまいがちだが、ヒカルはそういうことはしなかった。出来なかったともいえるけど。

他方、もっと挑戦的な見方も出来る。そもそも恋愛感情の発生とは親子間の感情を源にしているのではないかという発達心理学的なアプローチを歌詞創作の技巧を通じて宇多田ヒカルは体現している、という見方である。歌詞自体が構造として人間心理の発達や変遷と同型であるという、嘗てどこにもみられなかったアプローチ。これがここ5年間の、特に『真夏の通り雨』以降のヒカルの歌詞の突出した点である。

故に、だからこそ最近5年間に、逆にジェンダーを固定するような歌詞も書くようになったとも言えるのだ。『ともだち』や『Time』がそれにあたる。前から述べている通り、これらの歌詞は性別を明言している訳では無いが多くのリスナーがそう受け取るであろうことを想定して構築されている。リスナーの歌詞世界への踏み込み方を予め想定して構成を層状にしておくのは例えば『Easy Breezy』などでも顕著だが、最近はそこをもっと自然にさりげなく行っているようにもみえる。

こういったヒカルの歌詞創作上の変遷や成長を踏まえた上でジェンダー論は語られなければならない。既に総てが解き放たれ解体され再構築された上で現実世界のジェンダー観との擦り合わせが行われている最中なのだ。昨今のLGBTQムーブメント(と書くと怒る人いるだろうなぁ。私もだ。)に煽られて半ば義務感から「性別なんて自由だよね」と言うのとは段階が異なる。一周まわってきた上で現況を具に見極めてくれている、というのが妥当だろう。

こういうのは本人からは口が裂けても言わないだろうから全くの他人である自分みたいな人間が書いておくのが望ましい。的外れだったら迷惑極まりないだけなんだけどなっ。

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