UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

平成の世がおわり、「あの日」がますます遠くなるのだけれど(その二)

2018-11-12 02:00:17 | 日記
今日の日記は最近出版された「朝、目が覚めると、戦争が始まっていました」と題された本について書いた11月8日の日記の続きです。

この本はすでに一度書きましたが、太平洋戦争開戦の日、1941年12月8日に、開戦を知った作家や詩人を中心に、政治家や軍人、ジャーナリストなど当時の著名人55人が開戦をどうのように感じ受け止めていたかが記されている日記や回顧録を集めて編集したものです。

11月8日の日記に、開戦を知って「大半の作家や詩人たち、程度の差はあれ、また表現に違いはあるものの、みなさん一様に舞い上がっており、自らの決意めいたことを記しています」と書きました。その舞い上がり振りは一様でありませんが、その美辞麗句と大言壮語にあふれる表現はいささか情緒的であり自らの言葉に酔っているようにさえ感じられます。

しかし、GGIが見るところ、勇ましい決意の言葉にはあふれているものの、勝利を確信していることを感じさせる言葉はまったくと言っていいほど見受けられません・・・勝利の確信もないままに開戦に舞いあがっていたのであれば、これはかなり異様でであると言わざるを得ません。

勝敗よりも、戦いに勝つことよりも、戦うことに意義あり、鬼畜英米を相手に戦うことにこそ意義があるというのでは、舞い上がってしまった人物たちによる、いささか感情的ともいうべき、まったく冷静さを失った記述、これは完全に「狂っている」としか言いようがないというのがGGIの感想です。集団的発狂・・・とでも言うのでせうか・・・

GGIは著名な作家や詩人たちは常識的には文化人や知識人の部類に属する人たちであるはずだと思うのですが、このように開戦の知らせに冷静さを失って突然舞い上がってしまった多くの作家や詩人による文章表現には残念ながら知性のかけらも感じられません。理性も冷静な判断力もまったく失った人物たちの精神の有り様は一望の荒野であり、無残のひとことに尽きるとしか言いようがありません。

また、これらの舞い上がってしまった人物たちは、周囲の圧力に敗けて、時代の「空気」に負けて、当世の流行語で申しますと「同調圧力」に屈して、このような舞い上がった日記を書いたものであるとは思われません。その文面からすると、言葉の調子からすると、何らかの圧力に屈しての表現ではなく、舞いあがった文章を自発的に勇んで記したのであろうとGGIは考えます。

しかし、ごく少数に過ぎないのですが、戦争の行く末に不吉な予感を抱いたり、戦争の行方を的確に言い当てていた人物もいます。

たとえば異色の作家であった深沢七郎の文学上の師であった某作家(当時62歳)は次のように記しています。

《昭和十六年十二月八日は、私の頭脳に深刻な感銘を留めている。明治三十七年二月六日の、ロシアに対する宣戦布告は、号外の音を聞いて知ったのであったのだが、あの時は(ある送別会の席上で)余興の清元なんか聞いて、開戦の知らせもロマンチックな気がしたものだ。しかし、今度はそうではなかった。陰惨な感じに襲われた。》

また当時陸軍の幹部であった某軍人はその日記に以下のように記しています。

《・・・予ハ予テ申シ居ル通リ最初ハ勿論勝利ヲ得レドモ終局ノ見エザルコトガ最大ノ癌ナリ》

そして、「舞い上がった」作家や詩人たちなどが多かったものの、一方において、開戦の知らせに身の危険を感じた人物も少数ながらいました。

或る思想家(当時31歳)は以下のようにその著作で記しています

《・・・戦争が始まった。そして、その翌朝、僕は逮捕された。そのときの直感は、いよいよ殺されるなということですね・・・しかし、開戦当時、政府はいい気になっていたのですね。ぼくも留置場のなかで看守から大戦果があがったというような勇ましい話を聞かされて、やっとほっとしましたね。僕はまったく新聞報道も知らずに捕まったのですが、これでようやく助かったという気分でした。》

また、ある作家(当時39歳)は次のように記していました。

《福井県の郷里で、父の葬式の後始末をしていた。支払いに町に出ていて、電柱に貼ってあるビラを見て開戦を知った。別に感慨もなかったが、瞬間、家に帰れば、特高が来ているだろうな、と思った。》

