史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

金沢 寺町 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(妙慶寺)
福井市内の史跡探索を十四時半に切り上げ、レンタカーを返却すると、特急に飛び乗って金沢に移動する。家族とは金沢の宿で落ち合うことになっている。
八年振りの金沢である。前回も家族旅行であったが、あの時は息子が寝台特急に乗りたいというのに付き合って、移動が目的のような旅行であったが、今回は私たち夫婦の銀婚式と娘たちの卒業・進学、息子の二十歳の成人のお祝いという主旨で、金沢に集まることになった。
家族が集まる夕食の時間までに、八年前に行けなかった金沢市内の二つの寺院を回ることにした。一つは松平大弐の墓があるという妙慶寺。もう一つは宝町の宝円寺である。二つの寺は方向も違うので、自転車を使うのが効率的である。
金沢市内には観光客向けに「まちのり」というレンタサイクルがある。自転車を借りると最初に二百円がかかるが、その後はポートと呼ばれる駐輪場が市内十八か所に設置されており、三十分以内にポートに返却すれば料金がかからないというシステムである(逆に三十分を超えると、三十分ごとに二百円が加算される)。できるだけ多くの人に自転車を利用してもらおうという発想で考え出されたこの仕組であるが、利用者はポートから次のポートにいかにして短時間で渡り歩くかを考えながら行動しなければならない。一種のゲームのようなものである。しかし、妙慶寺も宝円寺もポートから離れている。わずかな時間もロスが許されない私は、結局ポートに自転車を返却することもなく、二時間余り一台の自転車を使い放しにしてしまったため、普通のレンタサイクルより割高になってしまった。前回(八年前)にも痛感したのだが、道路地図ではなかなか読み取れないが、金沢市街は結構アップダウンが激しく、場所によっては自転車ではかなり厳しい坂道もある。八年前の教訓がまったく生かされず、今回も自転車で喘ぎながら妙慶寺と宝円寺の間を移動することになった。
妙慶寺には松平大弐の墓がある。門前には「贈四位松平大弐墓道」と記された石柱もあり、それは間違いないのだが、墓地に入ると「松平家」の墓がたくさんあって、どれが大弐のものか特定できなかった。なお、当寺は松平氏の菩提寺であり、ミュンヘン・オリンピックで男子バレーが金メダルを獲得した時の監督松平康隆氏や我が国の初代国連大使松平康東氏などの先祖の墓があるそうである。
門を入って右手に松平大弐の顕彰碑があり、それに出会っただけで満足して妙慶寺をあとにした。


妙慶寺


贈従四位松平大弐墓道


贈従四位大弐松平君碑


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金沢 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(兼六園)


日本武尊像

 兼六園の日本武尊の像は、明治十年(1877)の西南戦争で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。銅像の身長は五・五メートル、台座の高さだけで六・五メートルという大きさである。明治十三年(1880)の建立。


根上松

 根上松(ねあがりのまつ)は、十三代藩主斉泰が、稚松を高い盛土に手植えし、徐々に土を除いて根を著したものと伝えられる。


成巽閣

 成巽閣(せいそんかく)は、文久三年(1863)、前田斉泰が母堂真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城から見て東南方向(すなわち巽)の方位にあるため、当初は巽新殿と名付けられた。明治七年(1874)に兼六園が一般公開された際に、成巽閣と改称された。
 成巽閣は、二階建て、寄棟造り、杮葺きの建物で、幕末武家造りの意向として他に類例がないものと評価されている。階下は謁見の間、御寝所の亀の間、蝶の間など整然とした武家書院造りとなっている。一方、階上は群青の間を中心とした数寄屋風書院造りの七室から成った。

(石川護國神社)


石川護國神社

 石川護國神社は、はじめ招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあった。草創は、明治元年(1868)、越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵百八名の御霊を祀るため、加賀藩十四代藩主前田慶寧の命を受けて建立された。後に西南戦争や日清・日露戦争の戦没者も合祀されている。現地に移転したのは昭和十年(1935)のことで、昭和十四年(1939)に石川護國神社と改称した。


大山元帥御手植 竜の松

 護國神社の境内に大山元帥御手植の竜の松がある。明治天皇が明治十一年(1878)十月、当地へ行幸された際、御供をした大山巌が片町の三島茂太郎邸とその後、大桑酒造店(現・三日市ビル)に部下四名とともに三泊し、記念に松を植えたとされる。この松は、昭和三十七年(1962)、片町の整備工事に伴い、三日市与三次郎氏が寄進したものである。


乃木将軍所縁 水師営の棗(分根)

 日露戦争における最大の激戦であった旅順要塞戦のあと、乃木将軍と敵将ステッセルとの水師営における会見は、軍歌にも歌われ名場面として語り継がれることになった。のちに戦史研究のために金沢在住の岩下岩松氏が、現地から棗の分根を持ち帰り、石川護國神社に奉献したものである。

