こころの声に耳をすませて

あの結婚生活は何だったのだろう?不可解な夫の言動はモラル・ハラスメントだった…と知ったウメの回想エッセー。

本当の孤独とは

2007-06-06 22:16:50 | モラハラエッセー(離婚後)
 今日、仕事のことで本社に出向き用事を済ませて帰ろうとしたら、営業から帰ってきたばかりの先輩胡桃さんにばったり会った。「あら、ウメさん今日はどうしたの~?」「A企画のことで資料を届けにきたんです」「急いで帰らなくてもよかったら、ちょっとだけお茶飲まない? 私も喉かわいたし~」というお言葉に甘えて、休憩室でコーヒーを入れてもらった。
 胡桃さんは、もう40才過ぎているが、3才と7才の子持ち。だが、だんなさんが家のことも協力的なので、仕事を続けている、うらやましいキャリアウーマンだ。
 
 コーヒーを飲みながらなぜか老後の話しになった(最近こんなんばっか!)。「私の知り合いの男性で、仕事はばりばりだけど結婚もしないでひとりでいる人がいるんよね~。でも家事もけっこう自分でできるし自分なりに生活楽しんでるから、あんまり人付き合いしなくても平気って言ってるんよ。でもそれって寂しいんじゃないかと思ってたんやけど…」
 ひたすら聴き入る私。
「私なんて、子どものママ友から仕事関係から、夫の家族から、いろんな関係があって、ちょっとややこしいけど、その方が年取っても寂しくないんじゃいかって私は思ってたわけ。でも年取ったらそうそう出かけるのもおっくうになるし、人間関係ややこしいのはかなわんし。もしかしたらひとりで楽しめる人の方が、年取ってひとりになっても全然平気で暮らしていけるのかもしれへんね~」
 そこではじめて私は大きくうなずいた(←自分を思った・笑)。
「むしろ、ひとりでもそれなりに生活を自分で楽しんでる彼の生活スタイルの方が、老人になっても全然平気なんじゃないかな~、なんて思っちゃった。きっと年取ってもひとりで何かと楽しんで暮らせる気がする~」
「そうですよね~、私もそう思いますよ~~」強くうなずく私(爆!)。

 高齢者の自殺やうつが問題になっていた頃、東北のある地区に住む高齢者達に、自殺を考えたことがあるとか、うつ症状の有無に関する調査結果を聞いたことがある。家族と暮らしている高齢者と、独居の高齢者とどちらが自殺が多かったか。

 答は専門家の予想を超える衝撃的なものだった。
実は、家族と同居している高齢者の方が自殺率がずっと高かったのである。
 この調査では、家族の中で遠慮し、孤立し、居場所を失う高齢者がいた。身内の中にいながら孤立を感じるよりもひとり生活を好きに送っている人の方が、うつも自殺も少なかったのだ。

 家族の中の孤独。夫婦の中の孤独。
身内の中にいる孤独はまた厳しいものがあることを、私は身をもって知っている。
「家族こそ理解し合える、支え合える」という幻想。「夫婦だからこそわかりあえる」という幻想。
 家族だから、誰よりも厳しく、きつく、怒りを、恨みをぶつけてしまう。夫婦だからこそ、「理解しないおまえが悪い」と、あからさまに憎しみをぶつけ、自分の思いや期待を相手に押しつけようとする。そして自分の欲求を満たさない相手(妻or夫or子or親)が悪いんだ、自分の言うことを聞かない奴は、懲罰を与えるのが当然だ、と、そこは世にも残酷な拷問部屋となってしまう。外には届かない悲鳴、心の叫び。そして、『家族なのだから、いつかはわかりあえるはず』『夫婦なのだから、理解し合わなければいけない』『家族なのだから我慢しなければいけない』、という呪縛に苦しみ、徐々に自らを失う苛酷な日々。

 もちろん、温かい家族も多いだろう。お互いに喧嘩したり泣いたりしながらも、思いやり、お互いが支えとなり、家族はいい、としみじみ噛みしめる家族。家族への賛歌、母親への思慕は歌になり文学になり、心の拠り所となる。

 しかし…家族でいること自体がとても苦しく、お互いが無理している家族も多い。暴君がいて、他の家族はじっと我慢している、という場合もある。絶えず怒りに怯え、顔色を窺いながら息を詰まらせる夫婦、親子がいる。

 ひとりで生きる力があるのなら、苛酷な環境からは一刻も早く離れた方がいい。家族の欲望を優先して、自分の魂が息も絶え絶えになっているのなら、思い切って飛び出してみるといい。
 はじめはひとりでいることの不安に戦くかもしれない。寂しさに打ちひしがれるかもしれない。
 しかし、すぐにひとりで生活する平安に気づくはずだ。誰も自分を脅かさない。誰も自分を責めない。誰も自分を攻撃しない。誰も自分を蔑まない。
 それがどんなに、自分の糧になることか。縮こまっていた自分が大きく伸びをし、肺いっぱいに酸素を取り込むことができるか。

 ひとりでいることは、実はまったく怖くない。将来のことを考えたりすると、不安になることはある。これからひとりで生きていけるのだろうか、という不安もある。しかし、常に誰かに脅かされる日常はない。
 2人でいるほうがよっぽどコワイ。家族で過ごすことのほうが、よっぽど苦しい。

 15才から家を出、結婚して夫のモラハラに遭った私の結論だ。

 でもそれでいいのだと思う。家族は万能じゃない。家族も人間だ。そして人間は不完全だ。親だって、夫だって、それぞれの人生を歩み、自分の理解できる範囲でしか、ものごとを捉えられなかったのだ。自分の尺度でしか解釈できなかったのだ。それを当然のことと思って、相手も当然わかると思って、押しつけただけだったのだ。単に自分の器の中にある狭い知識の中から、勝手に判断して、相手にぶつけただけだったのだ。
 それをわからせようとしても、無理がある。理解しようとしても、わかりあえない。自らがわかろうと一方通行でなく、お互いが、相手に心を開かなければ無理だ。

 求められない家族だったら、離れればいい。わかりあえない夫婦だったら、離れればいい。いつまでも固執し、いつまでも執着し、いつまでも変えようとし、いつまでも恨みを持ち続けると、自分の魂が死んでしまう。

 私は自分で生きることができるのだ。他人からの応援を受けながら、自分も時に応援しながら、自分の力で生きていくことができる。そう信じればできる。
 
 
 私達は、生きていける。信じよう、自分の可能性を。自分の力を…!




