ここはわたしの地元の教会
ここを会場に、没37年の先の妻、没15年の息子の記念会をした。
死んだのに、どうして記念会というか? その問いがあるかもしれない
亡くなるとは、
そのそも地上に命をくれた方の元に戻るからだ。
だから、「天国への凱旋記念」という人もいる。
読みにくいがこれが当日のプログラム
聖書の言葉、祈り、讃美歌、そしてメッセージで
構成されている。
本来なら、遺族代表の立場だが、この時は
メッセージをした。その骨子は、「死んで終わりではない。死は
永遠の命への通路に過ぎない」、と死を相対化した。
私の姉と兄、、、甥っ子、姪っ子も参列してくれて
精一杯、賑わった。 兄弟は皆、「腰が痛い」「膝が痛い」
「目が見えなくなった」と様々な病気を抱えている。
どこにもある光景であるが、こうした高齢化が、今年で
最後、と決断した理由である。私も血液の癌で視界不良でもあるので、、、
亡くなった妻も息子も「いいよ、ありがとう」と言ってくれるに
違いない。
キリスト教では、人が亡くなることを
忌み嫌わない。確かに当事者や家族・友人にとって
死は辛い、悲しいできごとである。
しかし、死ねば天国に行けるという信仰は、
それは天国への「凱旋記念」ということであり
喜ばしいことである。
とはいいつつも、世間の考えとあまりにも
乖離があるので、私は「偲ぶ会」と称して
先妻、没、37年。息子、没、15年を行った。
会場は、地元、大川市の教会
兄弟もみな、80歳以上で、福岡の私の教会までは
出てこれない。今回は甥っ子、姪っ子もでてくれた。
身内だけだったのでこうしたこじんまりとした
式になった。いい式になったと自我自賛している。
毎回、プログラムが作られる。
小さくて読めないとおもうので、内容は
聖書の言葉、讃美歌、祈り、メッセージで構成されていることをお知らせしたい。
元牧師の私が、「私たちの本国は天にある」という
内容を語っている。いつも「固い」表情をしているな!
と思う。
兄弟もみな、すっかり高齢化しており、
先妻と息子の「偲ぶ会」(記念会)もこれが
最後になるだろう。
終活という意味で、少し、ほっとしている。
今年の7月24日で息子が亡くなり15年、
最初の妻が亡くなってからは、37年になる。
キリスト教では、「○○年忌」言わず、「記念会」と称する。
それは死を忌み嫌わず、確かに死は当事者・身内にとって
辛く、悲しく、時に、すべてを失うような思いにもさせられるが、
キリスト教ではそれを、天国への旅立ちとし、それ故、「記念」となる。
これは私の地元、大川にある教会
ここを会場に、「梅﨑ひとみ・良介」の記念会を
「偲ぶ会」、と称して開催した。
小さくて見にくいが、これが当日のプログラム
もちろん、主宰者の私が作成した。
聖書の言葉、祈り、メッセージが骨格となっている。
私が語っているが、もう兄弟も高齢者ばかりで
これが最後の偲ぶ会=記念会となる。
先の妻も、息子も文句は言うまい。(笑)
若い人たちは、甥っ子、姪っ子たち
兄弟はみな80代である。
仲のいい兄姉が、自慢だとみな言う。
最後に、最初の妻の病気で教会に行くようになり
そこで心に刺さった聖書の言葉で閉じたい。
「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこへ帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ」
以来、私は命は神から頂いたもの、と悟ようになった。
このところ、少しばたばたして
ブログの更新が出来ていなかった。
気分が落ち込んでいた訳ではない。
ただ、バタバタと忙しく、その気にならなかった
だけである。
そういう中で、糸島方面に用事があり
「お魚天国」に寄った。
そしてランチメニューから
「海鮮丼定食」を食べた。
定食は、海鮮丼に、付き合わせ、香の物、
そしてドンブリ大の椀に入ってくるあら汁だ
大体、これが定番
そしてこれは別の日に食べた海鮮丼
食べた時は、ガっついていて何が入っているか
意識していなかった
写真から、ブリの漬け、マグロ、タイ、サーモン
コハダ? アジ、イサキ? 卵焼き、・・・・などがわかる
これを特性のたれで食べても、
醤油に浸しても、いい
書き忘れるところだったが、
ネタは酢飯に乗っている
絶妙の酢飯とこれらの鮮度のいい
ネタの取り合わせがいいと感じた
最後、海鮮丼は観光地では平気で、
2000から2500円はする。
安くてても1800円とか
でも超庶民である私にはこのお魚天国の
980円の、海鮮丼で十分、納得である。