このような人物がいた一方で、戦争をさせないための自分の努力が足りなかったと悔悟の念にかられていた人物もわずかながらいました。

「暗黒日記」の著作で後に知られることになる、朝日新聞を退社してフリーのジャーナリストに転じていたある人物(当時51歳)は以下のよう述べていたとされています

《(彼は)「けさ開戦の知らせを聞いたと時に、僕は自分たちの責任を感じた。こういう事にならぬように、僕達が努力しなかったのが悪かった」と感慨をもらした。》(文壇五十年、正宗白鳥)

また、ある社会運動家(当時36歳)は以下のように記しています。

《・・・もっと強くこの戦争に反対できていたならと、胸は痛んだ。明日の運命も知らずに宮城に向かう大群衆の足音、天地を揺さぶるような万歳の声、人々の心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっと聞いているくやしさ。にじみ出る涙もおさえきれなかった》

以上はこの本を読んでのGGIのまことに勝手な感想です。立ち読みができるぐらいの長さの本ですから、店頭で手に取っ手ご覧になるのも無駄ではないでありませう。ぜひ、一度ご覧になってください。

この本を出版された方丈社さんには若干の営業妨害のようなことになったかもしれませんが、どうか寛大なお気持ちでお許しください。

今日の写真はかつての日本軍のシンボルであり、今でも自衛隊のシンボルである「旭日旗」をネットさんから借用したものです。よろしければクリックしてご覧になってください

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

この日記、つづくかもしれません

グッドナイト・グッドラック!

ボクの柿日記(その三):実はあまりならないけれど全身柿色柿・・・

2018-11-10 01:53:26 | 日記
ボクの庵の庭には柿の木が三本半あります。「半」というのは先日の日記で紹介した隣家からの越境柿です。隣の柿木、半分は越境しているからです。

三本の柿のうちの一本はやや小粒ですが甘柿、もう一本は実はやや大きいもののやや渋柿です。この二本は毎年よく実をつけます。

そして、もう一本柿の木があります。この柿の木は新人です。まだ十歳ぐらいです。ボクの築戦前の旧い庵を建て替えて新しい庵にしたころにいつの間にか庭の真ん中に自然に生えてきたのです。

桃栗三年柿八年と言いますが、この柿の木、この言葉とおり、ほんとうに八年目ごろから実をつけるようになりました。でも、まだ新人なので他の二本の柿の木に遠慮しているのでせうか、あまり実をつけません。

けれども、この三本目の柿の木は不思議な木です。実はあまりつけないのに、葉っぱはもう全部柿色に色づいているのです。見事に全身柿色なのです。他の二本は実をよくつけているものの、葉っぱはまだ柿色に転じるほどに色づいていません。

なぜ実はあまりならないのに全身が柿色柿になっているのでせうか。ボクの推察によれば柿の実を柿色にする成分が柿の実のほうには行かずに葉っぱのほうにいってしまったからです。それで柿色の成分が足りなくなって実はあまりならなくなってしまったのす。このような現象が生じたのはおそらくは神さまの気まぐれのせいです。

今日の写真はこの全身柿色の柿の木を撮ったものです。クリックしてご覧になりボクの庵の深まりゆく秋を楽しんでください

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
 
グッドナイト・グッドラック!

平成の世がおわり、「あの日」がますます遠くなるのだけれど(その一かもしれません)

2018-11-08 01:21:25 | 日記
平成の世がもうすぐ終わることになっております。

GGIには特別な感慨と言ったものは何もないのですが、これでかつての「昭和の世」はますます遠くなるなあ、と考えておりましたら、昭和の「あの日のこと」についての本が最近出版されました。10月26日の日記でもちょっぴり紹介したのですが、「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」という本です(方丈社、2018年8月、1200円+税)。

今日の写真はこの本を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧ください。

「あの日」というのは、あの「鬼畜米英」に日本が宣戦布告した日、昭和16年(1945年)12月8日、米国にいわせればリメンバー・パールハーバーの日です。GGIがこの世に生を受けてから7カ月後のことです。

宣戦布告を伝えるラジオのニュース(午前7時)は以下のようなものでした。

《臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部十二月八日午前六時発表、帝国陸海軍は本日未明西太平洋上に於いて、アメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は本日未明西太平洋上に於いて、アメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり。なお今後重要なニュースがあるかもしれませんから聴衆者の皆様にはどうかラジオのスイッチをお切りにならないようお願いいたします。》

