岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

三手先を、読むか、行くか

僕以外の、多分誰にも知られていない石川語録。
「三手先を読め。それだけで随分違う」
僕は、今夜、ふと考えた。
三手先を容易に読めるのならば、
読んだほうがいい。
これは当然だ。
容易に読めない場合のほうが、
しかし、人生では多い。
読めない時は、
堂々巡りになっちまう。
三手どころか、次の一手が読めない。
読めないどころか、
次の一手がさせないのだ。
踏み出す勇気が湧き上がらないのだ。
そういう時は、
先を読もうとしてはだめだ。
三手先まで突っ走ることだ。
読む前に行け。
三手先まで行ってから、
言わば〈後読み〉すればいいのだ。
それでも、物語は展開するのだから。
いや、既に展開〈した〉のだから。
大事なのは、
堂々巡りではなく、物語の展開だ。
ドアは閉めるためではなく、
開けるためにある。
無論、
何も見るものがないことを知るために開けるドアもある。
そう、空虚だけがひろがっている世界だ。
しかし、〈本当の〉空虚を見ることができたら、
幸福とは言わないまでも、何事かではある。
なぜなら、
〈本当でない〉空虚、実体のない空虚、
幻影のような空虚の中に漂うばかりの無意味よりはましだから。
ところで、これで何か言ったことになるか。
僕の語録、第一号。
「三手先へ行け」

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