オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

伝言ゲーム

2007年07月07日 | Weblog


小学校低学年の頃、よく伝言ゲームで遊んだ。

 何組かに分かれて一列になって前から後ろにある伝言を送ってゆき最後尾に早く正確に届いた組が勝ちとなる遊びである。聞いた内容を次の相手に逐次に伝言するだけの簡単なことではあるが面白いくらいに正確には伝わらない。伝言を頭から棒暗記して次に伝えることに専念すれば聞き間違いしか生じないため比較的正確さを保つことができるが、悲しいかな人間は頭を働かして聞いた内容を理解しようとする。そして理解した内容を伝えようとする。そこには少なからず自分の意志が入り込む。これが積み重なって行くと最後尾では見事に最初とは全く異なった伝言に化けてしまう。

聞いた内容を自分なりに理解して自分なりに実行することは悪いことではない。

 どちらかと言うと、人間は常にこの訓練をし続け習性化されている。もっと積極的な人は聞いた内容に留まらず、さらに自分で発想したことを付け加えて実行する。当然それは物事をさらに発展させようとする心構えの現れであり、消極的な人は聞いた内容のまま、もしくは聞いた内容の一部しか実行しない。この頃の日本の教育の在り方を見ていると、一番点数が稼げるのは「聞いた内容のまま」で、次が「積極的な間違い」と「消極的な間違い」である。「積極的な間違い」と「消極的な間違い」が同列であるのはおかしいと思われる人もいるであろうが、一部が○であとは×であることには変わりなくどちらも間違いにされてしまう。

このような○×教育がどういう訳か隅々まで浸透している。

 このような考えが蔓延すればどういう現象が起こるかと言えば、社長が「AをBにせよ」と言ったら、担当部長が「AをBにせよ」と言い、担当課長が「AをBにせよ」と言い、担当係長が「AをBにせよ」と言い、担当のある平社員がAをBにする仕事を受け持つことになる。担当の平社員が「なぜAをBにするんですか?」と尋ねると返答は明確である。「社長の命令だ!」である。「どうやってAをBにするんですか」と尋ねても返答は明確である。「規則、慣例、前例通りだ!」である。たまたま積極的な平社員がいて画期的なやり方をやろうとすると、「勝手なことをするな!」とお叱りを受ける。部長も課長も係長も新しいやり方の結果には責任を取ろうとしないのである。

AをBにして悪い結果が出た時、その責任は誰が取るか。

 簡単である。「社長」である。「AをBにせよ」と言ったのは社長なのである。部長も課長も係長も担当の平社員さえも結果の責任はない。まるで前述の伝言ゲームの様相を呈する。この伝言ゲームを大の大人が真面目に熱心にやっているのである。子供がどんなに真面目にやっても最後尾に正確に伝達できない難しいことを大の大人はいとも簡単に成し遂げてしまう。さすが大人は子供と違うと感心してしまう。コツは簡単である。何も考えないで棒暗記することである。そして間違えないためには細部まで行き届いた規則やマニュアルを整備し、がんじがらめにすることである。聞き間違えたり規則やマニュアル通りにやらないとこっぴどく叱られることになる。

社長も下手な命令は出せない。

 命令しようとしても躊躇してしまう。何故かと言うと、正確な伝言ゲームを実行している社員の下ではろくな成果が上げられないからである。命令したことはこごとく失敗に終わる。失敗が続けば自信もなくなり命令も出せない。会社はただ存続するだけで新しい事業は未来永劫取り込めない。会社は時代に取り残され衰退するのみである。「ニワトリガサキカタマゴガサキカ、ニワトリガサキカタマゴガサキカ」と言う呪文がどこからともなく聞こえてくる。やはりタマゴなんだろう。こんなタマゴを育てた教育が悪いんだろう。

