史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

上山

2012年07月01日 | 山形県
(寿仙寺)


寿仙寺


金子(与三郎)六左衛門平清邦墓

 寿仙寺には金子与三郎の墓がある。金子与三郎が歴史の水面に顔を出したのは、同じ出羽出身の清河八郎の暗殺の場面である。
 文久三年(1863)四月十三日、この日、学友金子与三郎に招かれた清河八郎は、金子の酌で酒を飲み、したたかに酔った。その帰り道、見廻組の佐々木只三郎に斬殺された。まさに策士が策に陥った典型であった。

(浄光寺)


浄光寺

 浄光寺は、上山藩主松平(藤井)氏の菩提寺で、松平家の墓地がある。


松平家墓所


官軍墳墓
菅谷友尉之墓 谷野廣年之墓

 菅谷友尉、谷野廣年ともに、上山藩の兵卒である。

(武家屋敷)


曽我部家

 上山城の西北部一帯には、武家屋敷が広がり、仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住していた。現在は、森本家、三輪家、山田家と旧曽我部家の四軒のみが往時のたたずまいを伝えている。


藩校明新館跡

 武家屋敷の一角に藩校明新館跡石碑が建っている。上山藩では、文化六年(1809)に藩校天輔館が開かれたが、天保十一年(1840)、古学から朱子学に移るにおよび、幕府儒官林大学頭により明新館と改名された。

(上山城)


上山城

 上山市街の中心部にある月岡公園が上山城跡である。城は東に前川、西に大沼、南に牛沼を配置した自然の要害であった。三層の天守閣を備えた華麗な城郭だったというが、十七世紀末に土岐氏が転封され、幕府領となるに至り、城郭の大半が破却され、そのとき天守閣も取り壊され、以来、再建されることはなかった。現在見ることができる城は、昭和五十七年(1982)に二ノ丸跡に再建されたものである。

上山藩は松平氏三万石の城下であったが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加したため、戦後三千石を減封された。幕末の藩主は、松平(藤井)信安である。


金子(与三郎)得處頌徳碑

上山城には金子与三郎の顕彰碑が建っている。得處は、金子の雅号。金子与三郎は、文政六年(1823)に上山に生まれ、藩校天輔館に学んだ後、仙台に遊学し、二十一歳の時、江戸に出て幕府の昌平黌に入った。弘化三年(1846)に帰藩して藩校明新館助講師を経て、さらに徒頭格となったが、嘉永五年(1852)全国漫遊の旅に出た。この間、清河八郎や雲井龍雄などとも親交を持ったというが、金子の意見は終始公武合体論であった。安政元年(1854)に赦されて藩に戻り、兵制、農政に画期的な治績をあげた。慶応三年(1867)十二月の三田薩摩藩邸襲撃の幕命を受けて上山藩兵の指揮をとり、その際の格闘で重傷を負い、翌日死去した。四十五歳であった。

 ここまで来たところで、今回のゴールデン・ウィークの史跡訪問は終了。本当は、このあと米沢まで行く計画だったが、降り出した雨に気勢を削がれた。結果からいえば、雨はさほどひどくならなかったので、十分米沢の史跡を回っても問題はなかった。しかし、五日をかけて秋田県内から遊佐、酒田、新庄、舟形、尾花沢、東根、河北、寒河江、大江、中山、天童、山形と巡ってきた私には、気力を補うだけの体力が残されていなかった。この五日間、毎朝四時半に目を覚まし、五時には第一目的地に着いていた。ほとんど昼食も取らずに、六時過ぎまで史跡を訪ね歩いたのである。さすがに疲労感も残ったが、一方で充実感もかみしめながら、八王子への帰途に就いた。

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山形 Ⅲ

2012年07月01日 | 山形県
(来迎寺)


来迎寺

 来迎寺にも、戊辰戦争で戦死した山形藩士の墓がある。川越祐二の墓は新たに建て替えられたようであるが、側面に戦死の経緯が漢文で記されている。


光覺院祐進川仲居士(川越祐二墓)


柘植中蔵墓

 柘植中蔵も山形藩士。慶應四年(1868)四月十一日、羽前西村山郡入間で戦死。

(長源寺)


