UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

「終活」のまえに認知症・・・

2018-01-15 01:05:48 | 日記
ちかごろはヘンな造語がすぐに流行したりしますね。

勝手な思いつきの造語のために「美しき日本語」が乱れる、日本の良き伝統を守れなどと堅苦しいエラゾーなことを言うつもりはないのでありますが、まあ、ほどほどにしていただきたいと思うことも少なくありませぬ。最近のヘンな造語の一つは「終活」という言葉です。

この土曜日の夕方、GGIが暮らす町の自治会の臨時総会なるものがあり、GGIもマジメに出席いたしました。議題は、わが町民の高齢化は最近とみに著しく、このため自治会のいろいろな役員や委員、当番などのなり手も激減しているため、7つの組に分かれている現在の自治会の組織をすこし整理したいが如何なものか、といったものでありました。

確かにに著しき高齢化であります。この日、委任状ではなく実際に出席した方々は三十人ほどでありましたが、出席者の半分以上は、座布団に座るよりも椅子の方を選択されていたからです。かくいうGGIも椅子を選択してしまいました。この秋、市民病院の整形外科医に、GGIさんは体がカタイ、と言われてしまって以来なんだが体がカタマッテしまったのです。

集まりは小一時間で終わりました。席を立とうとしましたら、民生委員をしている温厚な人物がGGIに急接近してきて、一枚のチラシを示しながら、こういうものを2月のはじめにやりますから、GGIさん、あなたも是非いらっしゃい、とのたまひました。

チラシには「ふれあいサロン、第5回は「終活」について考えましょう」と大きく書いてあります

今日の写真はこのチラシを撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ。「ふれあいサロン」というのはこの民生委員氏が最近になって自発的に始められた、高齢者の方々の集いのようなものです。

民生委員氏曰く

「GGIさん、《終活》といいましても、自分が死んだときのこと、そのあとのことをどうのこうのということもありますが、最近はそれだけではなく、むしろ残された日々をいかに有益に過ごすかということが大切なテーマになってきているのです。失礼かもしれませぬがGGIさんのブログなどを拝見させていただきますと、GGIさんは残された日々を必ずしも有益にお過ごしになっていないのではないかという疑念を、私は抱かざるを得ないのです。ですからGGIさんがこの集いにおいでになれば、これまでにない新しい日々が開けるのでないかと思います。社会福祉協議会の方にお話をしていただきます。話のあとの茶話会はご自由、そのままお帰りになっても結構、ぜひおいでください」

GGIは、《終活》かああ・・・いよいよそういう年か、などと予想外の展開に若干惑ったのでありますが、イエスともノーともこたえずに
「このような活動をお世話なさるのはとても大事なことですよねぇ、ありがとうございます」

まあ、「終活」も気にはなるのでありますが、ちかごろはわが身辺で「あの人、最近認知症の気があるのとちゃうか」とか、「うちのヨメさん、もともとアホやと思うていたけど、どうやらテンネンの認知症かもしれん・・・」などという話をよく耳にするようになりました。このためGGIとしましては「終活」よりも認知症のほうが気になるなあ、というしだいであります

そこで、まことに突然で失礼の極みでありますが、みなさんに認知症進行度のついてのテイスを行います。素直に答えてください

□ 発言にまとまりがない、
□ ろれつが回らない、
□ 古くからの友人の顔が分からない、
□ 同じ内容の発言を繰り返す、
□ 細かい動作をする能力が下がった、
□ 読んだり聞いたり理解したりするのが困難、
□ 判断力や計画立案、問題解決、衝動抑制の能力が疑わしい、
□ 最近目に見えて語い力が低下した

みなさんは上記の項目のうち、いくつの項目がアタリでありましたでせうか?
GGIは最近、知人たちから、「おまえ、いったい何がいいたのや?}とか「GGIよ、滑舌がワルイ、何言うてるかわからん」とか「その話、前に会ったときに言うてた」とか「おい、GGI、何回いうたら分るんや」とか「GGI、おまえのオツム、ちゃんと回転してるのか」とか「おまえ、言葉を知らんなあ」などと言われたりいたしますので、該当する項目が結構あるということになり、認知症に大接近しつつあるのかもしれませぬ・・・

GGIと同年代の方なら、一つや二つぐらいは身に覚えがあるのではないかと御推察もうしあげます。でも、その程度であれば、とくに心配されるには及びませぬ

ところが世の中には上記のすべての項目に該当する人物がいるのです。極めつきの「重要人物」がすべてに該当しているのです・・・などと書きますと、カンのよい方はこの人物が誰かお分かりになるかもしれませぬ。

それはあのアベ坊やだろうと思われる方がおられるかもしれませぬが、彼の場合は認知症というよりは、認知症よりはずっとやっかいで、多数の人々に迷惑をかけても平然としていることを特徴とする、無神経性幼稚性慢性過剰自己愛症候群ともいうべきでありませう・・・