脱依存

2007-05-03 00:19:29 | モラハラエッセー(離婚後)
 誰にでも優しい優男。仕草もゆったり落ち着いた感じで、他人に安心感を与える雰囲気があった。しかもとてもまめ。気がつけば他の社員のコーヒーカップなども洗っておいてくれたり、紙で指を切ったりすると、さっとバンドエイドを出してくれる。他の社員からも「優男さんはまめでよく気がつき助かる」と評価が高い。彼の優しさに、私も大いに慰められ、嬉しい気持ちにさせられていた。
 ただ優しさの裏返しは優柔不断だとも言えるが、そんなところも少しずつ見えてきたりもしたのだった。

 優男に「優男さんは優しいからいろんな人に頼られるんじゃないんですか?」と聞くと「頼られてしんどいときもあるけどね。相手の事情もわかると断れないね~」と言った。「でも我慢しすぎて怒ることってないんですか?」「う~ん、3年に一度くらいは爆発するかな」「え?爆発って?」「あはは。ちょっとものに当たったりするだけだけどね」…思わず引いた。
 この人、実は内面はコワ~イ人かもしれない…。ついモラの二面性を思い浮かべてしまう私…。

 「僕は弟が難病で親がずっとつきっきりだったし、弟自身も大変だったからけんかもできなかったしね。常に優しくしなくちゃっていう意識があったんだ。親も苦労してたから、あまり親の手を煩わせないようにって、家事なんかも手伝ったしね。その頃からかな。自分よりもいつも他人のことばかりが気になってしまって…。自分がないな~って感じることがあるよ」「就職だって自分がこれやりたいって思ったわけじゃなくて、親戚から勧められたところに就職したわけで。まあ、それでも何とかなってるからいいことにしようか」う~~~ん。深読みする私。そういえば、飲みに行くときも優男にどんなお店がいいか聞いても、いつも「どこでもいいよ」「ウメさんの行きたいところでいいよ」と言っていた。自分の欲するところがわからないのかもしれない…。

 そして何回か優男と一緒に映画に観ながら、「え?」と引っかかるようなことが何回かあった。それは何か。私は映画が好きなので、観たい映画はとても楽しみにしてみる。優男は映画の話しをすると「じゃあ僕も観てみよう」とついてくる感じだった。そして映画を観ながら寝ていたりすることもあったのだ。それを見て私は少々不愉快な気分になった。この人はほんとに映画を楽しんでいるのか?
 そしてある映画を観終わった後、私が映画の感想を言いながら「あの場面では泣けたわ」と言ったら「そう?あそこで泣いたんだ」と冷めているのだ。これにもムッとした。この人、ほんとに面白くて映画を観に来ているの?再度私の中で疑問が湧き起こった。ある日、優男とお茶をしながら「ほんとに映画楽しんでます?面白いと思って観てるの?」と聞くと、優男は言葉に詰まった。少し考えてから「僕は自分で楽しみってあまりもてないんだよね。だから何かを楽しんでいる人と、それを一緒にすることで自分も楽しめるんじゃないかな~、と思っているんだけどね」と言った。更に「仕事が終わって早く家に帰っても特にすることがないからつまらなくて、何となく店をぶらついたりパチンコしたりして時間をつぶしてから家に帰るんだ。だから映画なんかが楽しめたらいいな~、とは思ってるよ」と言った。

 ここで私の頭の温度がサーッと下がった。優男にはまるで自分というものが感じられない。映画だって悪く言えば暇つぶしだったのだ。だから興味もない映画を観たら眠くなったりするのだ。自分で欲するものはわからない。でも誰かがお膳立てしてくれれば、それに乗ればいい。そうすれば楽だ。自分の欲することも他人が考えてくれる…。優しくすれば他人は自分の期待に応えてくれる。自分の存在を認めてくれる…。それが優男の優しさだったのだ。でも人間には限界がある。あまりに優しさを他人から求められ、本人がその要求に応えられなくなったら…彼は多分突如感情的になって爆発するのだろう。自分の限界も知らず、自分の気持ちを伝えるコミュニケーションも求めず、怒らせた相手が悪い、と。

 これはモラ元夫が抱えていた空虚さと似てはしないだろうか。自分がないから妻に自分を丸投げし、妻が自分の期待通りに動いてくれないと、怒りを表明する。でも自分が何を欲しているのかすらわからないモラは、妻が自分の欲するものを当ててくれることを期待している。しかしそんなものは妻には永久にわからない。妻はあれかこれかとモラに差し出すが、モラは決して満足しない。だってモラだって自分の欲するところがわからないのだから。

 ああ、やっぱり。私は心の中で大きなため息をついた。私はいつも寂しい男性を選ぶ傾向にあった。その寂しさを埋めたい「わかってあげたい病」。自分が相手の寂しさを埋められれば、自分の存在意義が強まるような気がしていたのだ。共依存傾向にある私。そんな私は同じような相手に吸い寄せられてしまうことを、モラ元夫で痛い目に遭い漸く心底から気づくことが出来た。
 そして優男とも、少しずつ疎遠になっていった。というより自分から疎遠にしていった。すると優男からも、何の連絡もこなくなった。相手次第の男なのだと、改めて理解できた。

 私は今、自分で自分を満たす方法をやっと会得したように思う。他人によって自分を埋めようとするのではなく、他人によって自分の存在をつかもうとするのではなく、自分で自分を認めるということ、自分で自分を受け入れることを、この年になって漸くできつつあるのかな、と思う。優男から離れることができたことも、自分にとって大きいことだった。以前だったら、また相手の心を埋めようとその優しさに取り憑いてしまったことだろうから…。そしてまた泥縄…。


 だから…もう男の方はけっこうでございます~…なんてね(爆)!




異性観

2007-04-22 21:10:29 | モラハラエッセー(離婚後)
 子どもの頃の私は丈夫で滅多に病気にならなかった。子どもがかかるお馴染みの病気には順番になったが、それ以外は風邪も殆ど引かなかった。反面弟は小児喘息で苦しみ、両親も心配したものだった。夜中に弟が発作を起こすと親はつきっきりになり、私はぽっつんとひとり取り残されたような気がしたものだ。
 そして私は母親から殆ど褒められたこともなかったので、「優しさ」というものに慣れていなかった。だからたまに近所の人に何かで褒められても、どんな顔をしていいのかもわからず、喜んだらいけないような気がして、ただ困った顔をして黙っていたことを思い出す。
 私は母親からいつも文句を言われる分、父親には認められたかった。ただ父親は自分の感情や思いを表現する人ではなく、いつも無口だったため、よくわからない存在でもあった。多分母親もそんな思いはあったのだと思う。たまに母親が「黙っていられるとどうしていいかわからないから、何とか言って」と父親にくってかかっていたことを思い出す。それでも父親は黙っていた。そして家のことは全て母親に任せていた。
 ただ、私は父親をどこか尊敬もしていた。家で仕事をすることもあった父親は、黙々と何かに向かっているように見えた。母親みたいにちまちましたことで怒らず、何か別の大切なことを知っている気がした。そんな父親観が、私の異性観に少なからず影響を与えている。

 私が10代の頃に惹かれ付き合ったた男の子は、非行に片足つっこんでいた子だったり、明るく振る舞っているけれどどこか憂いがあるような男の子だった。そんな彼を理解して受け止めてあげたい、という気持ちがあったのだと思う。
 仕事を始めてからは、年上の男性に惹かれた。しかも10以上年上の男性だ。ただそんな男性は結婚していることが多く、それがわかるとすぐあきらめた。その男性を奪い取るほどの情熱はなかった。またその男性に懐いている私、というポーズを周囲にも取っていたため、ウメの憧れは○○さんなんだよね、とおおっぴらに言われていたし自分もそうだと言っていた。そんなことを繰り返して単に片想いを楽しんでいたような時があった。

 そしてモラ元夫との出会いがあった。モラ系男性には出会いの頃から共通点があるようだが、モラ元夫もそれにもれず、とにかく私にしてみたら破格?に優しくされた。車でいつも迎えに来てくれ、送ってくれ、プレゼントをくれ、手料理をご馳走してくれ、臭いセリフを吐き(爆)、優しさに慣れていなかった私は、びっくりしたものだった。どうしてこんなに優しいの?その答として、モラ元夫は「好きだ」とか「大切だから」だとか言うものだからそういうストレートな言葉の免疫がなかった私はぽーっとしてしまったわけだ(苦笑)。そしてもっともらしい人生苦悩ストーリーを語られた日には…私の「わかってあげたい病」が発病するのも時間の問題だった(爆爆)!

