ZAMACのフォト日誌

見て聞いた 四季の詩  
  Copyright (C) ZAMAC. All Rights Reserved.

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

「不忘平和記念公園」に立って

2017-11-09 11:27:09 | 社会
● アメリカのトランプ大統領は北朝鮮の核問題封じ込めを掲げて、東アジア主要国を歴訪中だ。きょうは中国の習近平氏とトップ会談中だという。背景に一発触発の戦争を連想させる、何とも不穏極まりない黒雲を背負ってやってきた。日本にとっても重要かつ喫緊の問題ではあるが、ZAMACにはこれを論じるには力不足だ。
しかし、太平洋戦争に絡むローカルの話題としておくだけではすまない、普遍的な「平和という課題」を提起しようとしている施設「不忘平和記念公園」を11月7日(火)に訪れたので書いておく。

● その公園は通称南蔵王高原道路の「長老湖(ちょうろうこ・宮城県七が宿町)」の北に直線で3~400m行ったところで、左写真では右側の紅葉上方の高台にある。またこの湖の正面に見えるのが蔵王連峰最南端の不忘山(ふぼうさん・1,705m)で、公園名として冠した山である。右写真は「不忘平和記念公園」の入口だ。



● この公園が出来て『公園祈念碑除幕式等式典』が行われたのは2015年8月2日だから2年前ということになる。そういえば当時のテレビや新聞で見たことを思いだす。では、この公園の意味するところは何か。東北防衛局の式典祈念文を引用し、それらの記念碑類をUpしておく。
  
 『不忘平和記念公園祈念碑除幕式等式典』
 ***** 1945年3月10日未明、不忘山に米軍のB29爆撃機3機が
墜落した事故で、死亡した搭乗員34人を慰霊する「不忘平和記念公園」が完成し、
8月2日(日)不忘平和記念公園建設委員会の主催により、異国で果てた
米兵を慰霊するとともに戦争のない世界の実現-世界平和を祈念し、
不忘平和記念公園祈念碑除幕式及び開園記念式典が、
蔵王連峰の不忘山を望む宮城県七ケ宿町で営まれた。 *****


「不忘の詩」と亡くなった「米国兵名」などを刻んだ中央の碑



米軍34名の名前を刻んだ記念碑と遠くに見える不忘山



● わたしと不忘山・・・
 高い碑の上部に「米軍用機 B29 不忘山 現場位置図」というのがある。頂上に近いものの3機の墜落位置はそれぞれ離れているので、吹雪に惑わされたとも考えられるが、未だ原因は不明だそうだ。
ZAMACは中央蔵王から南蔵王へと2度縦走したことがある。初めて縦走をしたのは昭和30年代後半で戦後17~8年と、20年にも満たないころの昔のこと。主なコースのピーク名は杉が峰 → 屏風岳 → 最後が不忘山と辿るが、この不忘山に着くと峩々(がが)たる岩山で米機墜落地点の木柱があったように記憶している。
大自然のオアシス・芝草平などを満喫し、山形方面と宮城側を同時に眺めながらの尾根歩きコースだけに、その終点である不忘山に立つと何か違和感を感じたものだ。帰路は東北本線白石駅から普通列車に乗り、仙山線に乗り換えて勤務地の山形へと帰宅したのだ。その車中でもあの山(不忘山)の部分だけは登山の達成感のレベルがガクンと下がってしまうのだ。今でもあの山を眼前にするすると、そんな意識が憑(つ)いて回り「ああいい山だ!」とは思わない。それなのに今日も湖畔に立ってよくよく山容を見ている自分がいるのに気づく。

● もっと古~い話。
 この事故はZAMACが満6歳の、小学校に入る前年のことだ。わが故郷の米沢でも空襲警報が鳴り、消灯したり、あるいは重い爆音とともに青空高く飛んで行くのが「B29だ!」と教えられて、空を見上げたことを思い出す。親がいうには、それは後年になって「教えられたからだ」と言っていたが、ZAMACは今もこの目で見たと信じている。
 さらに時は経ち仙台勤務となってからは、風景撮影のために七ヶ宿方面を毎年訪れていると、自然地元の人々からもこの惨事を聞くことがあった。しかも自分の言葉で昨日のようにリアルに話してくれる人がたくさんいた。

● 蕎麦屋で ・・・
 不忘平和記念公園を一通り見終えたら正午を過ぎていた。せっかくここまで来たのだから新そばを食べようと思い立ち、さらに南下して七ヶ宿町湯野原のM蕎麦屋を訪れた。
なぜこの蕎麦屋かというと、まずは店主が私と同い年だということ。ソバ畑耕作からソバ打ちまでをこなす根っからの蕎麦屋であること。脱サラで蕎麦屋をはじめてもう18年にもなるというが、会社生活を通じて時代背景が同じだから、話が弾んで当たり前。きょうもサラリーマン時代の話をしたりして話が弾んだが、その中で店主が「不忘平和記念公園」に行って来たか?と私に訊いた。
 そしてB29墜落の話となって、この土地ならではの詳しい話をを聞いた。墜落現場の残骸を収集のため中学生が不忘山に動員されたこと。不発弾でけが人が出たことなど…  
店では前回同様、今回も午後の2時ころで、客は5、6人しかいなくなり手が空いた時間だった。


● そして思うこと・・・ 
 過去においては敵国・敵機の事故だとして記念碑を建立することなどは考えもしなかったことだと思う。戦後70年を過ぎて敵も味方もないと、戦争悪のことを考えてみれば「平和祈念」は当然の思いとなるのはよくわかる。その一つの形が不忘平和記念公園だと理解したが、しかし「そんなキレイごと」ではないのでは、と率直に思っている。

青空に日米の国旗がへんぽんとはためく公園の祈念碑群



 歴史を辿れば明治維新、戊辰戦争で会津藩と長州藩と激しく戦かった間柄。東日本大震災の見舞いとして山口県萩市の市長が、会津若松市を訪れ両市長が握手をして「和解」したと報じられていた。しかし当時、会津若松市長は「東日本大震災見舞いの御礼はするが、戊辰戦争は話が別、切り離して考えている。」と言ったとか。賊軍と言われ辛酸をなめた会津人にとっての怨讐(えんしゅう)は推察するに余りある。来年は戊辰戦争150年だそうで、真に和解を探る動きもあるそうだ。
ちなみに不忘平和記念公園の碑には「駐日米国大使 キャロライン・ケネディー」の名も刻まれている。

 七ヶ宿で事故当時を語れるのは蕎麦屋の店主の年代(私の齢)より上の人々だ。今後は語り部だけの伝承になっていくとすれば、不忘平和記念公園はタイムリーな造営だったと言えそうだ。忘れじの山ともいわれる不忘山の出来事に思いを馳せた一日だった。









ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 街は"芸術の秋"だった | トップ | 年の瀬に思う 「病気と心」 »

コメントを投稿