「権力とマスコミの横暴を正し、人権を守る国民の会」in入間

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田中洌
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「原発60年の暗黒」

2011年04月20日 07時00分16秒 | 街頭デモ

 


 


 


敗戦後の日本は、台風や風水害に幾度も襲われたため「国土保全」が叫ばれ、昭和24年、戦後初の10大河川改修計画が確定し、翌昭和25年にも「国土総合開発法」が制定されました。


この「国土総合開発法」は、災害対策以外に、敗戦直後の疲弊した日本経済再建と、社会福祉向上も目指すもので、特定地域の総合開発計画に対してだけ、国庫負担金からの補助金を支給する特例を設ける法律だったのですね。それは、また、 戦勝国アメリカのTVA(テネシー川総合開発)の精神を色濃く反映していました。小学校低学年の社会科の授業でも、盛んに「TVA、TVA・・・」と、訳も解らない言葉を注入された記憶が今も残ってます!
我が国の戦後のエネルギー政策のバックボーンに、アメリカのエネルギー政策が「下書き原板」として、常に先行し存在してきていることを、見逃してはならない点でしょうね!


昭和25年勃発の朝鮮戦争で、GHQ占領下の日本は、朝鮮半島に出撃する国連軍(主に米軍)の後方支援基地化するという、時代の流れを背景として、「国土総合開発法」も改訂され、1952(昭和27)年に「電源開発促進法」として改めて制定され、「電源開発株式会社」が設立されました。こうして戦後日本の産業復興を担う、エネルギー電力需要増大に対応する動きが復活し、始動し始めたのですね。
それは私が小学校に丁度入学した1952(昭和27)頃のことでした。


翌1953(昭和28)年に入ると、戦後のダム建設史を代表する大規模発電用ダムの建設ラッシュ時代に突入していきました。佐久間ダム(天竜川、重力式ダム。周波数変換所があり、東への送電時は50Hz、西への送電時は60Hzとする)、田子倉ダム(只見川、重力式ダム)。


奥只見ダム(同前)、黒四ダム(関西電力黒部川第四発電所。堤高186mは日本一の巨大アーチダムで、日本の全てのダムの中で堤高が最大。アーチ式ダムとしては、堤頂の長さ=492m、堤体積=158万立方米も日本一。400万トンのコンクリートを打設した強大なアーチは2億トンの水圧に耐えている。石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」でも有名になった)。


御母衣ダム(庄川、堤高131mのロックフィル式=堤体は岩を積み上げたもので、日本初のロックフィルダム)などなど・・・全国15ケ所でダム工事が始まりが、巨大ダム建設時代の幕開けでした。世を挙げて、「水主火従」(水力発電を主とし火力発電を従とする)の時代でした。


1954(昭和29)年3月、私が小学校2年生の時、我が国の原子力にとって二つの重大出来事が起きていたのですね!


その一つは「第五福竜丸事件」でした。同年3月1日、米国水爆実験で発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた、静岡県焼津港の遠洋マグロ漁船第五福竜丸の久保山愛吉無線長が、その半年後の同年9月23日に血清肝炎で死亡するという、センセーショナルな事件が起こりました!
後になってから、米国は危険水域を拡大させ、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船も、数多く操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、第五福竜丸以外にも数百隻にのぼり、被爆者は2万人を越えると推測されている。


この1954(昭和29)年という年は、もうひとつ、日本の原子力政策上で極めて重要かつ象徴的な出来事が起こった年でもあった。第五福竜丸事件の起こった同1954(昭和29)年3月、政治家(当時改進党)の中曽根康弘弘代議士が推進役となり、自由党・日本自由党の他党も巻き込んで3党共同での、原子炉予算2億3千万円の突然の国会提出がなされたのである。この予算案は、ほとんど審議のないまま、たった3日で国会を通過したのだった!当時の2億3千万円は巨額な予算だったにもかかわらず、易々と国会可決されたのです!


1956(昭和31)年、私が小学校4年生の時、この原子力予算可決を「突破口」として、政府、産業界を主体とした、日本原子力委員会設置と原子力開発基本計画の策定がなされたのです。これとあい前後して、「日本原子力研究所」、「放射線医学総合研究所:1957年(昭和32年)発足」「原子燃料公社」(後の動力炉・核燃料開発事業団、更に独立行政法人・日本原子力研究開発機構へと統合再編)、・・・の3機関も、あいついで設立された。


ここで是非とも注意して欲しい点は、「放射線医学総合研究所」も「日本原子力委員会」も、すべて、原子炉設置、原子力発電推進が決定した後になってから、設置された関係機関であるという点である。この点を、しっかり確認して欲しい!


