無意識日記
宇多田光 word:i_
 



12年前にテレビドラマ「ラスト・フレンズ」の主題歌を歌って特大ヒット(トリプルミリオンなのだ『Prisoner Of Love』は)を記録した事もあり、「宇多田ヒカルがLGBTQに関連した歌を歌う」というのは共通認識があるだろう。他方、「人種」という枠組みで歌詞を書く人かと問われたら大抵の人が「否」と答えるのではないか。なかなかそういう歌は思い浮かばない──日本語の歌に限れば、だが。

これがUtadaの曲になるとかなり遠慮無く出てくる。実質的に日本デビュー曲となった『Easy Breezy』は日本市場とアメリカ市場の関係を火遊びに準えて皮肉った歌だ。こんな歌がFM局でかかりまくっていたのだから日本の洋楽市場は今も昔も(相対的には)平和そのものである。

『The Workout』などは更にダイレクトだ。冒頭の歌詞がいきなりこれである。

『I was dancing with a dirty blond Texan
 (中略)
 So I showed him how people in the far east get down』

『ブロンドのテキサス人と踊ったたわ。極東女子のやり方を見せつけてやったの。』みたいな感じか。(私の訳。勿論わざと女子言葉だ。)

白人と黄色人種の対比から遊び心満載の歌が始まる。更に二番では宗教ネタまで飛び出す。本当に思い切ってたなこの頃は。


そんな中、いちばんシリアスに捉えたくなるのが『Let Me Give You My Love』だ。この曲のキーセンテンスはこれだろう。

『Can you and I start mixing genes
 Eastern, Western people』

くっそエロいこと言いよるよね。「あなたと私で遺伝子を混ぜ始めてみませんか? 東洋人と西洋人で……」てなとこか。直接的だが、これは勿論比喩も兼ねていて、ヒカル自身が(当時のUtada自身が)日本語と英語の両方を話し日本と米国の両方に住んでいた事から、文化的遺伝子(meme)を混ぜ合わせた存在だと自覚していた事を示している、のだろう。

で。ここで気になるのはその前の、楽曲冒頭の歌詞である。

『What a day, young boy next door passed away
 Oh it makes me wanna say
 I don't wanna waste my another day』

「なんて日! 隣の男の子が死んだ
 毎日を無駄にせず生きなきゃと思ったわ」
てな感じか。でここからが私の偏見なのだが、この男の子が黒人の設定なような気がするのである。なんて酷い事を言っているんだと自分でも思うが、黄色人種が白人を口説いている隣で黒人が死んでいる、という構図を楽曲冒頭に持ってきていたのではないか、と私は推測した訳である。それが当時も今も続く各人種の立ち位置を端的に表現しているのではないかと。勝手な想像だと今一度念を押しておくが、これ、ヒカルは(Utadaは)当時のインタビューで触れてなかったかなぁ。忘れてしまったよ。ただそれを無意識裏に思い出してるだけだったりするかもね。
 



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Black Lives Matterで特にアメリカでの黒人差別が話題に登る機会が特段に増えたが、普段ポピュラー・ミュージックを聴いているリスナーとしては違和感しかない。というのも、アメリカのチャートのメインストリームは少なくとも過去30年ずっとヒップホップ・カルチャーが占めてきているからだ。

アメリカの大衆音楽における黒人音楽の影響力は絶大である。白人がロック・ミュージックを隆盛させたのも、黒人のジャズ&ブルーズへの憧憬と白人ならではのアイデンティティ確立の葛藤故に、だ。

特に今70代前後のロック・ミュージシャンにそれは顕著で、エリック・クラプトンなどは初期にCREAMで白人のハード・ロック・サウンドの礎を築いておきながら後に早々に黒人音楽であるブルーズ・ミュージックに傾倒しそれ以来ずっと黒人礼賛だ。後に同じようにハード・ロックからブルーズに回帰したゲイリー・ムーアが元CREAMの二人とロックバンドを結成したのも象徴的だったがそれは余談だった。BBMの“Where in the world ”はとてもいい曲。


エリック・クラプトンといえば後発の白人ロック・ミュージシャンたちからすれば神のような存在だが、その彼が黒人音楽に跪いているのだ。そういう風景を見ながら育ってきたリスナーにとって黒人ミュージシャンたちというのは圧倒的に尊敬の対象でしかなく、マイルス・デイビスとかジョン・コルトレーンなんて神様どころか大界王神様か全王様かという(以下略

その黒人たちがあからさまな差別を受けていると言われても、なんだろうな、別世界のように感じるのが海を隔てた遠い国で音楽を聴いている者の実感なのだった。


宇多田ヒカルはどうやら6歳の頃にはニューヨークに居たらしい。"Utada Hiraku/ウタダヒラク"とスペルを間違えて名前を書かれて『私、開かない!』と憤っていた頃だ。となると1980年代末期。ニューヨークのシーンも黒人たちが席巻し始めている時分で、その頃から両親に付き添ってミュージック・スタジオに通っていたなら当然黒人ミュージシャンたちとも出会っている訳で。ラジオやMTVをつければどんどん黒人音楽が流れてくる。そんな環境で育ったのだから、彼らが迫害されてきた歴史に対して思うところがあるのは当然なのだろう。

大衆音楽として輸入されてくる洋楽の黒人音楽の影響力からみても、ヒカルのように現地で実際に彼らと交流していた人間からみても、彼らに対する迫害の……というか大体虐殺の歴史に対しての憤慨と無力感は拭えない。それを感じさせて貰えて来れたのは、彼らが作った音楽が素晴らしく、こうやって海と時を超えて今でも世界中に遍く響いているからだ。まだこれから何十世代もかかるかもしれないが、黒人差別が消えていく過程で音楽の果たしてきた、これから果たす役割は決して小さくない。我々はただ彼等の奏でる音に耳を傾けるだけでもいい。そこからたまに生まれる愛着が、彼等の地位を本来在るべき場所に到ら使める。道程は果てしないが、きっと王道なんだと、思うよ。

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