今日、仕事のことで本社に出向き用事を済ませて帰ろうとしたら、営業から帰ってきたばかりの先輩胡桃さんにばったり会った。「あら、ウメさん今日はどうしたの~?」「A企画のことで資料を届けにきたんです」「急いで帰らなくてもよかったら、ちょっとだけお茶飲まない? 私も喉かわいたし~」というお言葉に甘えて、休憩室でコーヒーを入れてもらった。
胡桃さんは、もう40才過ぎているが、3才と7才の子持ち。だが、だんなさんが家のことも協力的なので、仕事を続けている、うらやましいキャリアウーマンだ。
コーヒーを飲みながらなぜか老後の話しになった(最近こんなんばっか!)。「私の知り合いの男性で、仕事はばりばりだけど結婚もしないでひとりでいる人がいるんよね~。でも家事もけっこう自分でできるし自分なりに生活楽しんでるから、あんまり人付き合いしなくても平気って言ってるんよ。でもそれって寂しいんじゃないかと思ってたんやけど…」
ひたすら聴き入る私。
「私なんて、子どものママ友から仕事関係から、夫の家族から、いろんな関係があって、ちょっとややこしいけど、その方が年取っても寂しくないんじゃいかって私は思ってたわけ。でも年取ったらそうそう出かけるのもおっくうになるし、人間関係ややこしいのはかなわんし。もしかしたらひとりで楽しめる人の方が、年取ってひとりになっても全然平気で暮らしていけるのかもしれへんね~」
そこではじめて私は大きくうなずいた(←自分を思った・笑)。
「むしろ、ひとりでもそれなりに生活を自分で楽しんでる彼の生活スタイルの方が、老人になっても全然平気なんじゃないかな~、なんて思っちゃった。きっと年取ってもひとりで何かと楽しんで暮らせる気がする~」
「そうですよね~、私もそう思いますよ~~」強くうなずく私(爆!)。
高齢者の自殺やうつが問題になっていた頃、東北のある地区に住む高齢者達に、自殺を考えたことがあるとか、うつ症状の有無に関する調査結果を聞いたことがある。家族と暮らしている高齢者と、独居の高齢者とどちらが自殺が多かったか。
答は専門家の予想を超える衝撃的なものだった。
実は、家族と同居している高齢者の方が自殺率がずっと高かったのである。
この調査では、家族の中で遠慮し、孤立し、居場所を失う高齢者がいた。身内の中にいながら孤立を感じるよりもひとり生活を好きに送っている人の方が、うつも自殺も少なかったのだ。
家族の中の孤独。夫婦の中の孤独。
身内の中にいる孤独はまた厳しいものがあることを、私は身をもって知っている。
「家族こそ理解し合える、支え合える」という幻想。「夫婦だからこそわかりあえる」という幻想。
家族だから、誰よりも厳しく、きつく、怒りを、恨みをぶつけてしまう。夫婦だからこそ、「理解しないおまえが悪い」と、あからさまに憎しみをぶつけ、自分の思いや期待を相手に押しつけようとする。そして自分の欲求を満たさない相手(妻or夫or子or親)が悪いんだ、自分の言うことを聞かない奴は、懲罰を与えるのが当然だ、と、そこは世にも残酷な拷問部屋となってしまう。外には届かない悲鳴、心の叫び。そして、『家族なのだから、いつかはわかりあえるはず』『夫婦なのだから、理解し合わなければいけない』『家族なのだから我慢しなければいけない』、という呪縛に苦しみ、徐々に自らを失う苛酷な日々。
もちろん、温かい家族も多いだろう。お互いに喧嘩したり泣いたりしながらも、思いやり、お互いが支えとなり、家族はいい、としみじみ噛みしめる家族。家族への賛歌、母親への思慕は歌になり文学になり、心の拠り所となる。
しかし…家族でいること自体がとても苦しく、お互いが無理している家族も多い。暴君がいて、他の家族はじっと我慢している、という場合もある。絶えず怒りに怯え、顔色を窺いながら息を詰まらせる夫婦、親子がいる。
