史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

武生 Ⅱ

2018-10-20 18:25:42 | 福井県
(渡辺洪基生家跡)


渡辺洪基生家跡

 渡辺洪基の生誕の地は、善光寺商店街の中にあり、サロン洪悠(今一つ何の店なのかよく分からない)という店になっている。
 善光寺商店街では、渡辺洪基という地元が生んだ「無名の偉人」を、商店街をあげて顕彰している。非常に素晴らしい。

(龍泉寺)
 龍泉寺は、武生領主本多公の菩提寺であり、歴代の当主の墓が並ぶ。


龍泉寺


本多副昌墓

 本多副昌(すけまさ)は、寛政六年(1794)の生まれ。文政三年(1820)、家督を相続して府中二万石の領主となった。安政三年(1856)、隠居して家督を嫡男富恭に譲った。元治元年(1864)、没。享年七十一。


本多副元墓

 本多副元(すけもと)は弘化二年(1845)常陸国府中藩の家に生まれた。福井藩筆頭家老本多家に養子に入った。元治元年(1864)の天狗党の騒乱に際しては、鎮圧のため出兵して功があった。維新後、本多家は陪臣であったため、華族ではなく士族とされ、これを不服とした家臣や領民が本多家の家格回復を訴えて暴動に発展した(武生騒動)。この騒動では従五人の獄死者を出し、少なからぬ犠牲を友乗ったが、明治十二年(1879)、華族に列せられ、明治十七年(1884)には男爵に叙された。明治四十三年(1901)、没。


本多副恭墓

 傍らに副元の子で、本多男爵家を継いだ副恭(明治十年(1877)~昭和十九年(1944))の墓がある。


護墳之碑

 護墳之碑は、明治維新後、本多家に忠誠を誓った旧家臣らの碑。明治六年(1873)建立。


成仁碑

 明治三年(1870)の武生騒動後、本多副元は華族に昇格した。副元がこの騒動で犠牲になった藩士十五名を哀慕するために建てたのが、成仁碑である。


西南戦死碑

 明治十年(1877)、西南戦争にこの地より出征し戦死した九名の慰霊碑である。


耕雪松井翁碑

 松井耕雪は文政二年(1819)の生まれ。父は豪商松井六右衛門。代々刃物を家業とする家を継ぎ、学問を好み儒学・詩文・書画に長じ、先代来の蔵書家でもあった。教学の不振を嘆き、私財三百両を福井藩に献じて藩校立教館を設け、良師を招き経常費の一部も負担した。つとに産業開発に意を用い、長崎に使して帰ると、万延元年(1860)、府中製産役所を興し、松村友松と協力して蚊帳、打刃物の特産物の輸出に尽くした。なお横井小楠、由利公正らと殖産興業を図るなど士魂商才の傑物で、岩倉具視に経済国策を献言し、松平春嶽もその寓居を訪れて清談を楽しんだ。廃藩置県後、敦賀県権大属となった。明治十八年(1885)年六十七で没。
 

河島漣三翁之碑

 河島漣三は天保五年(1834)、美濃の倉村に生まれ、明治初年、縁あって武生に来住。手広く商業を営む傍ら、任侠の人として知られた。明治二十年(1887)頃、百名を超す芸妓連の組合設立の気運が高まると、率先してことにあたり、幾多の困難を排して組合を設立させた。組合有志が氏の徳を頌するため、明治二十五年(1892)、武生を訪れた由利公正子爵に碑文の揮毫を乞い、この碑を建立した。河島漣三は明治三十一年(1898)、六十五歳にて没。

(藤垣神社)


藤垣神社


堀江徳山碑

 藤垣神社は、初代府中城主本多伊豆守富正を祭神とする神社である。境内にある堀江徳山碑は、武生騒動で処刑された堀江徳山(米屋庄八)を顕彰するものである。
 武生騒動は、明治三年(1870)、武生を舞台に発生した暴動である。府中城主本多家は、越前福井藩の陪臣として幕府から大名格の処遇を得てきたが、明治政府が制定した華族制度では、当主の本多副元が華族でなく士族とされた。このことを不服とした旧家臣や町民が行動を起こし暴動に至り、松村友松ら豪商らが襲撃され、多くの捕縛者がでた。
 明治四年(1871)一月、投獄中の堀江徳山(米屋庄八)に騒動の発起人として、また箒屋末吉と浜屋仁三郎には火付けの犯人としてそれぞれ斬罪が言い渡され、同年二月に処刑が実行された。米屋庄八は無実であったにもかかわらず、罪を一身に背負い騒動の主謀者として処刑されたという。


厳霜烈日

 厳霜烈日碑も武生騒動関係の碑である。
明治七年(1874)十月、旧家臣として武生総合の犠牲者となった竹内團、大雲嵐渓両名の為、松本晩翠(竹内の兄)、斉藤修一郎(大雲の甥)が、本多家の庭石を貰い受け、谷口安定による「厳霜烈日」なる書を刻んだ哀悼碑を藤垣神社境内に建立した。

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