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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

高円寺 Ⅲ

2012年12月08日 | 東京都
(修行寺)


修行寺


成瀬正典の墓

 「幕末歴史散歩~東京篇~」(中公新書)に、犬山藩主成瀬隼人正肥の墓が高円寺の修行寺にあると記載されていたので、足を運んでみた。結論からいうと、成瀬正肥の墓は発見できなかった。正肥の四代前の成瀬正典が生前墓として建立した墓があるのみであった。
 修行寺は、江戸初期に江戸麹町に建てられたらしいが、その後移転を繰り返し、大正元年(1912)に市ヶ谷から現在地に移転したらしい。しかも第二次大戦中に空襲により被害を受けており、仮にこの寺に正肥の墓があったとしても、逸失してしまったのかもしれない。

(妙祝寺)


妙祝寺


播磨守一柳直方之墓

 妙祝寺は、西条藩主の室の開創であるが、一柳直方は西条藩主ではなくて幕臣である。弘化二年(1845)、浦賀奉行に任じられた翌五月、アメリカ海軍大将ビッドル率いる東インド艦隊が浦賀に入港。直方は、同役の大久保忠豊とともに湾内の警備を厳重にし、ビッドルから大統領親書を受けて、幕府に急報した。幕府ではビッドルに長崎に回航して欲しいとの諭書を伝達した。ビッドルは交渉継続を諦め、艦隊は平穏裏に抜錨した。その後、直方は日光奉行に転じ、小姓番組頭、書院番組頭を歴任して、万延元年(1860)に役を辞した。

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永福 Ⅱ

2012年12月08日 | 東京都
(大円寺)


西郷家之墓

 西郷隆盛の三男、午次郎家の墓である。西郷午次郎の母は、糸子。


大山彦八墓
源正院覺道良順居士

 八田知紀の墓を探して、墓地を歩き回ったが、遂に発見できなかった。代わりに大山彦八の墓を偶然発見した。
 この墓の主大山彦八は、大山巌の兄の彦八ではなく、その祖父大山彦八綱毅と思われる。


正七位国分友諒之墓

 国分友諒(ともさね)は、陸軍少佐権少警視。明治初期の警察幹部の一人である。明治六年の政変の後、下野して帰郷した。この間の経緯は、「翔ぶが如く」の文庫第三巻「明治七年」に詳しい。西南戦争に従軍して戦死している。

 港区立港郷土資料館にて平成二十四年度特別展「江戸の大名菩提寺」を開催していたので、展示説明会を行なっている日時を狙って田町まで行ってきた。無料ながら、見ごたえのある展示であった。
 江戸、特に現在の港区周辺には三百近い寺院が林立しており、その中には大名家の菩提寺も多かった。港区域だけでも三十二ヶ寺が菩提寺として確認されている。たとえば済海寺(越後長岡藩、伊予松山藩など)、泉岳寺(二本松藩、福知山藩、大田原藩など)、東禅寺(仙台藩、宇和島藩、一関藩、出石藩など)、青松寺(広島藩、長州藩、土佐藩など)などである。参勤交代を義務付けられていた大名家は、藩主やその家族が死去した場合に備えて、江戸に菩提寺を持っていることは不可欠であった。
 薩摩藩の江戸の菩提寺は、大円寺であった。今回、「江戸の大名菩提寺」特別展で初めて知ったことであるが、江戸期、大円寺は芝伊皿子にあった。その大円寺が何時、どういう理由で永福に移転したのか、この特別展では分からなかったが、実はかつて大円寺の墓地には、島津斉興の正室で斉彬の実母である弥姫(いよひめ)や斉彬の世子であった虎寿丸なども葬られていた。また、大名家では葬儀や供養の都度、菩提寺に多額の寄付を送ったり、美術品や経典を納めたりした。今もその施入物が菩提寺に伝えられている。これを見ると寺院はまさにタイムカプセルと呼ぶに相応しい。

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世田谷 Ⅲ

2012年12月08日 | 東京都
(豪徳寺)
 前回、世田谷の豪徳寺と松陰神社を歩いて、早六年が経った。この週末、秋晴れの空が広がった。このまま一日家にいるのはもったいないので、世田谷を再訪することにした。豪徳寺での目当ては、前回漏らした井伊直憲(彦根藩主)や井伊直安(与板藩主)らの墓である。


招き猫

 豪徳寺といえば、招き猫。小田急豪徳寺駅の改札を出ると、まず招き猫が出迎えてくれる。豪徳寺の三重塔にも招き猫の彫刻が施されている。井伊直孝が、猫により門内に招きいれられ、これを契機に豪徳寺を菩提寺に定めたという。