この栄えある?「あの日」はいわば明治以来のわが大日本帝国の決定的な「お迎え」の日であった終戦(敗戦)の日に一直線につながるものでありました。

この本の帯には次のように記されています。

《昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発。あの日、日本人は戦争をどう感じ、何を考えていたのか?当日の知識人・著名人の日記、回顧録から偽らざる戦争の実感を甦らせる》

この本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まったことを報じるラジオのニュースを耳にしたり号外を目にした人々が開戦の報をどのように感じを受け止めていたのか、主に当時の作家や詩人など、それにジャーナリストや軍人、政治家など著名人55人の日記・回顧録などの抜粋を集め編集したものです。

先の大戦を振り返り考えるとき、終戦の日やその前後、あるいは戦中の様子から観ることが多く、たとえばなかなかの力作である野坂昭如の「《終戦日誌》を読む」(朝日文庫)といった著作もその一例です。しかし、「開戦の日」から見た先の大戦はどのようなものであったか、という視点から観ることも日本の現代史を考える上で大切ではないかと思われます。この意味から、この本の出版はなかなかの得難い優れた企画であるといってよいでありませう。この本を出版された方丈社の編集部のみなさんにGGIは個人的に感謝申し上げます。

この本をパラパラと眺めていて、GGIはいつであったか、ずいぶん以前、某有名大学の仏文の先生をしていたことがあり、また永井荷風の研究家でもあった人物と話したときのことを思いだしました

「先の大戦で、詩人の金子光晴は戦時中徹底的に反対していましたね、息子を病人に仕立てて徴兵検査を逃れさせようとしたり・・・」
「いや金子光晴だって、当初は文学報国会なんかに出入りしていたことがあるからなあ・・・金子よりも徹底していたのは永井荷風でせう。彼は開戦から終戦に至るまで徹底して戦争にそっぽを向いていましたから」

文学報国会というのは、正式名称は「日本文学報国会」。昭和17年(1942年)5月に政府の内閣情報局が実質的な外郭団体として組織したとされる文学者の団体のことです。金子光晴が文学者の翼賛組織である文学報国会にどの程度関係していたのか否かは定かではないのですが、永井荷風が戦争に徹底してそっぽを向いていたのはほんとうだと言ってよいでありませう。

そのことはこの本で紹介されている当時62歳であった彼の日記の文面からもうかがわれます。最初に「日米開戦の号外出ず」と記されていますが、開戦そのものについての記述はこれだけであり、開戦を知っての感想らしきものは一言も記されていません。ただ、この日の街の変化の様子が淡々と記されているだけです。見事なそっぽ振りです

《日米開戦の号外出ず。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となる。街頭商店の灯は次々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にゃ。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄色い声を張り上げて演舌をなすものあり。》
(摘録断腸亭日乗:岩波文庫)

この本では永井荷風以外にも、開戦を知っての自分の気持ちに触れることなく、街の様子だけを記していた作家が何人かいます。その内心、如何ばかりであったか、複雑な想いを記す気にはなれなかったのかもしれない、というのがGGIの推測です

ここで少し脱線いたしますが、永井荷風にこの日記を読んで、GGIは「なんだよお、開戦したばっかりというのに、もう早くも灯火管制なのか!開戦当日にもう帝都東京空爆を覚悟していたなんて、そんなことで勝てるはずないだろう、勝てるとは思っていないのに戦争を始めたのかよお!」と呆れてしまいました。まことに救い難きわが日本・・・

もちろん、開戦の知らせに突然舞い上がってしまった作家・詩人も少なくありませぬ。正確に申し上げれば、少なくないどころの騒ぎではありませぬ。大半の作家や詩人たち、程度の差はあれ、また表現に違いはあるものの、みなさん一様に舞い上がっており、自らの決意めいたことを記しています。

ひとりだけ、その典型例をこの本から挙げておきます。ある作家(当時34歳)の日記です。立ち読みで結構ですから、みなさんに一度この本を手に取っていただければとGGIは勝手なことを思っておりますので、誰の日記であるのかは記しませぬ。

《私はラジオの前で、或る幻想に囚はれた。これは誇張でも何でもない。神々が東亜の空へ進軍していく姿がまざまざと頭のなかに浮かんできた。その足音が聞こえる思ひであった。新しい神話の創造が始った。昔高天原を降り給うた神々が、まつろはぬ者どもを平定して、祖国日本を築いたやうに、その神話が、今、より大なる規模をもって、再び始めれれた。私はラジオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった》(「荘厳なる感動」:「文学界」昭和17年2月号)

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・・

グッドナイト・グッドラック!