さて、この人物、世界を今お騒がせさせているとされている人物でありますが、あのキム君ではありませぬ。キム君と同類あるいはキム君のライバルである(つもりの)人物です。昨日のCCNのニューによれば、この人物は米国大統領のトランプさん(71歳)であるとのことです。ウソだと思われる方は下記のCNNのサイトなどをご覧くださいませ

https://www.cnn.co.jp/usa/35113111.html

CNNニュースによれば、トランプさんは最近健康診断を受けたのですが、診断に当たった医師が健康としているため「おれは健康そのものだ」とおっしゃっています。しかしながら、米国、カナダ、ドイツなどの著名な専門家27人が、健康診断を行った医師にたいして、トランプさんの精神面の検査を行うべきであるとする書簡を送ったとのことです。

そしてこれらの専門家は上に列挙したような認知症を疑わせる医学的な所見すべてがトランプ氏に認められるとしています。

1月11日付けのこの書簡は、この年齢層の米国人は定期的に精神面の検査を受けるのが標準になっていると指摘し、さらに国民は大統領の健康状態を明確に知る必要があると強調したうえで、トランプ氏の精神状態を懸念する声に基づいて認知症の検査を実施するべきだと提言しているそうであります

トランプさん、「オレは情緒の安定した天才だ」と誇らしく言っているそうでありますが、天才を自称する人間に天才がいたためしはありませんので、大変心配でございます。

もちろん、わが日本の政治家のなかにも、上記のような所見が認められるため認知症の検査をした方が良いのではないかと疑わる人物がすくなからず存在しております

他人を軽々しく認知症呼ばわりをすることは人権侵害となりかねませぬ。このためGGIもそのような過ちを犯したくはないのですが、自動車の運転に際して認知症が問題にされるのであれば、国家の運転に携わる国会議員のみなさんに対しても、無茶な運転で国民に害を与えないよう、国政に関する認知度を検査してもいいのではないかと愚考いたします

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!

冤罪はなせ起きるのか(その1?)、裁判官の心理・・・

2018-01-14 00:46:09 | 日記
昨年12月3日の日記に、湖国で33年前におきた冤罪が強く疑われる事件、「日野町事件」について講演会を行い、再審弁護団の弁護士さんに来ていただいて、この事件の全容、裁判における争点などについて話していただいと書きました。

(この日記は以下のサイトに掲載しています)
http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/d/20171203

講演に先立ち、GGIは弁護士さんに、事件の全容や裁判における争点だけではなく、なぜ冤罪が起きるのかという点についても話していただくようお願いしておきました。

この点について、裁判官の経験が長く、高裁で裁判官を務めたこともあるこの弁護さんは、いろいろなことをお話になったのですが、そのなかから冤罪と裁判官の心理との関係とも言うべき点についても語っておられましたので、その部分を正確な講演記録から抜粋して以下に紹介いたします。

《制度上はどんな事件であっても、起訴されて起訴状を見たときに(裁判官は)予断を持ってはならないことになっています。ところが実際は、裁判官は起訴されたら有罪だと予断を持つんです。まず犯人にほぼ間違いないだろうと思うわけです。逆に被告人が法廷で否認すると、その否認に疑問を持ってしまうわけです。自白すれば信用するのですが、否認されるとそれに疑問を持つわけです。そういう習性になっているのです。

なぜかというと、起訴されると99.9%が有罪になるのが現状だからでず。検察官が起訴したものはまず有罪だと受け取る頭ができてしまいます。現実にも、自白した事件のほとんどがその通り真犯人です。裁判官は何をしているかというと、自白調書を毎日々々読んでいって、証拠も揃っているので有罪判決を日々書いています。こういう作業が連続する毎日です。この感覚では冤罪を発見しようという発想になかなかならないですね。もうひとつは、そういう発想を仮に持ったとしても、もし万一、この否認している被告人が真犯人だったら、自分が無罪を言えば犯人を取り逃がすことになるのではないかという恐れを抱きます。この感覚は実感としては相当あると思います。

そういう点で裁判官はそもそも発想が捜査側に傾いたところから出発しているという面を否定できないだろうと思います。それと、虚偽自白がなぜ生まれるのか、冤罪の人がなぜ自白をするのかという、その理由を裁判官はよく理解していない。わたしもこういう再審事件を(弁護士として)やるようになって、初めてなるほどと思ったというのが正直なところです・・・》

冤罪が起きる大きな原因の一つは、警察での長時間におよぶ密室での取調べにより得る「自白」に頼るという捜査のやり方であることは、最近の様々な冤罪事件の裁判で明らかになっていますが。この弁護士さんの「裁判官はそもそも発想が捜査側に傾いたところから出発しているという面を否定できないだろう」という言葉、冤罪の根っこは深いと言わざるを得ません。

すなわち、冤罪がなぜ起きるのかという問題はおそらく裁判官の独立性、司法の独立性とも関係した問題であり、それだけに冤罪をなくすことは容易ではないでありませう・・・

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

今日の写真は本文とは関係ありません、雪が降り始めたわがガーデンの夜景を撮ったもので
す。よろしければクリックしてご覧くださいませ

グッドナイト・グッドラック!

