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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

彦根 Ⅲ

2013年02月02日 | 滋賀県
(彦根城)


遠城謙道師之碑

 再び彦根の街を歩いた。彦根には未踏の史跡が残っていた。
彦根城井伊直弼像の背後に遠城謙道の顕彰碑がある。遠城謙道は、旧彦根藩士。通称を遠城平右衛門といった。井伊直弼の死後、僧となって墓守となる決意をし、井伊家の菩提寺清凉寺俊竜和尚の元で仏門に入り、名前も謙道と改めた。慶応元年(1865)、妻と六人の子供を彦根に残して、豪徳寺(世田谷区)に移って、直弼の墓のそばに庵を立て、生涯を掃墓、読経に捧げた。

(蓮華寺)


蓮華寺

 蓮華寺には、十七歳で郡上藩凌霜隊長を務めた朝比奈茂吉の墓がある。


椋原義彦墓

 戦後、会津藩に加担した凌霜隊員は罪人として扱われた。処刑は免れたものの、藩では冷遇されたため、元隊員は次々と藩を出た。朝比奈茂吉も父藤兵衛の実家、井伊彦根藩家老椋原家の養子となり、名を椋原義彦と変えた。墓石も椋原義彦と刻まれている。

(金亀会館)


金亀会館

 彦根藩の藩校弘道館は、寛政六年(1794)、十一代藩主井伊直中の下で開設決定され、同十一年(1799)に開校したものである。当時は稽古館と称したが、天保元年(1830)十二代藩主直亮によって名称を弘道館と改められた。明治四年(1871)の廃藩置県まで存続している。
 弘道館は、現在の彦根西中学校辺りにあったが、講堂を移築して現在金亀(こんき)会館として利用されている。唯一の弘道館遺構である。
 この建物は、大正十二年(1923)に移築されたもので、その際書院棟部分が新築されたと見られる。

(長野義言屋敷跡)


長野義言屋敷跡

 立花町のNTTの裏に長野主膳義言の屋敷跡の石碑がある。

(城山地蔵尊 義言地蔵尊)


城山地蔵尊 義言地蔵尊


牢屋跡 長野義言・宇津木六之丞 斬首之処

 城町郵便局の向かい側にある義言(よしこと)地蔵尊は、文久二年(1862)八月二十七日に長野主膳がこの地で斬首された後、門人中村長平によって建立されたものである。
 この周辺は旧藩時代に牢屋があったため、かつて牢屋町と呼ばれていた。
 宇津木六之丞(景福)も、長野主膳と同様、井伊直弼のもとで将軍継嗣問題や安政の大獄の処理に活躍した人である。井伊直弼が暗殺された後も藩主側役として仕えていたが、文久二年(1862)、藩論が尊皇攘夷に転換されると、突如として禁固、斬首された。五十四歳であった。

(京町)


維新史蹟 米惣騒動百姓一揆之跡

 「米惣」とは米屋惣七のこと。明治三年(1870)、彦根は悪天候が続き米も不作であった。その上、台風が直撃し堤防が決壊したため、家々が押し流された。「米惣が池に汚物を投げ込んだから、池の龍が怒った。それも米の値段を釣り上げて金儲けを企んだからに違いない」という噂が領民の間で広がり、これを信じた領民数百人が惣七の店に押しかけて屋敷や家財道具を打ち壊した。のちに犯人は捕らえられ処刑された。

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