 そのなれの果てがモラ男に散々してやられた私だ。ただそれをきっかけに、モラ男の生態及びモラのメカニズム、そしてモラを選んだ私自身の研究をしたことで、私が何をすべきかがわかり、再独身生活を送ることになった。それは正解だったと確信している。
 だから、私はよくよく自分を戒めていた。私が惹かれる男は“キケン”印だ。私が惹かれる男は何かある。だからよくよく用心しなくてはならない。そう思っていた。そして私はモラ元夫と別居する直前に、優男と知り合っていた(爆)。。。

 優男は、職場の別の課にいた年上の男性だ。落ち着いた雰囲気に好印象なルックスを持ち、誰もが認める、誰に対しても優しい男性だ。それなのに、なぜ独身?と思っていたら噂に聞いたところによると、彼の弟が生まれつきの難病を患っており、両親もその治療費や手術代を捻出するのにとても苦労したらしい。もちろん彼も働きだしてからはその家計を助けていたのだが、今度は母親が癌で倒れたそうだ。その医療費がまた家計を圧迫し…の繰り返しで彼女を作るどころではなかったらしい。「ふ~ん、苦労しているんだなあ」というのが最初の感想だ。(キケン!爆)
 そして別居前に優男がいる課と一緒にある仕事を行うことになり、彼と連れだって営業に行ったり、資料を作るために打ち合わせと称して飲みに行ったこともあった。その時の彼がまた優しいのだ。資料や荷物はさっと持ってくれる、ドアを開けてくれる、私が肩凝ったとつぶやけば次の日湿布を持ってきてくれる。誰にでも同じ、と思っていても…その頃モラ元夫との生活で疲弊しささくれ立っていた私の心に、その優しさがスーッと染みこんでいった。夫婦だってこんな思いやりはなかった…そして案の定彼に少しずつ惹かれる私があった。
 やっとモラ元夫と別居して少し日がたった時、仕事帰り歩いていたら偶然優男と出会った。その日は映画を観ようと思っていたので、つい魔が差して(←嘘)「これから○○って映画観に行くんだ~」と言うと「へぇ、面白そうだね。僕も観に行こうかな」と優男は言った。その時の優男は「僕も映画好きだけど、最近ほとんど観ることがなかったから、また観たいなぁ」なんてことを言っていた。そして一緒に観に行ってしまったのだ。その後はお茶だけ飲んですぐ帰ったが…(^^;)でもモラ元夫と離れたことで、こんなに自由に行動できると思うだけでも解放感を覚え、もしかしてこれも出会い?なんて思ったりした。
 その当時の気持ちは、ふとモラハラ同盟の掲示板に投稿したことがある(知る人ぞ知る・苦笑)。ただこれがどんな結果を引き起こすのかと思うと、慎重に冷静に、と自分にブレーキを踏んでいた。やはりモラ元夫のことで、もう男はこりごり、という気持ちも正直あったからだ。

 そして優男とはちょっと仲良しの友人、くらいにはなっていたと思う。たまに飲みにいったり、映画を観たり。でも心のどこかで「やっぱりちょっと違うな…優しいけど、なんか彼は自分がないような…」と感じていた。だから必要以上に親しくならないように気を付けたし、優男もそれ以上踏み込んでこようとは決してしなかった。なので一見穏やかな友情は続いた。ごく普通の男女だったら『2人は少しずつお互いへの友情を、静かな愛へと発展させていった』と、恋愛物語になるのかもしれない。

 しかし…やっぱり、と悟ったのだ。やっぱりデンジャラスなタイプだったのだ~~~(> <)
 気づいてよかった~~。。。
 誰にでも優しい優男のデンジャラスな部分とは!?     

 次回明らかになりま~す。。。

母の世界

2007-04-17 00:01:59 | モラハラエッセー(離婚後)
 先日母親から「元気なの?」と電話があった。つらつらとおしゃべりをした後、母親は「でもあなたたち、いつまでこのままなの?お父さんも心配してたわよ。モラ雄さんからは何の連絡もないの?」と言った。私は一呼吸置きちょっとどきどきしながら「実はさ、離婚したよ」と言った。「いつ?」「この前」「あら…なんですぐ教えてくれなかったの?」「まあ生活上は今と変わらないし…別居した時から離婚してたようなもんだよ」「もしかして、好きな人でもできたの?」ハァ?(_ _;) 母親はいつも突然妙な質問に走る。モラ雄と結婚したいと話したときには、突然「その人ハゲてないでしょうね!」と叫んだ…。
 「好きな人なんていないよ」「でもひとりで年取るのも寂しいわね…」「別にいいよ。遠くの身内より近くの他人だよ」「まあねえ。ところで、離婚したこと誰かに話したの?」「別に取り立てて報告するようなことでもないから、こっちの友人に話したくらいだよ」「そう、○○ちゃんとか△△ちゃんには話さないでね!あの辺のお母さん達にばれたらすぐ広まるんだから…」ばれたらって…(- -;) 私の中学時代の友人の母親達は、私の母親をとりまく人間関係と密接につながっている。そこに知られるのが嫌なのだ。「別にいいじゃん。離婚なんてそこら中にあふれてるよ」「何言ってるの!わかったらまたどんなこと言われるかわからないんだから!」

 母親はいつもこうだ。私の人間関係より、私が友人に言えない寂しさなんて全く関係なく、いつも自分が世間様からどうみられているかを気にする。自分の体面が一番大切なのだ。どうして「離婚になって大変だったね」とか「離婚なんて気にしないでいきなさい」とかいう言葉が出ないのだろう。
 母親は続ける。「でももしあなたのダンナのこと聞かれたらどうしよう…」「お母さんの好きなように言ったらいいじゃん。そんなこともうどうでもいいよ」「職場がお互い遠いから単身赴任してるって言おうかしら。それで滅多に会わないって」「私はもうどうでもいいよ(苦笑)」「こっちが困るのよね。聞かれたら」「……。」「名字変えてないんでしょ?」「変えてないよ。仕事とかの手続きが恐ろしく大変になるからね。他の人もわけわからなくなるし」「職場の人には言ったの?」「別にとりたてて報告するようなことでもないから特に言ってないけど」「そうよね。言わなくてもいいわよね。そうすればわからないものね」いい加減むかついてきた。