ひとりで生きる力があるのなら、苛酷な環境からは一刻も早く離れた方がいい。家族の欲望を優先して、自分の魂が息も絶え絶えになっているのなら、思い切って飛び出してみるといい。
はじめはひとりでいることの不安に戦くかもしれない。寂しさに打ちひしがれるかもしれない。
しかし、すぐにひとりで生活する平安に気づくはずだ。誰も自分を脅かさない。誰も自分を責めない。誰も自分を攻撃しない。誰も自分を蔑まない。
それがどんなに、自分の糧になることか。縮こまっていた自分が大きく伸びをし、肺いっぱいに酸素を取り込むことができるか。
ひとりでいることは、実はまったく怖くない。将来のことを考えたりすると、不安になることはある。これからひとりで生きていけるのだろうか、という不安もある。しかし、常に誰かに脅かされる日常はない。
2人でいるほうがよっぽどコワイ。家族で過ごすことのほうが、よっぽど苦しい。
15才から家を出、結婚して夫のモラハラに遭った私の結論だ。
でもそれでいいのだと思う。家族は万能じゃない。家族も人間だ。そして人間は不完全だ。親だって、夫だって、それぞれの人生を歩み、自分の理解できる範囲でしか、ものごとを捉えられなかったのだ。自分の尺度でしか解釈できなかったのだ。それを当然のことと思って、相手も当然わかると思って、押しつけただけだったのだ。単に自分の器の中にある狭い知識の中から、勝手に判断して、相手にぶつけただけだったのだ。
それをわからせようとしても、無理がある。理解しようとしても、わかりあえない。自らがわかろうと一方通行でなく、お互いが、相手に心を開かなければ無理だ。
求められない家族だったら、離れればいい。わかりあえない夫婦だったら、離れればいい。いつまでも固執し、いつまでも執着し、いつまでも変えようとし、いつまでも恨みを持ち続けると、自分の魂が死んでしまう。
私は自分で生きることができるのだ。他人からの応援を受けながら、自分も時に応援しながら、自分の力で生きていくことができる。そう信じればできる。
私達は、生きていける。信じよう、自分の可能性を。自分の力を…!
胡桃さんは、もう40才過ぎているが、3才と7才の子持ち。だが、だんなさんが家のことも協力的なので、仕事を続けている、うらやましいキャリアウーマンだ。
コーヒーを飲みながらなぜか老後の話しになった(最近こんなんばっか!)。「私の知り合いの男性で、仕事はばりばりだけど結婚もしないでひとりでいる人がいるんよね~。でも家事もけっこう自分でできるし自分なりに生活楽しんでるから、あんまり人付き合いしなくても平気って言ってるんよ。でもそれって寂しいんじゃないかと思ってたんやけど…」
ひたすら聴き入る私。
「私なんて、子どものママ友から仕事関係から、夫の家族から、いろんな関係があって、ちょっとややこしいけど、その方が年取っても寂しくないんじゃいかって私は思ってたわけ。でも年取ったらそうそう出かけるのもおっくうになるし、人間関係ややこしいのはかなわんし。もしかしたらひとりで楽しめる人の方が、年取ってひとりになっても全然平気で暮らしていけるのかもしれへんね~」
そこではじめて私は大きくうなずいた(←自分を思った・笑)。
「むしろ、ひとりでもそれなりに生活を自分で楽しんでる彼の生活スタイルの方が、老人になっても全然平気なんじゃないかな~、なんて思っちゃった。きっと年取ってもひとりで何かと楽しんで暮らせる気がする~」
「そうですよね~、私もそう思いますよ~~」強くうなずく私(爆!)。
高齢者の自殺やうつが問題になっていた頃、東北のある地区に住む高齢者達に、自殺を考えたことがあるとか、うつ症状の有無に関する調査結果を聞いたことがある。家族と暮らしている高齢者と、独居の高齢者とどちらが自殺が多かったか。
答は専門家の予想を超える衝撃的なものだった。