「無明」のことはともかくとして、ご住職さま・・・・

2018-01-13 01:26:06 | 日記
昨日の午後、近くの真宗大谷派のお寺に新年のあいさつにうかがいました。

GGIは別に仏教徒ではないのですが、このお寺のご住職は学校時代の一年先輩、それに日ごろ何かとお世話になっているからです

いまから十数年前には、このお寺で死刑囚のみなさんが描いた絵や、みなさんが作られた俳句などの展覧会を開催させていただいたこともあります。それにGGIはお布施なるものの経験はあまりないですが、昨年末には逆にご住職からお布施のようなもの、すなわち若干のご寄付を頂いてしまいましたので、まことに恐縮の極み、このため新年の表敬訪問とあいなったしだいです。

お寺の門の脇に掲示版があり、ときおり、手書きのありがた仏教関係のお言葉が掲示されています。昨日も掲示されておりました

今日の写真は門前のありがたきお言葉を撮ったものです。どうかクリックしてご覧になり、お言葉をかみしめてくださいませ。手書きのお言葉は以下のとおりです

無明

わたしたちは
本当のことがわからないのに
わかったつもり
わかったふりをして
生きているー無明という

いかがですか、みなさん、この一文、意味がおわかりでせうか・・・
このお寺に限らず、お寺さんの門前にはこの種の箴言というのでせうか、意味深長というか意味難解と申しますか、いささかGGIの理解力を超える言葉が掲示されていることがよくあります。

仏教の言葉は何やら哲学的でありますので、無教養なGGIは苦手、GGIの理解を超えています。したがいまして、街角でこのような有難きお言葉に遭遇してしまったときは、ただひたすら「ハハ~、有りがたきお言葉、ごもっともでございます」と分かったふりをして、ただひれ伏すしかありませぬ。このようなGGIの対応は「無明」そのものでありませうか・・・

その点、キリスト教の言葉、聖書に見られる言葉は、まだ理解可能と申しますかGGIにもナントか意味は理解できます

新約聖書には《汝の敵を愛せよ》と記されていますね、このフレーズを目にしますと、GGIはつぶやきます
そうですよねえ、神さま、みんな仲良くしなきゃいけませんよね、でも実際にはなかなかそうは・・・でも愛するように努力すべきでしょうね、アベ君だってキム君だって愛してあげなくてはとは思うのですが・・・でもキリストさま、GGIにもよく分かりますよ、あなたのおっしゃることは・・・

また、《汝の手に堪うることは力を尽してこれをなせ》という言葉が旧約聖書にありますが、GGIはこのフレーズにはじめて遭遇しましたとき、この神さま、ええ神さまやなあと思ってしまいました、できることはしっかりやりなさい、でもね、できないこと、できそうでないことは無理してやることはありませんよ、とおっしゃっている、なんと心やさしい思いやりに満ちた神さまやなあ、ほんとにそうですよねえ、みんないろいろがんばり過ぎですよねえ、ムリしたら体に悪いですよねえ、・・・そう無理せんでもよろしいおてゃ、ほんとうにいい神さまやなあ・・・でも、神さま、汝の敵を愛せそうもないときはどうしたらいいのでありませうか・・・無理して愛さなくてもいいということなのでありませうか・・・

などと聖書の言葉には何とか反応することができるのですが、仏教の言葉はそうは簡単にいきませぬ。

わかったつもりでいることを「無明という」などとブッダさまがおっしゃっても、それどういうこと?それで?とGGIは困惑するのみであります。ついでながら申しあげますと、「無明」に当たる言葉は南アジア・東アジアの国々に存在しています(インドのバーリー語、サンスクリット語、ビルマ語、中国語、タイ語、クメール語、韓国語、チベット語、ベトナム語)。英語の訳は ignorance, misconceptionsだそうでありますが。それはチョット違うんじゃない、などと思ったりします。こんな英語ではまるでこの言葉の有難味が伝わりませぬ

かようなしだいで、門前の有難き箴言に遭遇してしまいましので、ご住職にお会いしたら「無明とはいかなることを意味しているのであろうか」「人間は果たして無明であるべく運命づけられているのあろうか、無明は避けることができない人間の条件であろうか」などと高尚かつ深遠なる対話をしようかなと思いながら、お寺の門をくぐりました