(石川県立歴史博物館)
 最終日、二時間ほど自由行動を許されたので、石川県立歴史博物館と加賀本多博物館(旧・藩老本多蔵品館)を拝観することにした。県立歴史博物館は、かつて陸軍兵器庫として使われた赤レンガの建物を改装して博物館として利用している。第一展示室には縄文時代から江戸時代、第二展示室には明治以降の展示、企画展示室では今回は「北前船と日本海開運」特別展を開催していた。連休中の金沢の観光地は、どこも凄まじい人で、特に人気の近江市場など何時間並んでも食事にありつけないような状態であったが、歴史博物館はゆったりと見学ができた。


石川県立歴史博物館

 数ある展示の中で、目を引いたのは島田一郎の宣言文であった。


島田一郎の宣言文

(金沢健康プラザ大手町)


金沢医学館跡地

 金沢城の大手門を出たところ、金沢健康プラザ大手町の前に金沢医学館跡地を示す石碑がある。
 金沢藩では、明治三年(1870)二月、津田玄蕃邸跡に金沢医学館を開設し、翌年オランダ人医師スロイスが着任し、西洋医学の教育と診療を始めた。医学館は、その後、官立第四高等学校医学部、金沢医学専門学校、金沢医科大学、金沢大学医学部へと発展した。

(金沢近江町郵便局)


金沢郵便発祥之地

 ここまで来ると、有名な近江町市場に近い。近江町郵便局前に金沢郵便発祥の地の碑が建てられている。

(宝円寺)
 宝円寺は、加賀百万石の藩祖前田利家が、越前府中(現・福井県越前市)に在城したとき、当時郊外の高瀬村にあった宝円寺の大透圭徐和尚に深く帰依した。のちに利家が加賀に移った時、大透和尚を招き入れ一寺を創建し、宝円寺と名付けた。さらに利家が金沢城主となると、再び大透和尚を金沢に招き、宝円寺を建立した。宝円寺は藩公から毎年二百二十余石の供養米が寄進された。前田家累代の菩提寺となり、往時には本堂、客殿、庫裡、山門が並ぶ豪華絢爛なもので、「北陸の日光東照宮」と称された。しかし、慶応四年(1868)二月に寺内からの失火により全伽藍を失った。その後、本堂と庫裡を造営して今日に至っている。


宝円寺

 本堂の裏手に墓地があり、そこに長連豪の墓がある。
長連豪(つらひで)は、安政三年(1856)加賀藩士の子に生まれる。漢文学舎の豊島洞斎に師事。のちに加賀藩校明倫堂に学んだ。薩摩の西郷隆盛を信奉し、桐野利秋や別府晋介らと親交をもった。西南戦争後、大久保利通の暗殺を企て上京。明治十一年(1878)五月十四日、島田一郎らと紀尾井坂にて大久保を暗殺すると、そのまま自首し、同年七月に処刑された。二十三歳。


長連豪墳

 宝円寺の山門を入ると幕末の藩主前田斉泰の顕彰碑が建てられている。
 

前田斉泰公顕彰碑

 前田斉泰は文化八年(1811)、前田斉広の子に生まれ、文政五年(1822)襲封。施政の基本は、門閥八家の年寄による米穀中心の保守的農政であり、幕末には公武合体を主張した。これに対し、世子慶寧は側近の勤王党の補導により親長的、革新的で、文久三年(1863)の政変後、上洛して長幕間の周旋に務めたが、翌年元治の変が起こると、幕府への遠慮から世子に謹慎を命じて、勤王党をいっせいに処刑した。慶応二年(1866)には致仕して慶寧が襲封し、斉泰は金谷御殿に隠居、以後、大勢を見ながら朝幕間の裏面工作に専念した。慶応四年(1868)、倒幕が決定的になると積極的に新政府軍を支援して、北越戦争にも参加、その功によって慶寧は知藩事に任命された。明治四年(1871)廃藩により東京に移住。明治十七年(1884)、七十四歳で波乱の生涯を閉じた。

 ゴールデンウィーク中の金沢は、とにかく凄い人であった。最近人気の高い21世紀美術館は、チケットを手に入れるのに一時間も並ばなくてはいけない。係の方の「コンビニでも買えます」という助言に従って、近所のコンビニに走ったところ、既にコンビニにも長い行列ができていて、結局一時間近くかかってしまった。
 昼食はどこも一杯で、二時間三時間待ちは当たり前。結局、私たち家族は駅弁を買って特急列車の車内で済ませた。観光客の数が完全に受入側のキャパを越えている印象である。一方で隠岐の島の白鳥海岸など、言葉を失うくらいの絶景であったが、私のほか誰もいないような場所もある。利便性や宣伝力の差かもしれないが、ゴールデンウィークは「穴場」に限る。
 名古屋から始まった今回の史跡旅行で撮影した写真は六百枚を数え、万歩計は一週間で十四万歩を越えた(つまり一日平均二万歩)。山登りまがいのハイキングや長距離ドライブ、船での移動も、何とか計画どおり遂行することができた。半年前の腰椎ヘルニアの手術以来、ずっと腰の不安につきまとわれてきたが、今回の旅行を終えて「復調宣言」を出せる状態まで回復した。油断は禁物だが。

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