ZAMACのフォト日誌

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ご開扉(2) 蜂子神社

2018-06-13 20:49:22 | 日記・エッセイ・コラム
● 「ご開帳(1)五重塔」につづく羽黒山シリーズ・その(2)蜂子神社は、少し古い旅日記で、2014年(平成26年)9月2日に訪れた蜂子神社のご開扉についてだ。実質的にはご開帳と同じことだと思うが、ZAMACには帳(とばり)と扉(とびら)の文字の使い方はよく分からない。当時も出羽三山神社のこの行事を耳にして、ぜひ拝観したいものだと思いたち羽黒山に向かったことを思い出す。
 その時のチラシを探してみたら、さいわい見つかったのでUpしておく。




● 三山合祭殿をはじめ、多数の社殿や博物館の建つこの区域を羽黒山山頂という。杉並木の参道2446段の石段を登り切ったところがその山頂で、一番先に目に留まる左手の建物が蜂子神社だ。
 ZAMACは今日までこの前を何度も通りながら、多数の神社との区別に注目をすることなく通り過ぎていたところだった。しかし今回は違う。ご開扉の看板や幟が立ち仮設の通路が作られ、神職は忙しそうに見えた。 神社左手に設けられた受付で拝観料を納め、お祓いを受けてから仮設のスロープを登り、巫女さんに促されて社殿に入った。期待と交錯して能除太子のこわ~いお顔を連想してか、なにか摩訶不思議な気配さえ感じる瞬間だった。

 それが入室して「エッ!」驚いた。きらびやかな金箔の像や祭壇というのか、明るい照明による荘厳の拝壇は外見の古の建物とは別物だ。比較するのも心苦しいのだが、平泉の金色堂内陣のスモール版のような感じさえした。まったくの私見だが極楽浄土をイメージして「これはお寺だ!」と思ってしまった。
 そして能除太子のあの「醜いお顔」は?と注目していたら右手にカラフルな絵として掲げてあった。
 


蜂子神社(右側)ご開扉の様子。仮設のパイプスロープから蜂子神社に入る。





内部の撮影は厳禁だったのでカメラと靴を別席において拝観した。写真は出口で撮影。




蜂子神社から100mあまり離れたところにある能除太子の墓。東北で唯一の皇室の墓(宮内庁管理)だという。






● 蜂子神社のご開扉は記録に残る明治以降一度も行われていないという。また今後もご開扉計画まったくないということだった。チラシの副題にあるように「秘中の秘である幻のご尊像」であり、一般公開は前提にないということのようだ。ではなぜこの時期に世紀の公開をしたのか。
 約2万人に上る死者と行方不明者を出した東日本大震災の忌まわしい災害で、傷ついた人々の平癒と早い復興を祈願した特別事業だという。また、平成26年は羽黒山のご縁年の午(うま)にあたるということを機会としたものだった。正式な催事名はつぎの通り。


蜂子神社御開扉
出羽三山御開祖
蜂子皇子御尊像拝観



  *「蜂子神社御開扉」については『山形県メールマガジン 第279号』で紹介している。

   http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html




             
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 <メモ> 蜂子神社の「蜂子(はちこ)」について・・・・・・

 飛鳥時代の崇峻天皇の第三皇子で蜂子皇子(能除太子)と呼ばれていた。蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇の子である蜂子皇子は、難を逃れるためにいとこの聖徳太子の勧めもあり、丹後国から北上し、能登からは海路で鶴岡の八乙女(由良)に上陸したとされる。3本足の八咫烏(やたからす)に導かれて羽黒山に入り、苦行の末に現在の羽黒山・月山、湯殿山に三神を祀ることになった。
 そして三山信仰の開祖であるとともに、庄内地方の農漁業の振興をはかり、人々の苦悩を能(よく)除いてくれる皇族の太子として崇められた。出羽三山信仰は蜂子皇子(能除太子)を抜きにしては語れない。
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