ボクの晩秋日記(その二):お迎えがそこまで来ていた!

2018-11-06 00:41:03 | 日記
今日の日記は昨日のつづき、明鏡止水日記の続編です。

昨日の日記に、ボクが湖岸で明鏡止水の心境でいたら元気のよい知人が電話してきて、ボクをバカにして「GGIよ、オマエがいま明鏡止水の心境にいるというのか!どうかしたんじゃないか?気は確かか?そろそろお迎えが近づいたのじゃないか」と言ったと書きました。

ボクはそのときほんとうに明鏡止水の心境だったので何を言われても平気でした。でも「そろそろお迎えが・・」という言葉が少し気にかかりました。

お迎えかあ・・・そうだよなあ・・・もういい年だからなあ・・・中学時代に仲が良かった元気いっぱいヤンチャ坊主がもう何人も亡くなっているしなあ・・・いつお迎えがいつ来たって不思議ではないようなあ・・・

と思いながら、ボクは何となく振り返って西の空に目をやりました。

そうしましたら、何ということでありませう・・・

お迎えが来ていました!そこまで来ていたのです!

青い空にバラ色の雲が浮かび、白い光を放つ長いヴェールのような雲の長い階段が地上に降りてきていました。

ああ、これは天国への階段なのだ、あの階段を昇っていけばボクは天国に行けるのだ、あの「帰ってきた酔っぱらい」みたいに階段を踏み外さなければ無事天国にいけるのだ、このバラ色の雲が浮かぶ青い空に、天使が舞っていればもう完璧だ・・・

今日の写真は天からのお迎えの光景を撮ったものです。よろしければクリックして天からのお迎えがどのようなものであるか、確認してください。

うわあ、いきなりお迎えがくるなんて、いくらボクがいま明鏡止水の心境にあるからといっても、こんなにも突然はなあ・・・困るんだよなあ・・・

そのときバラ色の雲の彼方から声がしました

GGIよ~、私が誰か分るか~、私は神さまだあ~?ひさしぶりだなあ、元気か?今日は少しヒマで手が空いてたのでおまえを迎えにきた、おまえももう随分生きたのだから、そろそろかなあと思ったのだ。

神さまですか、ほんとうにお久しぶりですねえ、それにしてもヒマだからボクを迎えに来たなんて・・・神さま、それはちょっと安易ではありませんか?

神さまに向かって「あんたは安易ではないか」などと失礼なことを言うのはおまえぐらいなものだ、でもなあ、まあ正直にいうと、お前のいうことはアタリだ、神さまの意思や決断なんてほんとうところこの程度のものなんだ。

神さま、そんなことおっしゃっていいのですか?低俗スキャンダル週刊誌が知ったら叩かれますよ、「暇なときにデタラメに人の生死を決める神の真実・密着取材!」なんて

心配無用、日本人の大半は信仰なんてカネにならんイヌにでも喰わせろと思っているからそんな記事書いたところで売れるとは思えぬ。それになあ、誰かさんが堂々と「神は死んだ」と広言してから久しいのだから、一世紀以上経つのだ。だから、そんなこと書いたって誰も驚かないさ・・・でもなあGGIよ、やっぱりこの話、念のためオフレコということにしておいてくれ、最近は関連業界が結構うるさいんだ

わかりました、神さま。でもボク、困るんですよ。いきなり何の前触れもなくお迎えに来ていただいても・・・

何をいっているのだ、おまえはいま明鏡止水の境地にいるのだろう、さっきおまえの友人にそう言っていたではないか、なんのわだかまりもない澄み切った静かな心になっていたのだろう、澄みきった心になっているのなら、いつお迎えが来てもいいではないか、お迎えを受け入れる絶好のチャンスではないか

