史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東海 Ⅱ

2020年10月17日 | 茨城県

(泉福寺墓地)

 泉福寺の墓地をようやく探し当てた。舟石川の泉福寺からは約二・五キロメートルも離れていて、泉福寺の周囲を探していたのでは見つけようがない。場所は国道6号線の石神小入口交差点近くである(東海村石神外宿1590付近)。路線バスも走っておらず、JR東海駅から行きはタクシーを利用するしかない。帰りは徒歩で五十分を要した。墓地改修記念碑によれば黒澤家の墓所は、明治初年まで願船寺(東海村石神外宿1047)にあったが、泉福寺墓地に移され、昭和五十九年(1984)に至り、現状のとおり改修整備されたものである。

 

黒澤家代々之墓

(黒澤覚蔵の墓)

 

 泉福寺墓地に入ると左手に黒澤家の広大な墓地がある。覚蔵の父覚衛門は石神外宿で山横目を務める家で、実兄覚助も水戸天狗党員として活躍した。一族には尊攘派の志士が多く、元治元年(1864)の天狗党の乱では、多くの殉難者を出した。村は「石神勤王村」と呼ばれた。

 覚蔵は高橋多一郎の信任が厚く、桜田事変の際には常に多一郎に従って行動した。水戸から結城街道、中山道に沿って西上し、四天王寺で高橋父子が幕吏に追われた時、たまたま覚蔵はその場にいなかったため難を逃れた。以後の行動は不詳。明治になってこの時の記録を「黒沢覚蔵覚書」として著わした。

 黒澤家墓地の奥から三番目の墓地の墓誌の先頭に「黒澤覺蔵 明治二十二年六月十七日歿 行年七十一才」とある。

 墓誌には名前が見えないが、向かって左奥の古い墓石「黒澤亀太郎君墓」は、覚蔵の長男亀太郎のもの。天狗党の争乱において、元治元年(1864)九月九日、久慈郡島村にて戦死。

 

黒澤家之墓(覚衛門・覚助の墓)

 

 黒澤家墓地の一番右奥(覚蔵家の一つ置いて右隣)が、覚蔵の父覚衛門と兄覚助の墓である。

 黒澤覚助は、文政二年(1819)の生まれ。長じて会沢正志斎に学び、天保中土地境界の改正を行うや、横目格郷士列となり、与って功績があった。弘化元年(1844)、藩主斉昭が幕譴を蒙ると、父覚衛門、弟覚蔵とともに雪冤に奔走し、罪を得て父子三人投獄され、三年を経て赦された。安政の初め、職務・家格ともに回復し、小十人組列に進んだ。安政五年(1858)からの藩難には衆を指導して江戸に向かい、藩邸に意見を呈した。元治元年(1864)の内戦には松平頼徳に従って那珂湊に拠って城兵と闘い、のち佐貫に禁錮され、翌慶應元年(1865)、処刑された。年四十七。

 傍らの墓誌によれば、「黒澤覚衛門 嘉永二年一月四日歿 行年五十六才」「従五位 黒澤覚助 慶應元年四月三日歿 行年四十九才」とある。

 

覚衛門黒澤君墓

 

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