 話題を変えることにした。「そういえばお父さん元気?」「元気になったわよ~。ようやく少しだけ散歩もするようになったしね」「それはよかったね」「それにしてもサクラさん(弟の妻)はお父さんのこと何も言ってこないのよね~。お見舞いには来たけど、その後どうですか?とか。普通聞くもんじゃない?これって親のしつけの問題よね。あの親も気が利かないから、きっと娘にそういうことを教えなかったのね」…ぉぃぉぃ…もう30過ぎた大人に向かって親のしつけもないだろ?じゃああなたは完璧にしつけをしたと?と、また腹が立ってきた(苦笑)。

 ま、母親の世界は変えられない。ずっと昔からわかっていたことではないか。理解してもらおうなんて思っても仕方がない。でもこれでもきっと母親なりに受け入れがたい現実を、なんとか消化しようとしているのだろう、と思うことにした。
 私は私の世界でのんびり生きよう。母親の世界には、たま~~~に訪問するくらいでいいのだろう。ま、これでもまだましなやりとりができたのかもしれないね。やれやれ…。


 ところでモラハラ同盟の大ママさんからお知らせです。*************************************************************************

みなさまへ

昨年10月、「週刊ポスト」に短期連載された「離婚までの昨日今日明日」が大好評
につき、
小学館より4月12日、「男と女の離婚格差」というタイトルで出版されました。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_detail?isbn=9784093797498
これに伴い、4月16日(月)発売の「週刊ポスト」にモラハラ特集記事が掲載され
ます。
今回は被害者3名が取材に応じて下さり、「我が家のモラハラ」について語っています。
ライターは本と同じ石坂晴海さん。前回の記事ではモラハラ以外の夫婦問題にもふれて
いましたが、今回はモラハラ一本!気合いを入れてご購読下さい。

ひとりでも多くの方にモラハラを知らせるため、コピペは大歓迎です。
よろしくご協力をお願いいたします。

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このところモラハラ大ブレイクですね!




渇望

2007-04-09 22:48:39 | モラハラエッセー(離婚後)
 私が子どもの頃から渇望し続けたことは、母から理解され受け入れられることだった。今そう思うと、母親業とは大変な仕事だ、と感じる。母だって人間だ。きっといろいろ苦労を経験し、母となったのだ。神さまのように常に慈悲深くあるわけがない。なのに子どもは常に飢えている。身体的にも、精神的にも、母を求め母の時間と愛情を喰らおうと要求し続ける。母も苦しい。子も苦しい。人間とはなんてしんどい生き物なのだろう…。
 
 私が幼少の頃、ぼんやりと周囲のことを把握し、ものごころついたときには、母親は常に怒っていたことを覚えている。「しっかりしなさい」「早くしなさい」「あなたはお姉さんなのだから」と言われていた。気が付いたときには、弟がいて母親の関心の大半を私から奪っていたように感じていた。私が話そうとすると、弟が話しを奪う。弟と喧嘩になると「お姉さんなんだから我慢しなさい」と言われる。私は嫌いな食べ物も黙々と食べ、弟は好きな物だけを食べた。家族のメニューが、弟の嫌いな魚だったりすると、弟だけお肉料理が特別に用意されたりしたのだ。
 あとから聞くと、男兄弟がいる友人もよくそんなことがあったらしい。しかし当時の私には、母親から差別されているようでとてもくやしく悲しかった覚えがある。

 私は家ではむっつりと黙り込み、母にとって扱いにくい子どもになった。何しても怒る母、私のやることなすことに干渉する母。私は母から殆ど褒められたことがなかった。なので、他人から褒められるとどういう顔をしていいのか、どう表現したらいいのかわからなかった。嬉しがったらいけないのだと、褒められても浮かれずに「とんでもない」と言うか、「いやいや」と知らんぷりしていることがいいのだと思っていた。大人になっても、しばらくはそう思っていたものだ。30過ぎてからだろうか。褒められたら「ありがとう」と嬉しい顔をしていいのだと知ったのは。

 私は母親からの怒りを回避するために黙り込むことに徹した。大声で泣き叫びたいときも、そうしたら余計母親の怒りをかい、母親の気を狂わせてしまう、とひたすらだんまりを通した。すると母親は「おまえは何を考えているのかわからない!」とまた怒った。そして怒りながらも、私に干渉し支配しようとした。
 私はなぜ母親がこんなに怒っているのか理解できなかった。どうして母親は私を理解してくれないのだろう。受け入れてくれないのだろう。そんなの、おかしいじゃないか。母親だったら子どものことを理解するのが当然だろう!どうしてこんなに自分の思い通りにしようとするのだろう、と思い、自分を理解してくれない母親を憎んだ。憎みながらも渇望していたのだ。その矛盾した自身の思いにに心が引き裂かれそうだった。
 
 そしてそれに耐えられず、私は早々に家を出る手段を得、母親から遠く離れたのだった。そのお陰で自分で考え行動する力を身につけることはできた。しかしその後、私はなお母親に執着し続けたのだ。母親はなぜあんなに怒っていたのだろう。なぜあんなに過干渉だったのだろう。なぜ自分の思い通りにならない私を理解しようとせず、きちがいじみた支配を続けようとしたのだろう。私はもっと母親に理解されたかった。受け入れてもらいたかった。なぜそれが母親にはできないのだろう?母親はいつも自分が中心だった。私が思うようにいかないと「私はそんなふうに躾た覚えはない」、そしてわずかながらも私を認める発言は「私の育て方がよかったから」だ。では娘の私自身はいったいあなたのどこにいるの?答のない問いだけがいつも私の頭にあった。それが10代後半になって、過食気味になったり、母親に対して突如ヒステリックに泣きわめいたりする、という自身の反応も引き起こしていた。母親の嫌いな喫煙もこっそり始め、隠れヘビースモーカーになっていた。

 そしてその疑問は、ついに母親研究へと私を駆り立てた。私は非行、家庭環境、虐待、心理学関係の本を読み続けた。そして『親も子どもの頃があり、そこで辛い経験が多いと、心の発達過程において問題が生じる。それが自らの対人関係や子育てにおいて投影される場合がある』ということがわかった。
 母親は戦中生まれだ。田舎に疎開していたようだが、多分生活は大変だったのだろう。母親はもともと7人兄妹の真ん中に産まれた。そのうち2人を子どもの頃の病気で亡くしている。祖母は悲しみの中、大変な生活を送り子どももいろいろ我慢したりして成長したのかもしれない。戦後も祖父の仕事の関係で何回か転居している。激変する時代の中で成人した母親も様々な思いやあきらめがあったのかもしれない。母親自体が満たされない心をもっているんだ。それを子どもにぶつけてしまったのかもしれない…。

