史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 会津若松駅周辺 Ⅱ

2018年12月02日 | 福島県
秋分の日の三連休、例年会津若松では会津祭りが開かれる。「戊辰掃苔録」の竹様より、今年の会津祭りの際、会津ゆかりの方や歴史好きの方々が集まるので一緒にどうですかとお誘いを受け、参加することにした。実に九年ぶりの会津である。
竹様とは、十年ほど前にネットを通じて知り合い、以来情報を交換させていただいているが、実際にお会いするのは今回が初めてである。同行された奥様も竹様に負けず劣らずの歴史(特に会津と庄内)好きで、普通の女性なら端から敬遠するような、山の中の墓地なども喜々として付き合ってくれる。実に良い伴侶を選ばれたものである。
奥様の庄内藩への思い入れは相当なものである。私も自分の足腰が大丈夫なうちに、庄内藩兵が越えたという鳥海山頂の大物忌神社を訪ねたいと思っているが、実現は容易ではない。奥様はアイゼンを着用して残雪を踏んで大物忌神社を訪ねたというから恐れ入る。
予てより竹様の探墓力には敬服していたが、今回同行して益々もって感心した。事前に書籍や資料をあたって目星を付けるのは常套手段として、竹様が「ローラー作戦」と称する方法で、要するにその墓地の墓石を一つひとつ確かめるという、気が遠くなるようなやり方で、時には日に1個新しい発見があるかないか、というような地道な作業を通じて、戊辰殉難者の墓を発見し続けているのである。それにしても凄まじい執念である。面白いことに、竹様は戊辰戦争には異常なほどの執着をもっているが、それ以外の歴史にはほとんど興味がないという「偏食家」である。長年にわたって戊辰殉難者の墓を探し求めて歩いてきて、未だに全てを探しつくしていないので、とてもでないが他に手を出せないということらしい。
この連休期間中、史跡巡りに同行いただいたのはもう一人、都内在住のSさんである。Sさんは竹様から「師匠」と呼ばれるほど、歴史に造詣が深く、しかも興味の対象は、幕末にとどまらず戦国時代までと幅広い。探墓巡礼会という組織に属して、マニアックな掃苔活動をされている。まさに師匠と呼ぶに相応しい方である。

今回は二日半にわたって竹様に会津若松とその周辺の史跡(といっても、ほとんどが戊辰戦死者のものだが)をご案内いただいた。会津地方の掃苔の旅で、望んでもこれ以上の案内人は存在しないだろう。私は金曜日の夜に会津入りしたが、竹様ご夫婦は土曜日の早朝、拠点である仙台を出て到着は朝の八時過ぎになるという。それまでの間、約二時間余り、歩いて行ける範囲で市内を歩いた。融通寺、常光寺、鈴木屋利兵衛商店を経由して自在院、清林寺、但心寺まで歩いたところで、竹様より電話が入った。「今、但心寺の前にいます」と伝えると、それだけで場所が分かってしまうほど、この人の頭の中には会津若松市内の地図が刷り込まれている。会津に住んでいる人でもここまで精通している人は少ない。

連日宴会があり、竹様のお声掛けで集まったメンバーには会津藩士の子孫の方や熱心な新選組フアンの方、会津好きが高じてそのまま会津に移住してしまった女性や、横山主税が好きでその余り横山主税が宿泊したホテルに泊まるという目的だけでパリに旅行した人とか、一般人には理解不能な人間が大勢集まった。皆さまと比べれば、私は特に会津藩に傾倒しているわけではないのだが、それでも仲間として受け入れていただいた。会社の飲み会で「昨日は一日谷中霊園に入り浸っていました」など告白すると気味悪がられるだけであるが、波長が合う人ばかりという宴会は実に楽しいものであった。

(融通寺つづき)

 駅前のビジネスホテルに宿をとった私は、初日の早朝、六時前に出発して市内の史跡を回った。最初の訪問地は融通寺である。


慈光院常譽忠勇居士(長谷川栄助の墓)

 長谷川栄助は、六石二人扶持。慶応四年(1868)八月十五日、越後赤谷にて戦死。四十三歳。


武藤英惇墓

 武藤英惇(「幕末維新全殉難者名鑑」では英淳)は医師。朱雀士中四番町野隊付。慶應四年(1868)九月五日、会津小田村にて自刃。五十一歳。


勇心院顯譽忠立居士(小池源五郎の墓)

 墓碑によれば、小池源五郎は慶應四年(1868)八月二十四日、戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。

(実成寺)

 実成寺墓地の一番奥に梶原家の墓域がある。幕末、会津藩の若年寄、家老として活躍した梶原平馬の一族である。一際大きな墓石は、平馬の父梶原景保のもの。


梶原景保之墓


梶原家墓地

(威徳院)


威徳院


稽古堂阯

 大町威徳院の前に稽古堂跡と記された石碑が建てられている。会津藩校といえば日新館が有名であるが、寛文四年(1664)、会津藩教育の祖といわれる儒学者・横田俊益の提唱によって開設された学問所である。当初、若松桂林寺町の北に建てられ、武士や庶民の身分に関係なく多くの人々が通い、講義に耳を傾けたという。武士と庶民の教育を目的とした学校としては、全国で最も早い時期につくられた学校といわれる。その後、三代藩主松平正容(まさかた)のときに、藩士教育のための新たな学問所(後に日新館へと発展)がつくられると、稽古堂は「町講所」と名称を改め甲賀町に移されて、主に庶民の教育を目的とした場所に変わっていった。

(常光寺)


常光寺


梅宮家之墓(梅宮源蔵の墓)

 梅宮源蔵は、十二石三人扶持。軍事方世話役。慶応四年(1868)八月十六日、若松城にて戦死。


澤田家之墓(澤田鉄右衛門安久の墓)

 傍らの墓誌によれば、澤田鉄右衛門は慶應四年(1868)八月二十三日、若松戦死七十九歳とある。相当な高齢であるが、勇ましく戦って亡くなったということだろうか。同じ墓に鉄右衛門の長男治助も葬られている。治助は慶應四年(1868)九月二十日、城中にて戦死。五十一歳とある。こちらも結構な年である。

 中条茂平は、「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とあるだけで没年月日は記されていないが、墓石には慶應四年(1868)八月二十三日という日付が刻まれている。


中条茂平の墓

(滝谷建設工業会津若松店)
 滝谷建設工業株式会社会津若松店の建物は、昭和二年(1927)に旧郡山橋本銀行若松支店として建てられたもので、その後、新潟に本店のある第四銀行会津支店となっている。
 この場所で、新島八重の夫新島襄が明治十九年(1886)に布教活動を行っている。


滝谷建設工業

(鈴木屋利兵衛商店)
 鈴木屋利兵衛商店は会津漆器や民芸品を売る店であるが、戊辰戦争では西軍の基地として使用され、その際に残された刀痕が今も店内の大黒柱に見ることができるという。例によって、私がここを通過したのが午前七時半で、営業時間前だったため店内を見ることはできなかった。


鈴木屋利兵衛商店
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