長源寺

 明治二年(1869)五月二十日、自刃した水野元宣の墓が長源寺墓地にある。このとき水野元宣は二十七歳。


水野元宣墓

 それにしても、幕末から明治にかけて水野元宣のように「責任を負って自刃」した家老は、いったい何人いたのだろうか。第一次長州征伐の際の長州の三家老も然り、会津藩の萱野権兵衛、南部藩の楢山佐渡、天童藩の吉田大八、仙台藩の但木土佐ら、例を挙げればキリがない。逆に、責任をとって命を断った藩主は一人もいない。組織の責任をトップではなくてナンバー・ツーが取るというのは極めて日本的な責任の取り方のように思うがどうだろうか。

(豊烈神社)


豊烈神社

 豊烈神社は、水野家中興の祖、水野忠邦が浜松城内に藩祖水野忠元を祀ったのが始まりで、現在は水野忠邦ほか明治維新殉難者二十四名も合祀している。


水野三郎右衛門元宣像

 境内に建つのは水野元宣の像である。水野元宣は、天保十四年(1843)に浜松に生まれ、藩主の国替えにより四歳のとき、山形に移住した。二十二歳の若さで家老職を継ぎ、家中藩士の信頼を一身に集めた。明治維新に際して、藩主は京都に出て不在だったため、弱冠二十六歳の若き首席家老元宣に藩の舵取りを任された。戊辰戦争では、山形藩は新政府の命を受けて庄内征伐に向かったが、庄内藩の反撃にあい敗走し、戦火は山形市街地にまで迫った。当初、新政府軍についた山形藩は、奥羽越列藩同盟に加わり東北諸藩とともに官軍に抵抗した。結果的に同盟軍は降伏することになったが、元宣は「全ての責任は自分にある」と申し出て、明治二年(1869)二月、長源寺にて刑死した。

(国分寺薬師堂)


国分寺薬師堂


薩摩藩合葬墓

 山形国分寺薬師堂の広い境内の一角に薩摩藩の合葬墓がある。同型の墓が全国の戊辰戦争の激戦地に建っている。例えば、鳥羽伏見戦争の京都、上野戦争の東京、宇都宮戦争の宇都宮、会津戦争の会津、戊辰戦争で最大の戦死者を出した白河、五稜郭の戦いがあった函館など。いずれも納得感があるが、その中にあって山形は少々異質である。薩摩藩の合葬墓には、台座の部分に陶板がハメ込まれていて、そこに戦死者の名前が記されているが、当地の戦死者数はやや少な目である。白岩村での戦死者が八名(うち一名は越後高田で徴発された夫卒)、寒河江が一名、羽州長岡が一名。計十名である。
 これで全国の薩摩藩合葬墓は九つ目。あとは函館だけとなった。


宮城浩蔵先生顕彰碑

 同じく国分寺薬師堂の境内に、山形出身の宮城浩蔵の顕彰碑がある。西園寺公望篆額、中江兆民撰文。
 宮城浩蔵は、嘉永五年(1852)、天童藩の藩医の二男に生まれた。のちに宮城家の養子となり、藩校養正館に学んだ。維新後、藩命により箕作塾にてフランス語を学んだ。大学南校を経て、明治五年(1872)司法省明法寮(のちの司法省法学校)に入学し、ボアソナードよりフランス法を学んだ。卒業後、司法省留学生としてパリ大学およびリヨン大学に足掛け四年留学した。帰国後は、検事や司法省参事官などを歴任し、近代日本の法典編纂に尽力した。明治十四年(1881)、ともに司法省法学校に学んだ岸本辰雄、矢代操と協力して明治法学校(のちの明治大学)を創立した。教頭として明治大学発展の基礎を築いた。明治二十三年(1890)の第一回衆議院選挙にて当選。帝国議会では自由主義的立場から民法、商法典の断固施行を主張した。明治二十六年(1893)、病死。享年四十一。


宮城浩蔵先生(明治大学御茶ノ水キャンバス)

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山形 Ⅱ

2012年07月01日 | 山形県
(光禅寺)


光禅寺


光禅寺庭園

 光禅寺は、江戸時代初期に作庭されたという、広大な流水式庭園を持つ。ただし、流水は止まっており、池の水は淀んでいる。


小林栄之墓

 山形藩の小林栄の墓。慶応四年(1868)四月十一日、羽前西村山郡入間にて戦死。

(明善寺)


明善寺


原田喜平太墓

 山形藩原田喜平太は、慶應四年(1868)閏四月四日、羽前長崎落合における戦死者。

(大宝寺)


