(修行寺)
修行寺
成瀬正典の墓
「幕末歴史散歩~東京篇~」(中公新書)に、犬山藩主成瀬隼人正肥の墓が高円寺の修行寺にあると記載されていたので、足を運んでみた。結論からいうと、成瀬正肥の墓は発見できなかった。正肥の四代前の成瀬正典が生前墓として建立した墓があるのみであった。
修行寺は、江戸初期に江戸麹町に建てられたらしいが、その後移転を繰り返し、大正元年(1912)に市ヶ谷から現在地に移転したらしい。しかも第二次大戦中に空襲により被害を受けており、仮にこの寺に正肥の墓があったとしても、逸失してしまったのかもしれない。
(妙祝寺)
妙祝寺
播磨守一柳直方之墓
妙祝寺は、西条藩主の室の開創であるが、一柳直方は西条藩主ではなくて幕臣である。弘化二年(1845)、浦賀奉行に任じられた翌五月、アメリカ海軍大将ビッドル率いる東インド艦隊が浦賀に入港。直方は、同役の大久保忠豊とともに湾内の警備を厳重にし、ビッドルから大統領親書を受けて、幕府に急報した。幕府ではビッドルに長崎に回航して欲しいとの諭書を伝達した。ビッドルは交渉継続を諦め、艦隊は平穏裏に抜錨した。その後、直方は日光奉行に転じ、小姓番組頭、書院番組頭を歴任して、万延元年(1860)に役を辞した。

修行寺

成瀬正典の墓
「幕末歴史散歩~東京篇~」(中公新書)に、犬山藩主成瀬隼人正肥の墓が高円寺の修行寺にあると記載されていたので、足を運んでみた。結論からいうと、成瀬正肥の墓は発見できなかった。正肥の四代前の成瀬正典が生前墓として建立した墓があるのみであった。
修行寺は、江戸初期に江戸麹町に建てられたらしいが、その後移転を繰り返し、大正元年(1912)に市ヶ谷から現在地に移転したらしい。しかも第二次大戦中に空襲により被害を受けており、仮にこの寺に正肥の墓があったとしても、逸失してしまったのかもしれない。
(妙祝寺)

妙祝寺

播磨守一柳直方之墓
妙祝寺は、西条藩主の室の開創であるが、一柳直方は西条藩主ではなくて幕臣である。弘化二年(1845)、浦賀奉行に任じられた翌五月、アメリカ海軍大将ビッドル率いる東インド艦隊が浦賀に入港。直方は、同役の大久保忠豊とともに湾内の警備を厳重にし、ビッドルから大統領親書を受けて、幕府に急報した。幕府ではビッドルに長崎に回航して欲しいとの諭書を伝達した。ビッドルは交渉継続を諦め、艦隊は平穏裏に抜錨した。その後、直方は日光奉行に転じ、小姓番組頭、書院番組頭を歴任して、万延元年(1860)に役を辞した。