史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「佐賀の幕末維新 八賢伝」 福岡博著 出門堂

2013年11月23日 | 書評
著者は、佐賀県立図書館に四十年勤務の後、佐野常民記念館の名誉館長、佐賀県高齢者大学非常勤講師などを兼ねる、佐賀藩の熱心なサポーターである。この本も佐賀藩に対する愛情にあふれている。
本書は、小学校高学年から高校生を対象としており、漢字には全てフリガナが付けられている。したがって内容は平易であるが、幕末から明治にかけての佐賀人(特に八賢人)の活躍を遍く描いている。幕末の佐賀藩の動向を学ぶ入門書としても十分な内容である。
幕末の佐賀を語るとき、藩主鍋島閑叟(直正)の存在を抜きに語ることはできない。カリスマ性という意味では、あるいは薩摩の島津斉彬や水戸の斉昭の方が上かもしれないが、維新まで生き抜いて藩を引っ張ったという意味では閑叟に軍配が上がる。熱心に洋学を振興したという点では宇和島の伊達宗城も負けていない。しかし、人材の育成という観点でいえば、佐賀の弘道館の歴史は長い。佐賀藩では、閑叟が藩主を継ぐ五十年近く前に藩校を開設している。人材の育成には長い年月が必要である。幕末に至って佐賀の人材が花開いた底流には、長年にわたる教育熱が存在していた。
佐賀にも、土佐勤王党のような一つ間違うと討幕勢力となりうるグループがあった。枝吉神陽が主催した義祭同盟がそれである。だが、佐賀藩が土佐と異なったのは、藩主が強烈に藩士を統御しながらも、政治的には無色であったことであろう。一時期、江藤新平が脱藩して政治活動に走ったことがあったが、基本的には藩士はよく統制されていた。
幕末の政局に佐賀藩はほとんど登場しなかった。つまり、薩長土三藩とは比べものにならないくらい血を流すことは少なかった。それでも明治新政府には有能な人材を送り込んで、存在感を示した。それが「七賢人」と呼ばれる人たちである。七賢人とは、鍋島閑叟、島義勇、江藤新平、大木喬任、佐野常民、副島種臣、大隈重信のことをいう(これに枝吉神陽を加えて、八賢人と呼ぶ)。
新政府の要職を独占した薩長両藩も、佐賀人の持つ(特に西欧に関する)卓越した知識、実務能力、構想力に頼らざるを得なかったのであろう。全国三百藩の全てが佐賀藩のようであれば、維新は成らなかっただろうが、佐賀藩のような存在があったから、維新が成ったのもこれまた事実である。

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