史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「軍艦奉行木村摂津守」 土居良三著 中公新書

2018年03月31日 | 書評
この本も平成六年(1994)に発刊されたもので、今では書店の店頭では見ることができない本である。神保町の古書店街を半日歩いてこの本を見つけ、たったの二百五十円で手に入れた。
木村摂津守喜毅(維新後隠退して「芥舟」と改名)は、譜代の旗本で、三代前から浜御殿奉行を世襲する家に生まれた。浜御殿は「浜離宮恩賜公園」として現存している。家禄は二百俵というから、決して裕福とはいえないながら、将軍が浜御殿に来園した折には近くに侍し、園内の能楽堂で将軍自らが能を舞うことがあれば、本来高級官僚しか拝見できない場に立ち会うことが許された。
筆者には、「身の廻りに「いいもの」「ほんもの」を多く見るうちに「にせもの」「好い加減なもの」を見分ける直観力が自然に養われ、彼の人物鑑識眼に繋がったのではないか。」としている。
安政六年(1859)十一月、木村喜毅はアメリカ渡航を命じられる。この使節団は新見豊前守を正使、村垣淡路守を副使、小栗豊後守を目付とするもので、木村は副使として三名に万が一のことがあったとき代行する役目を負っていた。このため別船(咸臨丸)で渡航することとなった。
喜毅の「人物鑑識眼」が発揮されたのが、咸臨丸乗員選考の場面であった。喜毅は、通訳として中浜万次郎、航海案内人としてアメリカ人ブルックを同乗させた。恐らくこの二人無くして、咸臨丸の太平洋横断の成功は覚束なかったであろう。
木村喜毅は、出発までの短期間のうちに三千両という大金を用意している。三千両といえば、現在価値に直せばざっと三億円という金額になる。筆者は、喜毅が家財を処分してこの大金を用意したと推測している。幕府からは別途七千六百三十四両が「咸臨丸往復の節諸品買入代見積」として支給されているが、この公金にはほとんど手を着けず、帰国後返金している。
メア・ランドで咸臨丸の修理が完了したとき、無事帰国して浦賀に入港したとき、時々に応じて現金で乗員に褒美が下されているが。これも全て喜毅の手元から出ている。福沢諭吉などは、木村喜毅を生涯の恩人として慕っているが、こういうことが自然にできる人で、特に部下からは慕われる人柄だったのであろう。
本書でもっとも面白かったのは、木村喜毅、勝海舟、福沢諭吉の三者がそれぞれをどのように評価しているのかを解説している最終章であった。
福沢諭吉が「痩我慢の説」で勝海舟(と、榎本武揚)を痛烈に批判したことは広く知られているが、勝海舟が編纂した「海軍歴史」において、あたかも海軍創設の功を独り占めしているかのような書きっぷりが余程気に入らなかったのであろう。福沢は木村喜毅が残した「三十年史」の序文や時事新報の社説で、木村喜毅の日本海軍における功績や咸臨丸航海の成功を強調した。その裏には、勝が木村の功績を横取りしているという怒りがあったからである。
一方、木村喜毅は、咸臨丸艦長勝海舟の我がままに相当手を焼いたはずである。海舟がヘソを曲げて、太平洋の真ん中で「俺は帰るからボートを下せ」と命じたとか、サンフランシスコの港に入る時に揚げる将官旗のことで、木村家の家紋ではなくて将軍家の三葉葵にするようにゴネたとか、この手の逸話には事欠かない。当の喜毅は「ホントに困った」と述懐しているが、このことで木村が海舟を恨んだり、憎んだりした形跡はない。喜毅は、海舟の不平、癇癪の原因が彼の真の実力と比べて不当に低いその身分にあり、七つ年下の喜毅がその門地故に副使にして軍艦奉行となり、俸禄も自分の十倍もあるというところにあることをよく理解していた。決して海舟のことをけなしたり、蔑んだりもしていない。まさに大人の対応であった。
咸臨丸一行がサンフランシスコに到着した際、現地の新聞記者が取材に殺到した。木村喜毅のことを「一見しただけで温厚仁慈の風采を備えた人物」「頭上より足の指先に至るまで貴人の相貌あり」と評した。言葉は通じなくても、彼の高潔な人柄は現地の人に伝わったのであろう。
江戸に戻った木村喜毅は、井上清直とともに軍艦奉行を拝命する。木村は満を持して「大海軍計画」を建議した。この計画は、日本全国を六つに分割して、各拠点に軍艦・兵員を常備するものである。日本を六つに分ける案は、明治に入って大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の五つの軍港を置いた原型であり、のちの常備艦隊、連合艦隊に繋がる案である。軍艦の数三百七十、乗組人数六万千二百五人という壮大な計画で、この実現には天文学的数字の費用が必要となろう。この時点での幕府軍艦はコルベット級四隻、フレガット級三隻、小型蒸気艦は建造したばかりの千代田形一隻という時期であった。
ところが、これを評議する会議において、勝海舟が「実現するには百年を要する」と発言したものだから、本案は葬り去られた。勝海舟自身の日記によれば「五百年かかる」と発言したというが、いずれにせよ、「大海軍計画」は海舟によって潰されたといって良い。著者は「日露戦争の日本海における完勝が、右の防備完成を意味するとすれば、文久二年より四三年後に書付けの目的は達せられたことになる」と(やや悔し気に)記しているが、結果からいえば、百年とか五百年もの歳月は必要ではなかったのである。木村喜毅という人は余程できた人だったのだろう。これほどの仕打ちをうけながら、一切勝海舟のことを恨んだりしていない。後年、喜毅は海舟に請われて「海軍歴史」の編纂を積極的に手伝っている。正直に申し上げて、本書を読むと、勝海舟という人には「嫌な奴」という印象しかない。
筆者土居良三氏(故人)は、咸臨丸渡航時、木村喜毅の従者としてアメリカに渡り、「鴻目魁耳」と称する日記を残した長尾幸作の曽孫にあたる。本書を読めば木村喜毅に深い愛情をもっていることが伝わってくるが、必要以上に肩入れするのではなく、勝海舟にも等しく優しい目を注いでいる。評伝としては安心感のあるものである。
私がこの本を読んだのは、不整脈(心房細動)のカテーテル手術を受けるために入院した病室であった。おかげで充実した入院生活となった。

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