 私は心理学関係の専門書を読みながら、そのように憶測した。そして「母親も大変だったんだ。母が私を憎んでいたわけではないんだ」と勝手に思うことで、自分を納得させ、母親に対しての怒りも鎮火していった。その頃は、私も就職し親から離れて住んでいたこともあり、親に頼らず自分で生活しているんだ、ということからくる精神的な落ち着きと、直接干渉されなくなったことからの落ち着きがあった。
 そして、母親は母親が生きてきた上でのものさしでしか、世間を、人間を見ることができないんだ。それは彼女の責任ではなく、彼女を取り巻く時代や環境がそうさせてきたんだ。そう思うことで少しでも母親を許すことができた。そして私自身の心も少しずつ軽くなってきた。
 加えて20代半ば前後のこの頃、私がたまに帰省すると母親は喜んで、たまに洋服などを買ってくれたり、ひとり暮らしは大変だからと家にある食材を持たせてくれた。それも私の心を慰めたのだ。ただたまに会うから双方の喜びがあるわけで、1週間実家にいると、いつのまにやら母親の説教が始まり険悪な雰囲気になってしまうのだ。そして私は心の中で悪態を付きながら自宅に帰ることになった。


 ある程度、相手の事情や行動の意味を知ると、こちらも納得するところがある。そういう理由があったのなら仕方がない、と諦めがつくときもある。私もそうしながら母親の事情を知り、憶測し、楽になったところがある。
 しかし問題は、私が勝手に調べ、憶測し、わかったように思っていたことだった。私に足りなかったことは、もっと母親とぶつかることだった。もっと母親と話し、喧嘩し、思いをぶつけられればよかったのだろう、と思う。

 私は母親を勝手に理解し納得するだけだった。そして相変わらず母親は私に会うと言いたいことを言っていた。なんだか一方通行だ、と感じた。でも人は親子でも理解しあえないものだから仕方がないのだろうか…。

 そんな時、元夫に出会った。元夫は、私を受け止め理解してくれる存在に思えた。

 母への渇望が背中を押した… コワ~イ



我慢の子

2007-03-31 22:06:05 | 私のこと
 思えば私は子どもの頃から、いつも我慢をしていたような気がする。半ばそれが習慣づいてしまったような、そうしなければいけないと思っていたような節がある。

 私は両親の第一子だ。ただ正確に言うと、母親は私を産む前に一度流産していたらしい(このことは父親から聞いた。母親は自分から流産については一切言わなかった)。だから私が産まれるまでにはきっと普通以上の神経を遣ったことだろう。そしてよく言われることだが、第一子は若い親にとって初めての子育てなので、つい過剰に構い過ぎたり心配しすぎたりしてしまうらしい。私もその影響を多分に受けたと思う。
 幼い頃、私は母親に何を言われていたのだろう。よく覚えていない。だがいつの頃からか、母親は年子で産まれた弟にかかりきりで、私に対して「しっかりしなさい」とか「こうしちゃだめ」ということをよく言っていたような気もする。こんな光景はどこの家庭にもあることだと思うのだが…。

 いつの頃からか私はいつも我慢をしていた。特に思い出すのはトイレだ。幼稚園児だった私は、おしっこがしたくなってもいつも我慢していた。いつもぎりぎりになるまで我慢しているのだ。そして我慢できなくなり、トイレに走るが間に合わずよくそそうしてしまった。それがとても恥ずかしかったのだが、どうしても我慢しすぎてしまうのだ。その癖で便秘症にもなった。ついつい我慢してしまい、子どもの頃、1週間くらい出ないことはざらだった。母親は「あなたがもっと小さいときも便秘症でね。よく浣腸したわ」と言った。幼児の頃から我慢していたのか、私は…。この便秘症に後々まで苦しめられた。
 欲しいものを我慢することも当たり前だった。食事のおかずも、まず嫌いなものから食べ、最後に好きなものを食べた。母親に何かが欲しいとねだっても、「我慢しなさい」と言われ続けた。私は時に泣いたりしたが、すぐあきらめるようになり欲しいと言わない子どもになっていた。お年玉をもらっても、親が「貯金しなさい」と言えばまったく使わず親の言うまま貯金した。洋服も私の好みは却下され、親がよかれと思うデザインや柄のものを与えられた。おやつも親がよかれと考えるものだけを食べさせられた。例えばスナック菓子禁止だったので、子どもの頃は家でスナック菓子を食べたことがなかった。他の家に遊びに行った時だけ口に入る憧れのお菓子だったのだ。
 母親が怒っているとき、私は口答えもせずに黙って説教を受けた。母親の説教は長かった。何だかわからないが延々大きな声で私をなじるのだ。私は正座して母親の説教を受けながら何度も気が遠くなるように感じた。ある時などは、絨毯の上に正座して延々説教を聞いていたら、その絨毯が突如果てしなく広がっていくような錯覚に捕らわれ、驚いて泣いたことがあった。意識が朦朧とし、幻視を見たのだろうか?あれは不思議な感覚だった。そして私は母親が説教し始めると、空想を始め、その中で遊ぶようになっていた。そうすると母親が何を言っても遠くの音としか聞えず、少しでも辛さを紛らすことができた。
 この癖は、元夫が私に向かって延々怒鳴っていたときにも発揮された。私は黙って聞く振りをしながらいつも別のことを考えていたのだ。そうしてモラストレスを緩和させていたように思う。

(ちなみに弟は私とまったく逆だった。欲しいものを手に入れるまで泣きわめき、好きなものは真っ先に食べ、嫌いなものを平気で拒絶した。お年玉をもらうと、それですぐ自分の欲しいものを買い、母親がそれをたしなめると暴れた。弟に甘い母親に私はいつも怒りを感じていた。)
 
 そして私はいつの間にか、家では殆ど話さない無口な子どもになっていた。母親が「ピアノを習えば」と言えば「やってみる」と答えた。「そろばん習った方がいいわよ」と言われれば「そうかな」と言うとおりにした。そして習い事をし、練習をしても、心からやりたいと思っていないので、なかなか上達しなかったし、それを母親に責められ苦しかった。

 私は自分が何を欲しているのか、何がしたいのかよくわからないときが多かった。それがまた私を不安にさせたが、それを表に出してはいけないと思っていた。何があっても我慢しなければならない。嫌なことがあってもそれを顔に出してはいけない。そう思い続けた私は、一見落ち着き動じない子になっていた。周囲の大人は「ウメちゃんは落ち着いているわね~」「しっかりしてる」と言い、友達は「ウメはいつも冷静だね」「慌てないよね」と言った。当時、私も自分ってそういう性格なのかなと思っていたが、後から考えれば全然違うのだった。心の中ではいつも不安でどうしていいかわからなかったが、それを我慢して見せないだけだったのだ。何かあれば動揺しても、行動に出せずただ固まっていただけだったのだ。そうやっていつも平気な振りをしていた。冷静な振りをしていた。

