史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三国 Ⅱ

2018年10月20日 | 福井県
(金鳳寺)
 金鳳寺は、永正年間(1504~1520)に龍雲寺二世東木長樹大和尚によって開山された曹洞宗禅寺である。現存する建物は、文政十二年(1829)、朝倉氏の後裔東郷中嶋城主十六代中嶋信晴により再々建立されたものである。三国湊を見下ろす高台を日和山と呼び、そこに立つ金鳳寺にて江戸中期に俳諧に親しむ有力商人たちが日和山吟社を結び、諸国の文人墨客とともに風雅を愛したところであった。境内に島雪斎の墓や日和山吟社由来碑などが立ち並ぶ。


金鳳寺


嶋雪斎墓


日和山吟社由来碑

(内田家)


内田本家跡

 内田家の祖は朝倉氏の家臣と伝えられ、元禄十六年(1703)に三国湊に来住。屋号を室屋(むろや)と号し、廻船業を営んで財を成し、三国湊において要職を務めた。中でも六代目惣右衛門は、天保の大飢饉に際して三国神社の造営整備事業を主唱実行した。窮民救済の功績は永く称えられた。現在、屋敷は一切残っておらず、庭にあったとされるタブノキがその面影を伝えている。

(川口御番所跡)


川口御番所跡

 川口御番所は、正保元年(1644)、町端から丸岡藩滝谷出村との地境の現在地に移転した。口留御番所ともいわれ、福井藩が三国湊に出入する貨物を監視するために置いたものである。出入の貨物には種類により銀高に口銭一分から三分を課して、三国湊の港湾機能に関わる特権を独占した。文久元年(1861)には地境の川端へ建て替えられた。

(港銭取引所跡)


港銭取引所跡

 九頭竜川河口の水深を確保するために明治十一年(1878)に始まった三国突堤工事は、厳しい怒涛に難渋を究めたが、工事費捻出のため明治十三年(1880)十二月に開港式を挙行して、以来明治二十三年(1890)まで入港する船舶から湊銭を徴収した。工事が一応の完成を見たのは、明治十八年(1885)のことであった。管理事務所が置かれた場所に石碑が建っている。

(瀧谷寺)


瀧谷寺

 瀧谷寺(たきだんじ)は、永和三年(1377)、紀州根来寺の学頭睿憲(えいけん)上人によって開かれた。中世以来、豪族堀江氏をはじめ、朝倉氏、柴田氏、福井藩、丸岡藩と歴代領主の祈願所として厚い帰依と保護を受けた。


当山四十三世道雅の墓

 開山堂の前に歴代住職の墓があり、その中に道雅の墓がある。
 道雅は、文化九年(1812)、京都で生まれた。初め洛東の智積院にいて、安政三年(1856)、三国湊の瀧谷寺の住持となった。在京のころ、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲濱らと交わり、尊王攘夷を説き王政復古に尽くした。儒学は陽明学を排し朱子学を奉じて、孟子の影響を受けたが、日本の歴史を論じて極力尊王斥覇に椽大なる筆を振るった。清国の対英政策の失敗に鑑み、外国貿易には反対であった。自由民権論者杉田定一はこの門下に学び、感化されることが大であった。慶応元年(1865)年、五十四で没。


蓮池(雲浜遺蹟)

 瀧谷寺山門前の蓮池は、梅田雲浜ゆかりの地と呼ばれている。道雅をたずねて雲浜や梁川星巌が瀧谷寺を訪れている。別れを惜しんだ雲浜が、蓮池で杯を傾けたと伝わる。

(丸岡藩砲台跡)


丸岡藩砲台跡


砲眼

 三国湊から北に進むと自殺の名所として有名な東尋坊、さらに北上すると松島水族館がある。日本でもっとも美しい海岸線である。ことに日本海に沈む夕日ほど美しい光景はない。
 松島水族館から五百メートルほど東へ行くと、丸岡藩砲台跡がある。
 幕末、外国船が日本近海に現れると、幕府は諸藩に砲台築造を命じた。この砲台も、嘉永五年(1852)に丸岡藩が沿岸警備のために築造したものである。
 現存する砲台跡は、海に向かって五つの砲眼が開いている。構造的には、内側と側面は石を積み、外側を土砂で固めるという二重構造となっており、敵の砲撃からの防御性を高めている。丸岡藩砲術家の栗原源左衛門が設計し、築造は砲台築造奉行の原貞熈が中心となって築造した。

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