無意識日記
宇多田光 word:i_
 



LGBTについて私が言うのであれば、前に書いた通り「描かれている対立構図は《性愛クラスタvs非性愛クラスタ》であり、そこでは異性愛か同性愛かという論点は二次的に過ぎない」という点だ。そこは変わらない。

同性愛者が攻撃される理由は種々あると記述されるが、この肝心の「非性愛クラスタからの攻撃」を見落としているケースが多いように感じられる。性愛クラスタの人間は、そもそも非性愛クラスタの人間を視界に入れていないからだ。

ここに弊害が生じている。世間的には性愛クラスタの方が強い。単純に主流派とされているからだ。恋愛やセックスはするものであり、そこからいちいち訊かないで欲しい、と。そんな態度で居るから非性愛クラスタをいつの間にかネガティブに試験刺激する事になる。

が、如何せん非性愛クラスタは(この呼び名のアイデンティティの無さからわかるとおり)非主流派とされているので表立って性愛クラスタを攻撃する事が出来ずルサンチマンを溜め込んでいる。その標的になるのが同性愛者だ。

同性愛者は性愛クラスタという主流派にありながら異性愛者に較べて少数派だ。故に非性愛クラスタはここを攻撃する。理屈は何でもいい。兎に角性や愛を謳歌している人間が憎くて仕方がないのだから。

また性愛クラスタの異性愛者は主流派中の主流派だから自覚の薄さは天下一品で、ただ生きているだけなのに同性愛者や非性愛クラスタを刺激する。中にはその優位性をもって侮蔑や嘲笑を与える。まぁそりゃ恨まれる。

と言っても、当人たちは気づかぬままだが。

その無神経さをよく現しているのが、そう、『初恋』の6曲目に収録されている『Too Proud』のテーマ「セックスレス」という言葉である。

本来の定義にまで立ち戻れば、ものの本にはちゃんと「パートナーの双方が生活上何の支障も感じていないのであれば、長年性交渉がなくともセックスレスとして問題視される事はない」と書いてあると思うんだが、世間を独り歩きしたキャッチフレーズはそうはいかない。特にここ日本は国際比較上も性交渉のない夫婦の多い国らしいが、そういった国でも「え、1ヶ月以上何もないの?セックスレスだよ!」と前提条件をすっ飛ばして他人に価値観を押し付けてくる。別に寝室が別々のまま何年も仲良くやってる夫婦なんて幾らでもいるのにそういう人間を捕まえて「深刻ですねぇ」と言ってくる人がいる。別に性愛の話に限定しなくても、こっちが何も困っていないのに「それは問題です」とズケズケ入ってくる人間が居る。

性愛クラスタの異性愛者たちが時折もつ無神経さはこの種のものである。こういう、優越感か何か知らないが、勝手に人を見下したり問題視したりする人間が火のないところに煙を立てて「いわれのない差別」とやらを生み出すのだ。この構造を把握していないと、いつまで経ってもルサンチマンは形を変えて人々の間で生き続けるだろう。

なお、「いわれのない差別」という表現もまた間違いだ。いわれがあったら差別するのかしていいのかというと違うからだ。毎度言っているように差別とは常に強者による「弱いものいじめ」でしかなく、弱者が何の属性を持っていようと一切関係がないのである。性別も国籍も人種も無関係。ただ"その場で弱い"ってだけなのだ。

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最近夜の日記を書いた後に『初恋』を聴きながら帰るのが楽しくてねぇ。本来のこの日記の性質上聴いた後に感想を書く、って流れの方がいいんじゃないのという気がいつもしてるんだが止められない。B面の曲(私の感覚でいえば2枚組の1枚目後半から2枚目にかけて)を聴いてるととーっても癒やされる。単純に疲れているというのがいちばん大きいんだろうけれど、なんだろう、なんていうか全体的に「子守唄み」が強まってる気がするんだよね。これからリラックスして寝るぞってタイミングで聴くとちょうどいいやつ。

筆頭は勿論『Good Night』でタイトル通りのおやすみソング。『パクチーの唄』はもう芭蕉扇で煽られてるよね。いや吹っ飛んでいきゃしませんが。曲の出来がぶっ飛んでいるとはいえ。『夕凪』なんかは子守唄と絵本の朗読の中間くらいかな。前身曲たる『海路』のコンセプトが「日本昔ばなし」的だったから、その影響も強くって…

そういえば常田富士男さんが亡くなられたのだったな。合掌。公共の電波に乗せてあれほどヒカルを号泣させた(しかも大体嬉し泣き)色男は彼をおいて他になくピカチュウ男子の(って俺だけか?)羨望と尊敬を一心に集めた人物。ぶっちゃけ『BLUE』の歌詞を朗読しただけなんだけど、考えてもみなさい、もしあなたの書いた曲をヒカルが歌ってくれたとしたら?泣くに決まっているでしょう私なら思い出し泣き含めと週7回泣きますよつまりヒカルにとってはそういう人物だったという事ですよ。

週末に「置鮎龍太郎と同じ声が出る人を1日100万で雇いたい」というツイートがバズっていたが、本人でもないソックリさんにすらその額を出せると言いたくなるほど小さい頃(でなくともいいが)に浴びた"声の洗礼"の影響は大きい。ヒカルにとっては「それで日本語を覚えていた」&「孤独と向き合っていた」2大幼少期自己形成の源泉であった「日本昔ばなし」におけるビゲスト・アイデンティティの片割れに自らの詞を朗読されるなど魂を丸裸にされるようなものだったろう。あれ以来、やっぱりヒカルを公の場であそこまで泣かせた男は存在しない。究極の色男でした。慎んでお悔やみ申し上げたく存じます。

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