 だから私は自分の考えや行動に自信が持てなかった。自分の意見をもつ、ということがよくできなかった。他の人たちの言うことをいつも客観的なふりをして聞いていたが、実は自分の判断や考えがわからず、うまく表現できなかったのだ。
 それは話し方にも現われた。単なるおしゃべりの時はまだいいのだが、改まって自分のことを話すとき「こんなこと言っていいんだろうか…」と絶えず心のどこかで不安に思いながら話すものだから、小さい声でもごもご話してしまうのだ。相手はよく聞えず「え?」と言うと、私はますます自信がなくなってしまい「いや、なんでもない」と言ってしまうことも度々あった。

 中学生の頃になると反抗期も相まって、ますます母親と話さなくなり、また母親の過干渉がたまらなく嫌になり心が壊れそうになる寸前、家から脱出した(『母からの脱出』)。家から離れることによって、いろいろなことを自分でしなければならなくなったため、随分鍛えられ自分を取り戻していったと感じる。しかしこの我慢の傾向は、後々の人間関係で少なからず影響を及ぼした。一番発揮したのは、やはり元夫との生活だろう。私は元夫との生活で、こんなに自分の課題が噴出するとは思いもしなかったのだ。
 自分の家族との関係が、元夫に投影されていたな、と思うことは多々ある。それは今思うと笑えるくらいだ。象徴的だったのは、元夫と私の母親の誕生日が同じだったこと…。それを初めて知ったときは運命だと思ったが、それは…呪いだった(爆!)

 やれやれ…

 今、私は我慢しない大人になった。子どもの頃よりわがままになった。辛抱がきかなくなった。
 おかげでベンピが治った…(爆)!



他人の事と自分の事 2

2007-03-25 14:25:32 | モラハラエッセー(離婚後)
 今付き合っている人は危険な男だ、と知った彼女は、その後も少しの間悩んでいたようだった。ある日の昼休み、例の3人組でお弁当を食べながら、彼女に「あの彼氏とどうなったの?」と聞いた。すると彼女は「実はこの前彼にメールしたんだ」「なんて?」「もう別れましょうって」「えー!すごいねー!?」もうひとりの女性社員と思わず歓声をあげた。私は彼女の決断の早さに驚いていた。私なんてモラハラという言葉を知り元夫がどのような人間かわかってから、半年以上かけてやっと別居したというのに。「そしたら彼、なんて言ってた?」「それが…自分が悪かった、またやり直そうってメールがきたあとに何回も電話がかかってきてね。それを見たらまた優しい彼に戻るんじゃないかなーって、やっぱりもう少し付き合ってみようかって悩んじゃって…」「いや、それはやばいよ。絶対また暴力的なことが起こるって」「多分そう思う。友だちにも相談したらきっぱり別れた方がいいって言われたし」「好きになった人だから悩むのはよくわかるけど…きっとまた思い通りにいかなくなったら暴言吐いたりするよ」「私もそう思う。今までもそんなことが多かったから…。やっぱりもう一度彼に話しをするわ」「会うの?大丈夫?」「会ったら何されるかわからないから、メールするよ」「それがいいよ。何か危険なことがあったらすぐ知らせてね。それか警察だよ」「うん、相談する」

 その後の彼女はしばらくモラ彼と戦い続けた。彼女は再度メールを送り彼の番号を着信拒否に設定した。するとモラ彼は家に電話をし、電話に出た彼女の親に、彼女を出すよう言ったらしいが彼女は出なかった。すると親に向かって何か失礼なことを言い、親も気味悪がっていたそうだ。そして今度は家の近くまで来て待ち伏せしていたらしい。ちょうどその時彼女は外出していたが、親が家の近くでうろうろしているモラ彼の姿を発見し、声をかけようとしたら逃げたそうだ。おかげで彼女は防犯ブザーを購入するはめになったが、毅然とした態度をとり続けていたため、モラ彼を撃退することができた。

 この間にも彼女の心の中では様々な葛藤があったことだろうと思う。好きで結婚まで考えていた男性の理不尽な言動に不安を感じながら、でも何とかやっていけるのではないか、お互いに努力すればやっていけるのではないか、と思うことはごく当たり前の気持ちだ。でも、どうして、なぜ、やっぱり、と何度思うことだろう。私は結婚してからずっとそんな迷いを抱き続けていた。何年も何年も。多分私のように、長期間にわたって悩み苦しみ続ける人の方が多いように感じる。
 この彼女のように、短期間でモラ彼の言動に疑問を抱き、他人からのアドバイスをすぐ理解し解決に向けて行動する、というような例はそう多くないだろうと思う。

 そして、この一件でもうひとつ感じた点がある。私はいつも他人の問題にかかわると、そこにエネルギーを投入してしまうのだ。なぜこのような問題が起こったのだろう。引き金は?関連した出来事は?解決方法は?とあれこれ考えてしまう。そして何とかできないものか、どうにか改善できないものか、と行動する。それがいいように作用すれば解決の糸口が得られる。しかし私がなんとかしなければ、といつの間にかコントロールすることに力を注いでしまうと、とんでもないことになる場合もある。その最たる対象が元夫であったというわけだが。

 逆に自分の問題については、鈍感だということだ。他人のことはよく見えるのにいざ自分のこととなると見えなくなってしまう。元夫のことも、頭のどこかで「?」ということはあったのに、それには見ぬふりをした。友人に心配されても、結婚前にDVとか共依存とかいう知識があっても、自分のこととして感じることができなかった。もし結婚前にモラハラという言葉を知っていても「何とかなる」と、結婚へ突入したことだろう。実際にモラハラを体験し、痛い目に遭いまくってからやっと「これって何?」と思い、「それを耐えていた自分って何?そこから離れず執着していた自分って?」とやっと自分に目が向くようになった。

 元夫との関係において、私は自分の弱さや対人関係上の問題を嫌というほど突きつけられた。そして私の中にあったいくつかの価値観も崩れ去った。例えば、「どんな人でも言葉を尽くし誠意を尽くせば理解し合うことができる」と思っていた。しかしそうでもないことを理解した(苦笑)。また「自分で決めたことは貫き通す」という思い込みがあったが、そうでなくてもいいんだ、と思えるようにもなった。


 自分の事って…難しいものだ。


他人の事と自分の事

2007-03-17 11:59:08 | モラハラエッセー(離婚後)
 少し前のことになるが、会社の飲み会があり、その後他部署にいる女性社員2人と一緒にお茶を飲みに行った。この女性社員達とは一緒に仕事をするときもあり年齢も近く、仲良しというほどでもないが、合間のおしゃべりを楽しむような間柄だった。
 コーヒーを飲みながら職場の四方山話に花を咲かせていたら、ひとりの社員が「実は困ったことがあって…」と言い出した。どうも付き合っている男性のことらしい。以前から付き合っている男性がいる、ということは少し聞いていた。彼女の話に私達はぐっと身を乗り出した。