実は、家族と同居している高齢者の方が自殺率がずっと高かったのである。
この調査では、家族の中で遠慮し、孤立し、居場所を失う高齢者がいた。身内の中にいながら孤立を感じるよりもひとり生活を好きに送っている人の方が、うつも自殺も少なかったのだ。
家族の中の孤独。夫婦の中の孤独。
身内の中にいる孤独はまた厳しいものがあることを、私は身をもって知っている。
「家族こそ理解し合える、支え合える」という幻想。「夫婦だからこそわかりあえる」という幻想。
家族だから、誰よりも厳しく、きつく、怒りを、恨みをぶつけてしまう。夫婦だからこそ、「理解しないおまえが悪い」と、あからさまに憎しみをぶつけ、自分の思いや期待を相手に押しつけようとする。そして自分の欲求を満たさない相手(妻or夫or子or親)が悪いんだ、自分の言うことを聞かない奴は、懲罰を与えるのが当然だ、と、そこは世にも残酷な拷問部屋となってしまう。外には届かない悲鳴、心の叫び。そして、『家族なのだから、いつかはわかりあえるはず』『夫婦なのだから、理解し合わなければいけない』『家族なのだから我慢しなければいけない』、という呪縛に苦しみ、徐々に自らを失う苛酷な日々。
もちろん、温かい家族も多いだろう。お互いに喧嘩したり泣いたりしながらも、思いやり、お互いが支えとなり、家族はいい、としみじみ噛みしめる家族。家族への賛歌、母親への思慕は歌になり文学になり、心の拠り所となる。
しかし…家族でいること自体がとても苦しく、お互いが無理している家族も多い。暴君がいて、他の家族はじっと我慢している、という場合もある。絶えず怒りに怯え、顔色を窺いながら息を詰まらせる夫婦、親子がいる。
ひとりで生きる力があるのなら、苛酷な環境からは一刻も早く離れた方がいい。家族の欲望を優先して、自分の魂が息も絶え絶えになっているのなら、思い切って飛び出してみるといい。
はじめはひとりでいることの不安に戦くかもしれない。寂しさに打ちひしがれるかもしれない。
しかし、すぐにひとりで生活する平安に気づくはずだ。誰も自分を脅かさない。誰も自分を責めない。誰も自分を攻撃しない。誰も自分を蔑まない。
それがどんなに、自分の糧になることか。縮こまっていた自分が大きく伸びをし、肺いっぱいに酸素を取り込むことができるか。
ひとりでいることは、実はまったく怖くない。将来のことを考えたりすると、不安になることはある。これからひとりで生きていけるのだろうか、という不安もある。しかし、常に誰かに脅かされる日常はない。
2人でいるほうがよっぽどコワイ。家族で過ごすことのほうが、よっぽど苦しい。
15才から家を出、結婚して夫のモラハラに遭った私の結論だ。
でもそれでいいのだと思う。家族は万能じゃない。家族も人間だ。そして人間は不完全だ。親だって、夫だって、それぞれの人生を歩み、自分の理解できる範囲でしか、ものごとを捉えられなかったのだ。自分の尺度でしか解釈できなかったのだ。それを当然のことと思って、相手も当然わかると思って、押しつけただけだったのだ。単に自分の器の中にある狭い知識の中から、勝手に判断して、相手にぶつけただけだったのだ。
それをわからせようとしても、無理がある。理解しようとしても、わかりあえない。自らがわかろうと一方通行でなく、お互いが、相手に心を開かなければ無理だ。
求められない家族だったら、離れればいい。わかりあえない夫婦だったら、離れればいい。いつまでも固執し、いつまでも執着し、いつまでも変えようとし、いつまでも恨みを持ち続けると、自分の魂が死んでしまう。
私は自分で生きることができるのだ。他人からの応援を受けながら、自分も時に応援しながら、自分の力で生きていくことができる。そう信じればできる。
私達は、生きていける。信じよう、自分の可能性を。自分の力を…!