大宝寺


前田庄助墓


松崎竹四郎墓

 前田庄助、松崎竹四郎とも山形藩士。羽前長崎にて戦死。

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中山

2012年07月01日 | 山形県
(長崎落合口古戦場)


長崎落合口古戦場

 長崎落合口(現・中山町)は山形藩軍と庄内藩軍との激戦となった場所である。庄内軍は、舟で川を下り右岸に上陸し、更に寺津まで下って、長崎落合口で警備に当たっていた山形藩大久保隊を急襲した。寝込みを襲われた大久保伝平隊長は隊士五名とともに壮烈な最期を遂げた。

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天童 Ⅱ

2012年07月01日 | 山形県
(佛光寺)


佛光寺

 以前、息子と旅して以来、四年ぶり二回目の山形である。あの時、小学六年生だった息子は、今や高校一年生である。
 前回も天童市内を歩いたが、その時、回り切れなかった史跡が今回のターゲットである。


吉田大八守隆墓

佛光寺は、弘安元年(1278)に一行上人によって開かれ、十四世紀末に現在地に移建されたという長い歴史をもつ寺院である。本堂は文政八年(1825)の再建。
 佛光寺墓地には、吉田大八の墓がある。

(舞鶴山公園)


建勲神社

 吉田大八が自刃した観月庵の前の道を上ると、建勲(たけしいさお)神社がある。天童藩主織田信敏が、明治三年(1870)、先祖である織田信長を祀るために建てたものである。


護国神社

 建勲神社から更にその奥に、護国神社がある。この神社は、明治四年(1871)に吉田大八を祀って建立されたもので、のちに戊辰および日清日露戦争の戦死者を合祀している。本堂には人形師神保平五郎作の吉田大八木像が納められているが、隙間から覗いてみたものの、尊顔を拝することはできない。


吉田大八像

(吉田大八屋敷跡)


織田藩家老吉田大八屋敷跡

 天童市田鶴町の住宅街の中に吉田大八の屋敷があった。同じ通りに喜太郎稲荷神社があるが、そこが天童藩の陣屋跡である。

(喜太郎稲荷神社)


喜太郎稲荷神社


天童織田藩記念碑

それまで出羽高畠にあった織田氏は、国替えにより天保元年(1840)に天童に移った。急ピッチで工事が進行し、わずか一年半で陣屋を完成させ、時の藩主織田信美も入部した。
陣屋跡は現在喜太郎稲荷神社のある場所で、もう少し西側、現在奥羽本線および山形新幹線が走っている辺りが、御殿跡となる。
喜太郎稲荷神社の前に天童織田藩記念碑が建てられている。建立は大正十二年(1924)。天童織田藩の沿革と、藩公三世、十代信美(のぶかず)、十一代信学(のぶみち)、十二代信敏(のぶとし)の事蹟が記述されている。


調武館・稽古所跡

 稲荷神社の出入口付近が、調武館・稽古所跡である。この辺が陣屋の大手門に当たり、ここに北辰一刀流道場調武館と稽古所が置かれ、藩士が武術に励んだ。
 明治以降、この地には戸町役場が置かれ、引き続き天童町政の中心であった。

(梶塚勇之進戦死之地)


官軍梶塚勇之進源正繁戦死之地

 天童市蔵増は、寒河江市との市境に近い。一面さくらんぼ畑が広がるが、その中に官軍梶塚勇之進源正繁戦死之地が立つ。
 官軍の砲兵隊長だった梶塚勇之進は、相撲取りのような大男だったといい、庄内軍との戦闘でこの地で戦死した。
 この周辺も戊辰の激戦地であり、多くの民家が焼き討ちされたという。

 山形県下をドライブして何度か最上川を渡った。芭蕉が「五月雨を集めてはやし最上川」と詠んだのは有名であるが、私が目にした最上川も水量は豊富であった。これは、五月雨というより、雪解け水によるものだろう。

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寒河江

2012年07月01日 | 山形県
(陽春院)


陽春院

 寒河江市内の中心部に陽春院という寺がある。本堂の前に桑名藩士の墓がある。


桑名藩士墓

 慶応四年(1868)九月に会津若松城が攻略されると、旧幕兵は庄内藩頼りに立て直しを図った。寒河江市街から長岡山一帯は、庄内藩に合流しようとした桑名藩兵と新政府軍が衝突した戦場となった。異郷の地で命を散らした二十名の桑名藩士の墓である。