 その男性は彼女が以前勤めていた会社で出会い、彼女が転職した後に付き合いだしたそうだ。とても優しく楽しい男性で、彼女はいずれ結婚を、と思っていた。しかし付き合う時間が長くなるにつれ、「?」と思うことが多くなったという。些細なことで不機嫌になったり、彼女の1日の行動を逐一知りたがったりと干渉も強くなってきた。そして夜「今すぐ会いたい」と電話をしてくるので「明日も仕事があるし、帰りも遅くなるから今からは行けない」と言うと「どこかで浮気でもしてるんじゃないか?」と激怒する。しかし「さっきは悪かった」と謝罪のメールがあったりしていたそうだ。
 そしてつい最近、男性の運転する車で一緒にドライブをしていたら、些細なことで怒りだし乱暴な運転で怒鳴りながら走行を続けた。彼女は危険を感じ、赤信号の時とっさに車のドアを開け、助手席から降りたそうだ。すると男性も怒って車から出て追いかけてきた。彼女は必死に走って逃げ、近くにあった喫茶店に駆け込んだ。男性は店の中には入ってこず、しばらくしたら車に戻っていったそうだ。
 「それでどうしたの?」「知っている場所だったし、近くにバス停があったから何とか帰ることが出来たけど、この人やっぱりおかしいんじゃないかって思うようになってね。それで後から彼から謝罪のメールが来たんだけど、無視してたら何度も電話してきたから、出たらまた怒ってるし。何だかもう恐ろしくなっちゃって…どうしていいかわからない」彼女は憔悴した表情で、目に涙を浮かべた。

 私の頭の中ではもう答が出ていた。これはモラだ。なんとかしなければ彼女はもっと悲惨なことになる。
 私と一緒にその話を聞いていた女性社員は「え~、ちょっと信じらんないね。その彼、恋愛感情が高ぶりすぎているのかもしれないけどね~。ちょっと行き過ぎてる感じがするな~」と言った。いや、そんなものではないのだ。恋愛感情の高ぶりとか、行き過ぎ、という範囲で済ませられるものではないのだ。
 彼女は「でも結婚も考えてたくらい好きだったから、この状況がなかなか理解できなくて…一時的なのかもしれない、とも思ったりしていたけど、この前のドライブではもうほんとに恐くなっちゃって…どうしてあんなことするのかな…もう少し私もわかってもらえるように努力したほうがいいのかな…」と言った。

 私は彼女の目を見ながらゆっくりと話した。
 その男性は優しくて楽しくて魅力的だったのだと思う。もちろん付き合いの中ではいい部分だけではなく、嫌な部分も見ると思う。喧嘩もするだろう。でも今聞いたことは、喧嘩とか、努力して治るとかいう範囲のものではないように感じる。一番好きな人から、どうしてこんな恐怖を感じなければいけないのか。付き合っているときにそういう面が出てきたら、結婚して身内になったらもっと酷くなる。あなたは悪くないし、それ以上努力する必要もない。残念だったけど、彼がそういう性格で、最初は取り繕えてもそれがどんどん出てきている状態だと思う。
 と、なるべくわかりやすく伝わるように説明した。

 彼女はじっと考えていた。「やっぱりやめたほうがいいのかな…」
 「やめたほうがいいよ。これ以上つきあってたら不幸になる。好きだった人がこんなことになるって辛いけど、でもこれ以上エスカレートしたら大変なことになるよ」と私。
 「う~ん、やっぱりやばい感じがするよね。今ニュースとか雑誌でもDVとかってよく言ってるし、そんなだんなになっちゃうかもしれないよ」と女性社員。
 「ほんとに好きだったんだけどね…」と彼女はつぶやきながらも、「やっぱりおかしいよね」と、うん、うんと自らを納得させるようにうなずいていた。

 私は、彼女の話を聞いていて、彼女の状況、彼女の心情が手に取るようにわかった。そしてまるで自分に言い聞かせるようにして、彼女を説得した。
 私はこんなふうに思えなかった…。過去の苦い思い出が蘇る。私は楽しいところだけを見て、おかしな部分は見ないように、感じないようにしていた。
 彼女は偉い。付き合っているときから、おかしいと感じる自分をちゃんと受け止めていた。好きだけど、彼のこの言動は何?とちゃんと疑問を感じていた。そして他の人にそれを相談することができたのだ。きっと虫の居所が悪かったのだろう、とか、他人に言うのは恥ずかしい、とか、自分が努力すれば彼は変わるはず、とか事実をねじ曲げて操作しようとするのではなく、きちんと客観的に捉え、「どう思う?」と私達にも意見を求めたのだ。
 私にはできなかった。いや、元夫と付き合っている頃、元夫のおかしな言動を、面白おかしく友人に話したところ、友人は真面目な顔で、「ウメは付き合っているというより、まるで彼相手にボランティアしているみたいだよ」と言ったのだ。どこかでおかしいとわかっていてもできなかった。


 そしてその後、彼女はある行動に出た。

 もう少し続きます。


事件名?

2007-03-03 15:10:30 | 離婚に向けて
 先日、役所の休日窓口で提出した離婚届を受理したという通知がきた。「あなたからの戸籍届出については、下記の通り受理されましたのでお知らせします。」という前文、そして手続済みの内容が記載されていたが…。
 1 受理年月日     平成19年2月24日
 2 事件名        離婚届
 3 届出人氏名     ○○ モラ雄
                 ○○ ウメ
 4 届出事件本人氏名 ○○ モラ雄
                   ○○ ウメ
 この書類を見た直後は「事件名」という項目に違和感を覚えた。離婚って事件扱いされるのか~、戸籍を変更することは事件なのか?日本では、離婚は事件扱いか?事件を届出た私に何か?とエスカレートする思考。ただ後から冷静に考えてみたら「事件」という言葉は「事」の「件」、つまり「ある事柄について」、ともいえる。私の中にある日常用語の「事件」は、犯罪絡みや悪い出来事、という意味でインプットされていたことと、やはり人生初体験の出来事に少々ナーバスになっていたこともあるだろう…とつい過剰反応してしまった自分に苦笑いした。

 ただこれで夫と私は他人になったのだ。これから彼は元夫であり、もう今後私の人生史上には殆どかかわることのない他人となった。街中にいるただのヨレヨレのおっさんとなったのだ(爆)。といってもまだ離婚したという実感がない。別居して2年以上が経ち、私の生活上から元夫の気配は随分前に無くなっていた。離婚届けを提出したが、今の生活の場も穏やかな毎日も変わらず進む。そう思ったら、実は別居したその日に、もう物理的な離婚は果たしていたんだ、とも思う。私の場合は、離婚に向けて心の整理をつけるまでに時間が必要だったのだろう。結婚や離婚は、個人的な要素だけではなく社会的な影響力も含まれている。私自身の中にあった元夫への嫌悪と恐怖、そして微かな愛着と夫婦として過ごしてきた時間を整理していくこと、そして周囲からの目、親との葛藤、仕事への影響、ひとりで生きていく事への覚悟等の問題とも向き合って考える必要があった。