 


独立行政法人放射線医学総合研究所(National Instituteof Radiological Sciences)が、我が国の国民大衆、一般市民の生命と健康を放射能の危険から守る為の研究機関であるならば、ヒロシマ、ナガサキの悲惨、歴史上唯一の一般市民の被曝体験というあの悲劇が発生した、その直後から、即ち昭和20年末から、何をさて置いても、真っ先に「放射線医学総合研究所」が設置されてしかるべきであった筈である!


しかし、敗戦直後から始まっていた米ソのあいつぐ原水爆核実験、その間、5万トンとも10万トンとも推定される膨大な量のプルトニウム(死の灰)が、日本列島も含む全地球上に降り注ぐ状態が12年も続いたにも拘わらず、我が国の国民大衆、一般市民の生命と健康を放射能の危険から守る為の研究機関は、全く設置されてこなかった。


「放射線医学総合研究所」も「日本原子力研究所」も、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下とその被爆後の、12年も設置されず、原子力発電、政界と産業界主導の原子炉産業推進が、国家予算化した後になってから、発足した政府機関・・・それが「放射線医学総合研究所」なのです!


このことから、原子力発電や原子炉産業を推進することを、側面から支える為の補助エンジン(ブースター)的役割を、「放射線医学総合研究所」は、その設立当初から持っている、そういう性格の政府機関であるということ、原子力発電推進・維持を最優先とする、国民の生命安全切り捨ての政府機関であるということは、しっかり確認しておくべきである。


放射線医学総合研究所法第3条で示されている「放射線の人体への影響、放射線による人体の障害の予防、診断及び治療並びに放射線の医学的利用に関する研究開発(研究及び開発をいう。以下同じ。)等の、業務を総合的に行うことにより、放射線に係る医学に関する科学技術の水準の向上を図ることを目的とする」と書かれている。しかし、この「目的」とは、我が国の国民大衆、一般市民の生命と健康を放射能の危険から防護することなどは、「二の次に過ぎない」と見なす政府機関であることを、しっかりアタマに叩き込んでおくべきであろう!


こうした当時の政府の動き対し、1954(昭和29)年4月23日に、日本学術会議(1949昭和24年設立)は、原子力問題に対する政府の、なりふり構わぬ原発推進の態度に警戒感を深め、非難し、核兵器研究の拒否と、《1》.研究の民主的な運営、《2》日本国民の自主的運営、《3》一切の情報の完全公開の三原則の声明を出した。


 


しかし、この日本学術会議の声明や危惧といえども、あくまで原子力の軍事的利用に対する警告に留まり、その平和的利用は肯定している点では、原子力エネルギーの悪魔性(制御不可能性)についての、根本的洞察を欠いていた点でも、結果的には政府のいう「原子力の平和的推進及びその利用」を追認していた。

この点に関して、今回のフクシマ原発事故に関して、当時の日本学術会議の責任も免れないことも、ハッキリ指摘しておこう。


「放射線医学総合研究所」及び「日本原子力委員会」が提言し認可している、現在の放射線量の安全基準値なるものは、我が国国民の生命や健康の安全を保証する数値では決してなく、あくまで、将来の原子核兵器開発も射程に入れた、原子力発電を、何が何でも推進させることを当然の大前提とする、安全対策、安全基準値である。これら政府機関のそうした姿勢は、2011(平成23)年4月末現在の今でも、全く少しも変わっていない!
この点もしっかり再確認して欲しい!


同1954(昭和29)年から、産業界が原子力分野へと触手を伸ばし始めた背景には、旧財閥グループが原子力5グループとして再編成をはじめることで、戦後の財閥解体による痛手からの脱却を計り、旧財閥以上の利権の復活、獲得、強化をめざし、徐々にそのすそ野をひろげ、再び巨大財閥グループへと変身していこうとする時期と、ピッタリ重なっていることも、見逃すことはできない。

この5グループとは、三菱系の三菱原子動力委員会、日立系の東京原子力産業懇談会、住友系の住友原子力委員会、三井系の日本原子力事業会、古河系の第一原子力グループ・・・の5つである。


1956年1月27日に、原子力委員会委員長正力松太郎、第8回定例委員会において原子力産業会議設立を提唱し、経団連や電気事業連合会などの民間産業界もこれに呼応し、同年3月1日、社団法人日本原子力産業会議(2006年の改組後は日本原子力産業協会)会長菅禮之助、を発足させた。


