岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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伊藤左千夫「叫びと話」を読む:斎藤茂吉の写生論の祖形・3

2011年01月26日 23時59分59秒 | 写生論の多様性
伊藤左千夫の短歌観を知るのはやや困難である。正岡子規の歌論は岩波文庫「歌よみに与ふる書」で確認できる。斎藤茂吉の歌論は岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」「斎藤茂吉随筆集」で確認できる。文庫本だから手に入れやすい。だが伊藤左千夫となると「伊藤左千夫全集」か筑摩書房「現代日本文学全集」によるしかない。

 ここでは筑摩書房「現代日本文学全集」から伊藤左千夫の歌論「叫びと話」(1913年・大正2年「アララギ」に掲載)をとりあげてみたい。そう長いものではないが、正岡子規や斎藤茂吉との違いが見えてくる。

 まず前提として「左千夫は、1902年に子規が亡くなると、門人らとともに<馬酔木・あしび) >< アカネ >といった雑誌を創刊し、07年には「アララギ」を創刊する。そこへ島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、土屋文明といった若い作者たちが入門してきたことから、のちの< アララギ >は隆盛を迎える。」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)を押えておく。(この記述内容には、やや不正確な部分があると思うが。)


 さて本文の「叫びと話」。なんだかよくわからないタイトルだが、現代風に言いかえると「詩と説明」と呼ぶのがふさわしかろう。

 全体が四つの章からなるので章ごとに紹介していくことにする。原文に小見出しはないが、(  )内に小見出しをつけるる。


1・(「叫びとは何か」)現代語で「叫び」と言えば「絶叫」のことだが、ここで伊藤左千夫のいう「叫び」とは「情感を声調するどく表現する詩」のことである。

 それは次の一節から分かる。

「概して韻文に、力といふもの無く熱といふもの無いのは、其の韻文中に含まれて居る叫びの分量の乏しきに起因するとの結論を見るのである。・・・叫びと云へば直に、絶叫的叫喚的叫びの単なる意味を以て以て、無造作に詩論を試むるならば、其の結論に大なる錯誤を伴ひ来るべきは、極めて自然の数であるのだ。・・・総て感情の動揺を禁じ得ざりし時に、我知らず叫びを発するに至らぬものは少なかろう。・・・禁じ得ざる感情の動揺は、吾人の創作上重要なる動機であって、表情の自然的声調や、個性的感情の表現やはいづれも又短歌生命の重要なる要素である。」


2・(詩と説明・理屈の区別)次の一節で「叫び=詩」と「話=説明」の違いを左千夫が意識していたことが分かる。

「叫びは感情の純表現であるが、話は説明報告が多い。」

 しかし正岡子規との違いは、「全くあきれ返った理屈にて候」という思い切りがないことである。

「叫びの歌、話の歌といふやうに、さう簡単に云ふことは出来ない。・・・叫びに近い歌、説明に近い歌、と云ったら良いであらう。」

 伊藤左千夫の作品は、九十九里の歌のようにスケールの大きい叙景歌がある反面、日常報告的な歌も多い。岩波文庫「左千夫歌集」で散見される。ここに子規や茂吉との違いがある。


3・(単純化・率直に表現することの重要性)「単純化」という言葉は「写実派」の歌人ならピンとくるのだが、要は「感動の中心を絞り込む」こと。伊藤左千夫はこう言う。

「叫びは声の調子を通して、叫者の心を伝えるものである。心を伝へると云ふても、殆ど云ふ程のものではなくて、単なる感情を伝へるに過ぎない。で、之れを言換へると最も単純化された、叫者の心を伝へるものである。それだけ聴者の心には純粋な感じを与えるのである。」

 ここには佐藤佐太郎の「純粋短歌論」の原型が見られる。ただし「歌の調子」をことさら強調しているのは、子規・茂吉と違うところだ。左千夫の別の歌論「続新歌論」で、「歌の調子はその意味にまさる」という趣旨のことを述べているところと符合する。「作品の意味内容が声調を決定する」という子規や茂吉との違いが明らかである。それはまた「調子が良ければ、内容は報告的になることもある」という、2の論点にも通じる。


4・(古典和歌の批評)正岡子規の歌論の中心は、旧派和歌の「聖典」だった古今和歌集との決別宣言だった。だから、新古今和歌集については、賛成できる作品とそうでない作品を分けているが、伊藤左千夫は古今和歌集だけでなく新古今和歌集も全否定している。万葉集の初期の作品を誉めるあまりの帰結だろう。


まとめ・こう見てくると伊藤左千夫と正岡子規・斎藤茂吉の違いがよくわかる。さらに「写生は絵画用語だから写実というべきである」に至っては、長塚節との違いも明白である。斎藤茂吉が伊藤左千夫を「選歌の師」と呼び、長塚節を「本来的な意味での師」といった理由もこの辺にあるのだろう。

 ただしこの記事は斎藤茂吉の作者像を探るために伊藤左千夫を論じたもので、伊藤左千夫の業績を否定するものではない。その業績の評価については、「作家論・小論」の「伊藤左千夫・小論」を参照して頂きたい。



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