井伊直弼夫人墓
貞鏡院殿柳室智明大姉

 井伊直弼の墓の背後に、寄り添うように夫人貞鏡院昌子の墓が建てられている。昌子は、亀山藩主松平信豪の娘である。明治十八年(1885)五十一歳で亡くなっている。


正二位勲一等伯爵井伊直憲公墓
忠正院殿清節恕堂大居士


忠正公神道碑

 豪徳寺仏殿の前に忠正公神道碑が建てられている。篆額は井伊直安。撰文は旧彦根藩士谷鐡臣。「忠正」は、井伊直憲の法名。十三歳で直弼のあとを継いで彦根藩主となった。王政復古とともに、直ちに藩の方針を勤王と定め、鳥羽伏見では官軍に加わった。彦根藩は関東・東北を転戦し、戦後賞典禄二万石を下賜された。維新後は、彦根藩知事。旧領の教育、産業の発展に尽した。明治三十七年(1904)、五十七歳にて死去。


瘞首塚碑

 小山に出兵して戦死した彦根藩士十一名の慰霊碑である。小山戦争は、慶應四年(1868)四月十七日、伝習隊を主力とした旧幕軍と新政府軍との間で交わされた激戦で、この戦闘により壊滅的敗北を喫した。青木貞兵衛率いる彦根藩砲隊は、伝習隊に囲まれ全滅した。


井伊直安墓
有安院殿惇徳厚堂大居士

 井伊直安は、越後与板藩主。井伊直弼の実子である。与板藩は早々に勤王の態度を表明してため、旧幕軍や同盟軍の攻撃を受けて城下が焼かれるなどの被害を受けた。戦後、慰労金として二千両を賜り、与板藩知藩事に任じられた。明治二十九年(1896)貴族院議員。昭和十年(1935)、八十五歳で死去。

(松陰神社)


松陰神社

 平成二十三年(2011)三月の東日本大震災で、松陰神社の鳥居も倒壊は免れたものの多少の損害があったため、新しく鋼鉄製に建造されている。五年前に訪れたときは大雨であったが、今日は快晴であった。


石燈籠

 本殿の前に並ぶ三十二基の石燈籠は、松陰門下生や縁故者によって明治四十一年(1908)に奉献されたものである。伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎ら錚々たる面々の名前が連なる。


長州藩邸没収事件関係者慰霊碑

 禁門の変の後、長州藩は各処の出先機関を没収され、江戸藩邸も幕府に接収された。当時藩邸に駐在していた藩士は拘禁され、諸藩、諸家に預けられた。多くは預け先にて病死した。「防長回天史」によれば犠牲者は、五十一名となっているが、この碑には四十八名の名前が刻まれている。ただし、その中には明らかに事件とは無縁である中谷正亮の名前がある。


長藩第四大隊戦死者招魂碑

 この碑は、明治三十七年(1904)に桂太郎によって建立されたものである。戊辰戦争時、桂太郎自身も長州藩第四大隊二番隊司令として従軍している。

松陰神社と若林公園の間の空間に桂太郎の墓所がある。


公爵桂太郎之墓

 桂太郎は、弘化四年(1847)に萩に生まれた。戊辰戦争にも従軍。明治三年(1870)二十三歳のとき、普仏戦争さなかのベルリンに留学してプロシャの兵制を学んだ。山県有朋、大山巌の下で兵制改革に取り組み、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を推進した。台湾総督、陸相のあと、明治三十七年(1904)初めて組閣し、日露開戦に踏み切った。また、明治三十三年(1900)には台湾協会学校(現・拓殖大学)を設立し、自ら校長に就いて人材育成に尽した。大正元年(1912)には三度目の組閣をしたが、ほどなく総辞職。翌年六十六歳で急逝。遺言に従って、松陰神社に隣接する当地に葬られた。

(勝国寺)


勝国寺

 世田谷区役所の隣に、勝国寺の境内が広がる。長州藩出身の土屋簫海の墓所がある。


贈正五位簫海土屋先生之墓

 土屋簫海は、通称矢之介。文政十二年(1829)萩に生まれた。江戸で斉藤竹堂、塩谷宕陰、羽倉簡堂、藤森弘庵らに学んだ。鳥山新三郎邸で志士と交わり、同藩の吉田松陰と懇意になった。安政元年(1854)、父の病気によって帰国すると、萩に塾を開いた。文久二年(1862)から三年にかけて、熊本、久留米に使し、筑豊の諸藩で遊説した。元治元年(1864)、病臥している時に禁門の変が起こり、意見書を上書したところで死去した。享年三十六。
同じ墓所に、簫海の弟で維新後海軍機関大佐となった土屋平四郎が合葬されている「土屋家先歿者之墓」がある。

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