僕が短歌を読み始めた頃あるひとが言った。
「誰か批評してくれる人がいるといいのだが。」
そこで結社探しを始めた。何より短歌に対する考え方が僕にとって納得できる歌人のもとで修練したいと思った。さんざん考えた結果、尾崎左永子(現・「星座の会」主筆)・佐藤佐太郎・「運河の会」を知った。「自分を売り出してくれそうな結社」は考えなかった。長続きしそうもなかったし、動機が不純だと思った。(これについては、「三四郎が・・・」 <カテゴリー「短歌自註」>をクリックして頂きたい)
結社に入ると支部・歌会・批評会と呼ばれる「地方支部」がある。そこで自分の作品をうんと批評されるのが利点である。短歌を詠んでいて、自分では気付かなかったところに気づかせてくれるのがことのほかいい。
酷評された方が力になった。「詩人殺すにゃ誉めりゃいい」と俗に言われるが、その通りだと思った。どんな作品でも誉められる一方ではだめだ。歌会(批評会)でいつも顔を合わせる人は、よき理解者であり、辛辣な批評者である。それが長続きする秘訣であるとも言える。
まとめると次のようになるかと思う。
1・「歌会(批評会)」は、研究会の性格をもち、忌憚なく発言できる場である。
2・「歌会(批評会)」の目的は誉められることではなく、自分の気付かなかったことに気づくチャンスのある場である。
3・「歌会(批評会)」で酷評されたことほど記憶に残り、実になるものである。
とまあこんなものだと思うが、もう一つ僕の実感をつけくわえよう。
4・「歌会(批評会)」の自分の作品は半月近く前に投稿したものだから、当日重大な欠点に気づく場合もある。そんなとき、自分の作品の欠点を自らすすんで厳しく指摘すべき場である。そうすれば同じ失敗は徐々に減っていく。
自分の作品を自分で批評しないように司会者が配慮してくれる場合もあるが、僕はすすんで受けてたつことにしている。自分の作品だって改めて読めば、いろいろと手直ししたいところが出てくるのが当然だと思う。歌会に出席しはじめた頃からそうだった。なかなかに難しいが、案外おもしろい。
シビアな作品批評をして、
「あらまあ、これ岩田さんの作品だったの?」と言われたことが何度あったか知れない。しかし、こういう時こそ自分の作品を客観的に見るいい機会だと思いながら毎月の例会に出席している。