まずは本堂のお掃除をなさっていた坊守さんにあいさつ、玄関のほうにお回りくださいとのこと、しかしながら、玄関に姿を現してたご住職、

「立ったままで失礼をばいたします。わたくし、少し前、脊椎狭窄云々で手術を受けましたので、もういまは正坐ができず、椅子で暮らす身なのでございます」
「さようですか、それはたいへんでございましたね、どうかご無理なさらないでくださいませ・・・実は私めも、最近は何かと老人性疾患と申しますか、ゼンソクはいまのところまあまあなのですが、昨秋、椎間板ヘルニアだと診断されて、それ以来腰の具合がなんとなく・・・それに最近は白内障が進んで・・・診察してもらいましたら白内障にプラスアフファがくっついてきまして、それにこの冬はどういうわけか魚の目がひどく痛みまして・・・」

などといきなり病気談義になってしまい、このため「無明」問題は未解決に終わってしまいました

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!

厳寒の夜、闇からの声・・・・

2018-01-12 01:36:54 | 日記

昨日は風の強い寒い一日、最高気温は数度だったでせうか

GGI、某知人宅で未高齢者、高齢者前期・後期該当者による放談会のような集まりに出て、その帰り、みなさんといっしょにたのしく食事兼飲酒をいたしました。終わったのは午後9時少し前でした

知人たちとわかれて湖岸の大通りをわが庵へと急いでおりましたら、闇の彼方から身を切るような冷たい風に乗ってかすかな声が・・・

以前の日記に何度か書いており、またかと思われることと思いますが、このような寒い冬の夜は、かならず闇の彼方から声がGGIの耳に聞こえてきます

「さむいよ・・・さむいよ・・・」

か細い弱々しい声です、はじめはかすかにしか聞こえないのですが、しだいに大きくなり、やがてしだいに遠ざかり、闇に吞みこまれるように消えていきます。もう聞こえなくなっても、残響音のように、耳の中でしばらくか細い声が響いています

(この話は別のブログや最近では、この日記の以下のサイトに載せています)

http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/d/20171212

そして、寒い夜、GGIの耳に闇の彼方から聞こえてくる声がもうひとつあります。それは中原中也の詩「子守唄」です。どういうわけか、寒い夜、深夜、GGIはこの詩を思い出してしまうのです。

子守唄

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
然しその声は、どうなるのだろう?
たしかにその声は、海越えてゆくだろう?
暗い海を、船もいる夜の海を
そして、その声を聴届けるのは誰だろう?
それは誰か、いるにはいると思うけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだろうか?
たとえ浪は荒くはなくともたとえ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだろうか?

母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
母親はひと晩じゅう、子守唄をうたう
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だろう?

GGIはこの詩を目にするたびに、ここに出てくる母親はきっと寒い冬の夜に、この子守唄をうたっているのではないかと思うのです。
寒い冬の夜、母親の声は、そしてあの弱々しい「さむいよ・・・」という声は、果たしてがどこまで届くのだろうととか、その声は途中で消えてはしまわないだろうか、果たして聴くひとはいるのだろうか、だれか耳にするひとがいるかなあ、いるといいのだけれど・・・等と思ってしまうのです ・・・
(この詩はこの日記の以下のサイトにも載せています。)

http://blog.goo.ne.jp/ugugggi/s/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E4%B9%9F

今日は過去の日記を借用してばかりの、あいかわらずの手抜き日記になってしまいました

なもあみだぶ・なもあびだぶ・なもあみだぶ・・・

今日の写真は、昨夜、冷たい風が吹きぬける湖岸の大通りを撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ

グッドナイト・グッドラック!


雨は小粒の真珠でした・・・

2018-01-11 01:53:19 | 日記

昨日は一日小雨が降っていました

八重葎庵ガーデンの梅の木、小枝のあちこちに何かキラキラ光るものがちょこんと静座しております。なんだろうと思って近寄って見てみましたら雨の滴でした。

今日の写真はこの水滴を撮ったものです。あいにくGGIのカメラの腕は人並み以下でありますのでよく写っておりませぬ。お手数ですが目をこらして水滴をお探しになってくださいませ

小さなまん丸の水滴、真珠のようでありました

むかし、フランク永井さんという歌手が甘ったるい低音で「雨が小粒の真珠なら・・・」と歌っていたのを思い出しました。

この歌を耳にしたのは若かりし頃のことであります。この歌詞のあとに「恋はピンクのバラの花」と続きます。でも、GGIはこの出だしの歌詞を耳にするたびに、この続きの歌詞のようなポエチックなことには思いがおよばず、「雨が真珠の小粒なら、拾ってお金に換えましょう」と口ずさんだりしておりました

まことに恥多き若き日の想ひ出でございます

なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・

グッドナイト・グッドラック!