史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小田原 栢山

2010年10月13日 | 神奈川県
(小田原駅 二宮尊徳像)
 小田原は、偉人二宮尊徳を生んだ土地である。駅前に薪を負って本を読む見慣れた尊徳像が置かれている。私の子供の頃、この尊徳像は日本全国の学校に当たり前のように見られたが、いつの間にか数が減ってきたように感じる。それとともに日本人の勤勉さも翳りを生じているような気がしてならない(うちの子供たちを見ているからだろうか)。地元小田原の小学校には、負薪読書像は健在である。


小田原駅前 二宮尊徳像

(小田原市尊徳記念館)
 小田原駅から小田急小田原線各駅停車に乗って四つ目の駅が栢山(かやま)である。ここが二宮尊徳の出世地である。駅でいうと一つ手前の富水で下車する方が近い。徒歩十五分程度で小田原市尊徳記念館に行き着く。


二宮先生誕生地碑

 記念館には二宮尊徳の生家が復元保存されている。この家で、二宮尊徳(幼名金次郎)は天明七年(1787)に生まれた。その後この家は他人の手に渡り、場所もほかに移されたが、明治四十二年(1909)当地を訪れた真珠王こと、御木本幸吉が買い戻して整備した。生誕の地に移築されたのは、昭和三十五年(1960)のことである。


二宮尊徳誕生の家

 生家は土間とその奥に座敷など生活空間が広がり、当時の典型的な中流農家の家屋となっている。尊徳は幼くして父母と死に別れ、一家離散の苦境に陥った。家財、諸道具、更には住居まで売って金に換えたといい、その時、この家屋も人手に渡ったものといわれる。


二宮尊徳誕生の家 内部


尊徳先生誕生遺蹟之碑

 生家の周りには二つの石碑が建てられている。一つは、生家の保存に尽力した御木本幸吉の事績を記した尊徳先生誕生遺蹟之碑。もう一つは貧富訓碑である。


回村の像

 生家前には、早朝から夜まで農村を回って指導し、貧しい村々を建て直すために先頭に立つ尊徳の姿を再現した回村の像が建てられている。二宮尊徳は身長百八十㎝を超える巨漢だったと伝えられる。尊徳は死の直前まで村の復興支援に奔走したが、精力的な活動を支えた影には、頑健な身体があった。

(善栄寺)


善栄寺

 栢山の善栄寺は、二宮尊徳の菩提寺である。尊徳の墓のほか、勉学に励む少年二宮尊徳の像がある。


少年勉学の像

 少年勉学の像の台座には、「積小為大」(小を積んで大を為す)という文字が刻まれている。幼くして両親と死別した尊徳は、伯父万兵衛に引き取られたが、夜遅くまで書物を読んでいると、行燈の油を無駄に使うなと伯父に咎められた。そこで尊徳は友人から菜種を借りて、それを蒔いて翌春使いきれないほどの油を回収した。これが「積小為大」の言われである。


誠明院功譽報徳中正居士
(二宮尊徳の墓)

 二宮尊徳は、安政三年(1856)十月、日光神領における復興仕法中、生涯を閉じた。この時、実弟三郎佐衛門(幼名友吉)が、遺髪と遺歯を抱いて故郷に帰り、善栄寺二宮総本家の墓地に葬ったのがこの墓である。
 なお、亡くなった今市の報徳二宮神社、更には東京吉祥寺にも墓がある。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小田原 Ⅱ | トップ | 「水戸の先人たち」 水戸市... »

コメントを投稿

神奈川県」カテゴリの最新記事