 そして離婚後の姓をどうするか、という問題も少し悩んだ。旧姓に戻る方もいれば、結婚の時の姓を使う方もいる。私はどうしようか…。
 ここでは社会的な影響をまず考えた。私は結婚で姓を変えると同時に新しい土地に住み、そこでの仕事もある程度キャリアを積むことができた。今の仕事では、ひとつの職場のみならず、あちこちの関連会社とかかわりがあり、時々単発で別の仕事を依頼される場合もある。そこで姓名を変えたら今の定着した関係が、ややこしいことになるだろう。また姓を変えることで私生活を干渉されることも憂鬱だった。こんな時女性は大変だと思う。男は結婚しようが離婚しようが何も変わらず、周囲からは何もわからず仕事に支障もない。
 また、姓名を変えることになると様々な免許や資格、書類などもいちいち手続きしなければならないことも非常に面倒だった。自動車の免許、パスポート、加入している保険、仕事関連の国家資格、職場の事務にも手続きし、給与が振り込まれる銀行の通帳も、自分の職場以外の仕事関係の名義も、債権者登録も、大家さんにも?…職務経歴や業績も姓名が変わると他人の業績のように感じられる。これらの煩雑な手続きをするだけで、エネルギーが枯渇してしまいそうだ…。

 それから、以前の姓名に戻ることにも自体にも抵抗があった。過去の自分に戻るような気持ちになるからだ。たまに「あなたは何歳の自分に戻りたいと思う?」なんていう話しになることがある。「また二十歳に戻ってやりなおしたい」とか「ぴちぴちの10代に戻りたい」という人もいるが、私はもう過去の自分には戻りたくない。親や社会に向かう葛藤が苦しかった10代にも、20代の頃の自信がなく若気の至りで恥ずかしいことをしていた自分にも戻りたくない。戻るというのではなく、単に20代になる、だけでもイヤだ。また同じ事を繰り返すと思うと、またあの未熟で苦しい道のりを考えるだけでしんどい。
 今私自身が実感していることは、年を経るたび、精神的には段々楽になっていくことだ。自分に対して、周囲に対してもあまり神経質にならず、ゆとりを持ってかかわることができるようになった。もちろん、結婚生活においては大変な思いをし、別離という選択を決断することになった。仕事でも、信じられないようなモラハラに遭い、転職を余儀なくされた。逆境の最中にいたときには、この土地に来たこと自体が間違いだったのではないかと、人生最悪最低だと感じるくらい辛い毎日だった。しかし様々な出会いとその支えによって少しずつ酷い状況から抜け出し、今現在はいい職場に恵まれ自分の望む仕事をし、生活も穏やかで自分なりにささやかな幸せを感じながら毎日を送っている。
 改めて思い起こすと、結婚後の30代は本当に波瀾万丈だった…と思う。そんな激しい日々?を乗り越えて、今いる自分は案外好きだ。姓名がどうであろうと私は私で変わらない。
 そう思い「離婚の際に称していた氏を称する届(これまたややこしい言い回しの書類なのね…)」にも記入をして離婚届と共に提出した。


 自分だけの戸籍、自分だけの生活。う~ん、随分すっきりしたな~
 今、私は誰に気兼ねすることもなく、誰かに合わせることもなく、本当の私を受け入れ、私自身を生きている、という気がする。これからの私はどうなっていくのかな。どう変化し年を重ねていくのかな。。。
 それがちょっぴり楽しみでもある。



決着

2007-02-24 16:52:48 | 離婚に向けて
 朝、ゆっくりと目覚めた。カーテンを開けると陽の光と暖かさが部屋を満たす。天気予報によると今日はまた寒くなるようだった。のんびりと新聞を見た後、しばらく放置していた離婚届を取り出し、テーブルの上に広げた。記入に間違いがないか、各欄をチェックする。
 証人欄は、先日父親の見舞いに行った際、弟夫婦に記入してもらった。それも母親が病室にいる間、弟夫婦の車の中でこっそり記入してもらったのだが、何か秘密めいた親には言えない行為をしているようで、思わず苦笑いだった。弟も母親の性格をよく理解しているので、その辺は意見することなく、サラサラと済ませてくれた。
 その後、他の自治体にあった戸籍謄本も取り寄せ、書類はそろっていた。

 離婚届けを提出する際、間違いが無いようにと、平日市役所に提出し確認したかったのだが、仕事も忙しく休みを取ることもできない状況だったため、休日受付の窓口に提出することにした。
 いよいよこれを提出する日が来たんだな、と思う。心は静かだった。

 バスに乗り市役所に向かった。建物の正面玄関に回ると休日のため閉まっていたが、休日窓口の案内が矢印で示されていた。窓口に行くとおじいさんともいえるお年の守衛さんがいた。この人に渡して大丈夫なのか?と不安になるが「書類を提出したいのですが」と言った。「何のですか?」「離婚届です」「ああ~、そうですか、わかりました」と言ってくれたのだがそれでも私は大丈夫だろうな~、と思いつつ書類を渡す。「これで間違いはないでしょうか」と確認するが、守衛さんは書類を眺め「大丈夫でしょう。もし何かあったら役所から連絡が行きますから。これは今日預かって月曜日に手続きされますからね。今は12時35分、この時刻に確かに受け取りましたから。」と言われた。といっても守衛さん、あなたその時刻どこにも記録する気配がないんですけど…(^^;)
 そしてあっけなく役所を後にした。大丈夫かな~と一抹の不安が残るが、とにかく提出した。

 相変わらず心は静かだった。
 今まで存分に悩み苦しみ悲しみ右往左往し、何かある度に、こころがざわつき波立つ度に、ブログを通してあれこれと皆さんに聴いていただいた。一歩踏みだし、また一歩下がりしながらも、いつのまにか心は前に進んでいたようだ。この過程を十分噛みしめ様々な方と言葉を交わし、心から納得し自分で決断したからこそ、心静かにこの日を迎えられたのだと思う。
 公園で子どもが笑い、追いかけっこをしている。夫婦がおしゃべりしながら歩いている。行き交う人々の中を、私はゆっくり歩いた。商店街を抜け、私は神社に向かった。
 
 夫との生活があまりにも辛く、精神的にもかなり追いつめられていたときに通った厄除け神社。神社でいくらお願いしても、それが現実を変えるなんてことは思いもしなかったが、ただ、行って震えながら手を合わせずにはいられなかったあの時(『戦慄』)…。鳥居をくぐり、ゆっくりと拝殿への階段を上った。
 あの時の自分を想った時、思わず涙がこみ上げてきた。私はこうやって、神社に来たんだ…。そして別居し、この神社のそばで自分なりの暮らしを送ることができている。私は手を合わせ、目を閉じた。

 神さま、ありがとう。これからもどうか私をお見守りください。

 いつどんな時も、どんなことがあっても、私は私。必要以上に私を苦しめないように、私がごくあたりまえに、笑ったり、楽しんだり、泣いたり、怒ったり、不安になったり、喜んだり、していけますように。もう誰からも必要以上に支配され抑圧されることがありませんように。

 皆さんの温かい共感と励ましを力に、今日を迎えることが出来ました。
 ありがとうございました。