こうした歴史的経過を辿れば、現在マスコミに登場する組織や人脈が、どのような系譜であるかが、手に取るように明らかになるであろう。
日本の原子力は(欧米でも大同小異ではあるが)その発足当初から、政界・官僚・財界・産業界・学会・更には司法界までもが、ガッチリとスクラムを組む形で、今日まで巨大化肥大化してきたことが理解できよう。まさに、文字通りの、まぎれもない「巨大な大国家独占資本体制」そのものである。


1956年1月発足の原子力委員会の、初代委員長に就任したのが、誰あろう、あの「正力松太郎」であったことを知る人も、今日少なくなった。「正力松太郎」なる人物の過去を知る者なら、日本の原子力産業が、国民市民を切り捨て、その犠牲を厭わない「悪魔の産業」であっても、さして驚かないであろう。彼、「正力松太郎」については、今更多元を要しない。戦前は警察官僚を経て、読売新聞社社長、戦後はA級戦犯として公職追放後、1952(昭和27年)からは、日本テレビ初代社長に就任した、メディア界の帝王である。


福島原発事故で、我が国のマスコミ界が、原発支持の、国民大衆の健康と生命を危険に晒してでも、真実の報道を回避し、何ら科学的根拠に基づかない破廉恥極まる、原発養護の一大キャンパーンを展開したことも、こうした過去の経過を顧みるならば、むしろ、当然であろう!


政界・官界・財界・学会・メディア界・司法界も含む、強固な六角陣形の原発推進スクラムが、今から60年も前に、日本の原子力産業の黎明期に、すでに、ガッチリと組まれてきていたのである。当時の中曽根康宏は「青年将校」気取りで、原子力開発に国家予算を強引に取り付けることに成功した背景には、財界からの隠密裏の、巨額な政治献金が動いていたことは、容易に想像できる。そして、その構造は、今もまったく変わっていない。
それどころか、より一層強化されている。


それは霞ヶ関に巣くう利権漁りの政治家だけではない。いわゆる「電源三法」ひとつ見ても、国民大衆、一人一人も、この「一大国家独占資本」からの「おこぼれ」にありつかんとする動きも、全国各地で生まれてきたのである。



電力需要の大きい都市部での発電所建設は困難であるため、電力需要地とは全く関係のない「僻地」に原発は建設される。放射能汚染の危険がある原子力発電所が建設される地域にとって、メリットはほとんどなくデメリットだけが存在する。
そのため、発電所を建設される地域に生じる反対運動を押さえ込み、「札束で頬を撫でる」ことで反対を抑え込み、懐柔させる目的の法律が、電源三法に基づく交付金、いわゆる電源三法交付金である。補助金交付により、原発建設を容易にするのがこの電源三法のホンネである。


2004年度(予算ベース)での電源三法交付金は約824億円に上る。福島第一・第二原発を抱える福島県では約130億円である。柏崎刈羽原発を抱える新潟県では約121億円である。また、敦賀・美浜・大飯・高浜原発を抱える福井県では約113億円である。六ヶ所村核燃料再処理施設や放射性廃棄物管理施設を抱える青森県では約89億円と・・・、それぞれ巨額の「札束のツラ叩き」が横行しているのである。


尚、原子力発電の発電量は年間約3000億kwhであり、電源三法交付金約824億円は0.27円/kwhとなる。この1Kwh当たり0.27円は、原子力発電表面原価5.9円/kwhには含まれていない!



戦後の混乱と停滞から脱却し、日本経済の高度成長が離陸(take off)し始める1960(昭和35)年前後から、火力発電所の建設が一段と加速し始めました。「水主火従」から「火主水従」(火力発電を主とし水力発電を従とする)への逆転が始まりました。 こうした動きの中から、同じ火力発電でも、石油や石炭などの化石燃料ではないウラン原子の核分裂エネルギーをボイラーの火力熱源とする、原子力発電の開発を促す動きも本格化し始めました。

関西でも、1962(昭和37)年11月、関西電力初の原子力発電所建設が美浜町丹生(にゅう)地区に決定しました。 1967(昭和42)年の美浜原子力PRセンター完成を経て、1970(昭和45)年7月の美浜1号機の初臨界と、美浜1号機から大阪万国博会場へのテスト送電と「原子の灯」が灯った時以降、原子力発電は、その割合を着実に増やし始めていきました。同年11月28日に、国内9電力会社のトップを切って、関西電力による原発の営業運転が開始されました。



by諸留(モロトメ)能興(ヨシオキ)さん。(64歳)
〒611-0002 京都府宇治市木幡赤塚63-19。0774-32-1660。:yoshioki-afym@kkd.biglobe.ne.jp


 

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