史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

猪苗代

2009年09月06日 | 福島県
(猪苗代城跡)


亀ヶ城址

 猪苗代城(別名亀ヶ城)は、十二世紀末、猪苗代氏によって築城され、以降十四代にわたって猪苗代氏の居城となった。天正七年(1589)伊達政宗によって会津の葦名氏が駆逐されると、猪苗代氏もこの地を離れた。江戸時代になっても城は破却されることなく、城代が置かれた。幕末の城代は高橋権太夫。八月二十二日、母成峠が敗れ、西軍が猪苗代城下に殺到すると、高橋権太夫は城に火を放って若松へ逃れた。その際、建物は全て焼失してしまった。


亀ヶ城址公園

(西円寺)


西円寺

 西円寺本堂の前に、八月二十一日の戦闘で戦死した土佐藩中島與一郎と、勝軍山台場攻防戦における戦死者二十九名の墓がある。中島與一郎は土佐藩砲隊に属し、母成峠における激戦で落命した。二十八歳であった。
 一方の勝軍山戦死之墓には、東軍の戦死者二十九名が葬られている。勝軍山台場は、東軍にとって母成峠における最後の防御線であったが、奮戦空しく突破された。


勝軍山戦死之墓


官軍 土藩 中島與一郎光尹墓

(母成峠)
 猪苗代から母成峠を経て本宮に向かうドライブは実に爽快であった。真夏というのに母成高原の気温は二十度を下回り、窓を開けてもエアコンが効いているような錯覚に陥った。

 母成峠は、会津若松への進入口の一つであった。西軍がどこから攻めてくるか、城を守る会津方にはもっとも重大な問題であったが、攻める西軍内にも議論があり、薩摩の伊地知正治が最短距離である母成峠から猪苗代を経るルートを唱えたのに対し、慎重を期す土佐の板垣退助は御霊櫃峠から中地三代を経由して会津に至る湖南ルートを主張した。両者議論を譲らず、結局両道からの二方面攻撃に決したが、兵力分散を心配した長州藩の調停により、母成峠を攻めることに絞られた。母成峠攻めは、最終的には、会津藩の防御がもっとも手薄だという情報を探知した伊地知正治の強い主張が通った結果となった。
 一方、守備側は越後口、勢至堂口、大平口など複数の戦線を有していたため、兵力の分散を強いられた。母成峠には大鳥圭介の伝習隊を始め、猪苗代城代隊、仙台藩二小隊、二本松二小隊、合わせて八百を配置したが、これに対する西軍は三千。これを三隊に分けて進軍し、奮戦する同盟軍を側面から攻撃した。八月二十一日の両軍の戦闘は七時間に及んだが、東軍は五十八名の戦死者を残して猪苗代方面に敗走した。


戊辰戦役 母成峠古戦場

 母成峠古戦場の石碑がある場所から少し離れた、自然植生観察園「万葉の庭」駐車場入口付近の広場に東軍殉難者慰霊碑、西郷頼母歌碑などが建立されている。


戊辰戦役 東軍殉難者慰霊碑

 八月二十一日の母成峠の戦いの戦死者の遺体は、その後埋葬することが許されず、放置されていた。これを見かねた近くの人たちが、西軍の目を盗んで遺体を集め、埋葬したという。その後長らくこの場所は、雑草に覆われ所在が分からなくなっていたが、百十余年が過ぎた昭和五十三年(1978)地元史研究会の手により発見された。以来、毎年この場所で慰霊祭が執り行われている。昭和五十七年(1982)には慰霊碑が建てられた。


西郷頼母歌碑

 西郷頼母は、会津戦争後長らく会津を離れていたが、明治二十二年(1889)四月、阿弥陀寺で行われた会津藩殉難者慰霊祭に招かれた。そのときの喜びを詠んだ詩である。

なき魂も恨みは晴れてけふよりは
ともに長閑く天かけるらん

 この石碑は、西郷家の親籍であり、母成峠の戦争に参加した小森一貫斎の曾孫である小森昌子氏が昭和五十九年(1984)に建設したものである。


東軍殉難者埋葬地


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