神さま、そんなムチャをおっしゃらないでください。だってボクは、ほんのさっき明鏡止水状態になったばかりなのですから、澄みきった心にはまだ慣れていないのですよ。それにボク、今日はまだあれこれ用事があるのです。おカネがなくなったからこれから近くの郵便局に行って、それから郵便局の近くのスーパーに行って、そらからスーパーの近くのマンションにいる知人のところに寄って、それから・・・とにかく今日はダメなんですよ、いくらお迎えに来られたりしても・・・

そうか、それでは今日は止しにしておこう。でも、いつまでもお迎えが来ないなんて思ってはいけない。東京オリンピックまでは生きていたいなんてムシのよいことを考えるでないぞ

ボクはオリンピックなんていう亡国大運動会なんかにはまったく興味ありませんから、そんなこと考えたりはしませんよ

では、大阪万博までは生きていたいなんて思うでないぞ

あんな半世紀以上前の二番煎じなんて、成功するはずがありません。だから、そんなことを思ったりいたしません。ですから、神さま、ご心配なく

でも、大阪にカジノができるまでは生きていたいなんて思っているのではないのか?

だいじょうぶです。先日ボクの知人で、韓国のカジノに入りびたり親父の遺産をそっくり貢いでしまったという人物から話をききました。彼は自分の身上をつぶしただけでなく某製紙会社の御曹司や某プロスポーツの有名選手にもカジノの手引きをしてやって、身上つぶさせてしまったと笑っていました。カジノは天国と地獄と狂気が共存するこの世のものとは思えぬ素晴らしいシビレル世界だということでした。だから、一度は天国と地獄を同時に味わってみたいものだと、カジノ誕生まで生きていたいものだと思わないこともないのですが、でも先立つものがなのでご心配なく・・・

そうか、でもGGIよ、神は死んでも死神は死なずだぞ、このことは忘れるでないぞ

分っておりますよ、神さま、そのくらいのことは・・・

GGIよ、メメント・モリだぞ、わかっておるな?

御意でございます、神さま

では、また近いうちに会おう

いえ、神さま、神さまはたいへんお忙しくしておられますから、どうか無理なさらないでください。しばらく疎遠にしていただいて結構です

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!

ボクの晩秋日記:山紫水明ボクの心は明鏡止水・・・

2018-11-04 01:39:02 | 日記
一昨日の午後、ボクは湖岸の大通りをあるいていました。青空の下でわがマザーレイクの湖面が午後の陽光に明るくキラキラと輝いていました。遠くの山々は空の青と湖の青にはさまれてくっきりとその輪郭を浮かび上がらせていました。

ボクはまるで「山紫水明」の見本のような素晴らしい景色だなあと思いました。そこで、他に用事があったのですが後回しにして、ボクはしばらく湖岸沿いの公園を散策することにしました。

今日の写真は湖岸からの眺めを撮ったものです。よければクリックしてご覧になってください。

湖岸の公園でしばらくぼんやり遠くを眺めていましたら、ボクは何となく心が落ち着いてきて澄んでいくような気がしてきました。それで、そうかあ、こういう感じを「明鏡止水」というのかもしれないなあ、とボクは思いました。

そこでボクは、しばらく明鏡止水の心境に浸ろうと思いました。だんだん明鏡止水の心境に近づいてきたなあと思っていたら、携帯電話がなりました。元気の見本のような大きな声の知人からでしたら


「おいGGI、いま何してる?これから君の雑草の園を寄ってもいいか?」

「ダメです」

「どうしてや?」

「いま、ボクは明鏡止水の心境にあるからです」

「えっ、いま何と言った?」

「明鏡止水、メ・イ・キョウ・シ・ス・イ・・・」

「メイキョウシスイ?それ何のことや・・・名教師がどうかしたのか?」

「君は明鏡止水という言葉を知らないのですか、知らないことを率直に認めれば教えてあげます」

「率直でなかったら?」

「ボクは心が広いですから、率直でなくても教えてあげます。明鏡止水というのは中国の古典《荘子》にある言葉です。曇りのない鏡と静かな水のこということですが、これは《なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態》のことを意味しているのです」

「おいオッサン、だいじょうぶか?なんのわだかまりもない澄み切った静かな心になったりして、気は確かか?・・・そろそろ君はお迎えが近づいたのとちゃか!」

ボクの心は澄み切っていたので、知人に何をいわれようとボクは平気でした。

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!