白水良次郎墓

 一人だけ墓が分けられているのは、白水良次郎である。白水は、唐津藩出身で元老中小笠原長行に従って奥羽を転戦していたが、途中から桑名藩の雷神隊に属した。やはり慶応四年(1868)九月二十日、寒河江長岡山で戦死した。

(長岡山戊辰戦役古戦場)


長岡山戊辰戦役古戦場

寒河江市街地から北西に長岡山と呼ばれる小高い山(標高百六十㍍ 平地との比高差六十㍍)がある。戊辰戦争のとき、ここでも激戦となった。
慶応四年(1868)九月二十日。この日の朝、街は濃霧に包まれた。桑名藩軍は、不意を衝かれて崩れたち、寒河江川を渡って、清川方面に逃走した。

(陣ヶ峯戊辰古戦場)


陣ヶ峯戊辰役古戦場跡

 慶応四年(1868)九月二十日、陣ヶ峰でも庄内・桑名両軍と新政府軍との激戦が交わされた。眼下に寒河江川を見下ろす、眺望の良い場所である。


寒河江川

 庄内藩が降伏するのは、この五日後の九月二十五日である。寒河江での戦争は、出羽地方における最後の戦闘となった。

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大江

2012年07月01日 | 山形県
(称念寺)


称念寺

 大江町の中心街が左沢である。「左沢」は「あてらざわ」と読む。難読地名の一つである。
 大江町左沢の称念寺には、侠客柴田小文治の墓がある。戊辰戦争がおこると、柴田小文治は、子分二百人を引き連れて庄内藩軍に合流した。


柴田小文治勝之の墓

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河北

2012年07月01日 | 山形県
(定林寺)


定林寺


勤王僧瑞林の碑

 定林寺には、勤王僧として知られる瑞林の顕彰碑がある。瑞林は、小石川伝通院の僧、水戸の徳川斉昭と親交が深かった。暗殺された清河八郎の首を引き受け、伝通院に埋葬したのも瑞林だったという。

 瑞林の碑は、親交のあった山岡鉄舟の筆による。

琳瑞和上死而在何処当住知居処否

(紅花資料館)


紅花資料館

 河北町は、最上紅花の生産および集散地として繁栄した。
 市の中心部から北西に二㎞ほどの谷地集落の中に紅花資料館がある。代々松橋村名主を務めた堀米家の屋敷を資料館としたものである。例の如く、私が紅花資料館を訪れたのは、六時前ということで、館内に入ることができなかった。


長屋門
堀米四郎兵衛屋敷跡

 堀米家は紅花商によって財を成し、六代目堀米四郎兵衛は幕末に農兵を組織して地域の治安にも貢献した。堀米家では、邸内に武者蔵を保有し、大砲や具足などを保管していた。戊辰戦争では、堀米家は旗色を鮮明にしていなかったが、庄内藩軍、新政府軍に相次いで武器を接収されることになった。
 なお、この家からヴァイオリニストの堀米ゆず子が出ている。

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東根

2012年07月01日 | 山形県
(長瀞陣屋)


長瀞城跡

 中世には長瀞城があった場所に、江戸期には長瀞藩の陣屋が置かれた。一見すると普通 の住宅街であるが、地図を見ると当時の掘割が明確に残っている。遺構としては堀や土塁を確認することができる。長瀞藩米津氏(一万石)は譜代大名であり、奥羽越列藩同盟に参加したため、新政府軍に攻められ陣屋は全焼した。

(長源寺)


長源寺 陣屋から移設された大手門

(禅会寺)


禅会寺 陣屋から移設された大手門

 長瀞陣屋から移築された大手門というのが、東根には二つ存在している。長源寺と禅会寺の総門がそれである。しかし、大手門が複数あったわけもなく、どちらかが偽物らしい。敢えて答えを出さない方が良い問題かもしれない。

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尾花沢

2012年07月01日 | 山形県
(念通寺)


念通寺


入江為積の墓

 安政二年(1855)、京都から、勤王派を結集させるという目的で東北に出向いた入江為積は、出羽尾花沢の念通寺にたどり着いたところで客死した。念通寺に入江為積の小さな墓がある。

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