教育を変えなければならない。

 問題点に対する解決法はひとつではない。そして完璧な解決法は現実世界には存在しない。解決法はそっくりそのままの模倣ではない。忠実に模倣しても現実世界では通用しない。「AをBにせよ」という課題を社長からもらったら、そのやり方は無数にある。それを部長、課長、係長レベルである程度絞り込んで具体的な解決法に迫るのである。少なくとも環境は常に変化している。同じ解決法は二度と通用しないのである。そこには未知の分野があり、未知の分野に挑戦する意気込みが必要である。これがなければ新しい分野は開拓できないし、未来に向かっての問題解決はいつまで経ってもできないことになる。

現在の○×教育は、現実世界での問題解決法を教えていない。

 模範解答の模倣に過ぎない。下手をすると単なる棒暗記に終わってしまう。私が学生の頃は先進的な先生がいて、「受験のための暗記は必要ない。大切なのはプロセスだ。」とか「記憶や計算は将来コンピュータに任せておけばいい重要なのは考え方を身につけることだ」と指導してくれた。幸いなことにこれに忠実に従って入学試験も問題なかった。確かに暗記も必要である。文字や語句の意味や掛け算九九や化学の周期律表や基本的な定理や定数や概略の歴史の流れであり、あとは多種多様な雑学知識である。これは創造的な解決法を導き出すための知識ベースである。単なる事実を丸暗記するだけでは応用が利かない。

学校教育の内容は社会に出て役に立たないという人がいる。

 これは単に知識そのもののことを言っている。教えられた知識に基づいた問題解決法を習得することが重要であり、社会に出て役立つのはこの問題解決法である。問題が与えられたら紙と鉛筆だけでその問題を解決できる能力を身につけるのである。その身につけ方が問題である。参考書の解答を見て「解き方」を覚える人もいるだろうし、自分なりに考えて解く人もいるだろう。必要なのは後者である。しかし、受験勉強に追われている人には後者は効率が悪いし、この頃の受験問題そのものも後者を期待してはいない。よって後者は落伍者として扱われる。

数学の問題解決法も現実社会の問題解決法も同じである。

 基礎知識を身につけ、必要な情報を入手して自らの考えに基づいて問題解決の方策を見出して行く。モチーフが数学であるか現実社会であるかの差だけである。数学の問題解決法を身につけていれば現実社会の問題解決も基本的なところは同じである。変わってくるのは純粋学問としての数学と違って、社会という人間集団が拘わってくることであり、複雑な人間関係をこなして行かなければならない。しかし、この人間関係もよぉく考えてみると数学であり物理であり化学であり社会であり国語であり、これらを集大成したひとつの感性に左右されていることがわかる。

コミュニケーションも数学である。

 人間関係において、相手に与えた刺激に対する反応を見ながらこれを関数としてとらえてその人となりを理解して柔軟に対応して行くことは数学そのものである。小説家でさえ数学が必要である。考えを正確にきっちりと表現すること、ストーリーを効果的に展開すること、読者の心をきっちりとらえること、世の中の事象や人物を分析することには数学的な考え方が必要である。画家も、色、形、奥行きを平面にしかも絵の具で正確に表現することは数学そのものである。考えてみると音楽も彫刻も陶芸も立派な数学であることがわかる。「学校教育の内容が社会に出て役に立たない」と言っている人は、役立たせる方法を知らないのであり、単なる丸暗記だけで学校教育を終えた人でもある。いや、実際には潜在的に役に立っていても本人が気づいていないだけかも知れない。

世の中に「伝言ゲーム」が蔓延している。

 膨大な量の「伝言」が「情報」として飛び交っている。しかしこの「情報」は我々が行動を起こすきっかけ与えるに過ぎない。情報化社会はこのきっかけを与えられる機会が増大したに過ぎない。行動を起こすのは我々自身であり、行動を起こすに当たっては自分の意志を明確にして自分で考えて歩を進めなければならない。「右」と言われれば右を向き「左」と言われれば左を向くのでは単に刺激に反応しているだけで「思考」は欠落してしまっている。自分の「思考」が個性であり創造性であり発展・向上であり進歩である。そのような個人同士がお互いに刺激し合って組織活動、社会活動へとさらに発展してゆくのだと思う。


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