人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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1990_中南米の旅・回想記(2)

2006-02-22 | 1990_中南米・回想記
● 第75回世界エスペラント大会にカストロ首相が登場!

第75回世界エスペラント大会

 われわれのこの旅の動機付けともなった国際的イベント・第75回世界エスペラント大会は,7月14-21日の8日間の会期でキューバの首都ハバナにおいて開催された.世界各国から1617名の関係者が参加したと,記録は伝えている.大会のメイン・テーマは「エスペラント,発展,文化の多様性」というものだったが,採択された「大会決議」の要旨は次のようなものであった.

==「文化の多様性は人類の貴重な遺産であり,後世へ伝える責務がある.少数民族文化は尊重されなければならず,画一化する現代生活の中で多様性を守ることが必要だ.エスペラントはこの多様な諸言語,諸文化をつなぐ架け橋であり,ユネスコなど国際機関やエスペラント諸組織はこの趣旨に則して,エスペラントをますます活用すべきである.」==

 前述のごとく,われわれ3名の旅グループは飛行機便の関係でこのイベントの開会式には出席できなかったのだが,これにはキューバ首相のフィデル・カストロ氏が出席していた.満場の大拍手が沸いたという.また,氏は後日の「歓迎晩餐会」にも顔を見せ,参加者の言によれば,親しく交流の輪が広がっていたという.これにも,われわれ3名は日程の都合で参加できなかった.かつての時代,第2次世界大戦へ向かう頃には,エスペラントはヒットラーやスターリンによって激しく弾圧された歴史をもつが,戦後,とくにスターリン後の東欧諸国や中国では逆にエスペラントがひじょうに盛んとなっていた.そしてそのソ連・東欧諸国の社会主義政権が崩壊寸前を迎えていたときに,このイベントが社会主義キューバで開催されたことは意義深い.カストロの演説内容をじかに聞けなかったことは,私にとってはたいへん残念なことであった.

 イベントのプログラムの中には「大会大学」などというのもあって,世界各国の理工系,文科系の著名な学者たちが講演した.言語学や社会学,教育学などの方面が多かったが,中には日本人で香川大学の名誉教授・川村信一郎氏の「ビタミンCの生化学」という講演もあった.高齢にもかかわらず,よく通る声で,ゆっくりはっきりと要点を念入りに解説していかれた.日本人に壊血病が少ないのは日本茶のおかげというプレゼン内容には反響も大きく,「日本茶はどのように乾燥させるのか」とか,「天然のビタミンCと人工のビタミンCとの違いは」などという質問も多く出されていた.

 イベント開催中には休憩期間もあって,希望者を募っては,ワニの養殖場の見学やタバコ工場の見学にも行った.私はタバコ工場の見学に参加してみたが,もらった葉巻を口にくわえてみたものの,強烈なにがさと妙な舌触りのためかあまり馴染めなかった記憶がある.キューバといえば砂糖と煙草が二大産業だが,これに関連して同行友人は「クォ・ヴァディス・クーバ(キューバよ,どこへ)」というタイトルで次のような手記を残している.

==「キューバの直面する現実は厳しい.これまでハバナに事務所があったソ連国営航空アエロフロートが米国のフロリダに本拠を移したというニュースを新聞で読んだが,これはソ連がこの国を見離しかけている一つの現われだ.強力な後ろ楯を失って,砂糖と煙草のほかに取り立てていうべき産業ももたないこの国は,これからどうなるのだろうか.カストロ政権の1党独裁と中央集権と計画経済は永続きできるのだろうか.キューバよ,どこへ行く.」==

 あれから15年余りが経った.「ソ連・東欧」という言葉も死語となった.中国やベトナムは変貌し,社会主義の看板は保持するものの開放経済が進み,ユニークな集団指導制へと移行しつつある.そして,キューバのカストロ政権は健在である.いっとき,キューバ革命の息吹はカストロやゲバラの名とともに中南米を席捲したことがあったが,その後かの地は困難で不幸な時代も経験し,そしていま,静かで新しい希望の時代を迎えようとしている.南米の中央部では史上初の先住民系大統領が出現し,また最も保守的な土壌といわれてきた国で史上初の女性大統領も登場した.カストロは,老いたとはいえ,これら現下の中南米情勢を遠くから微笑みながら見守っているかにも見える.

 結局,われわれ3名の旅グループは,キューバには7月15日から19日まで5日間滞在した.閉会式を待つことなく,7月20日には次の訪問地ベネズエラへと向かったのである.キューバで見たのは,うわべだけの姿だったかもしれない.しかし,良い経験であった.欲を言えば,もっと時間をとって,土地の人々とも交流したかったし,海へも足を運んで泳いでみたかった.サルサのダンスも体験したかった.熱帯とラテン,そして黒人文化の入り混じった音楽や踊りにも堪能したかった.しかし,当時としては,ただ「キューバに行ってみる」というだけで一定の意義を感じる時代でもあったのである.

● サント・ドミンゴ経由でベネズエラの首都カラカスへ!
 キューバから南米に入った.ドミニカ共和国のサント・ドミンゴでトランジット,そのままベネズエラの首都カラカスに飛んだ.7月20日のことである.フライトはヴィアサ航空VA-975便であった.南米の入口に選んだ国だったが,ここから反時計周りにぐるっとこの大陸を一周し,最後には再び中米に戻って帰国の途につくという旅程だった.

 カラカスは海抜が960mほどあり,緯度のわりには爽快で,「世界で最も気候のよい都市の一つ」に数えられているらしい.市街には高層ビルも林立する一大近代都市だが,たしかに緑も豊富で,過ごしやすい感じがした.自然環境に関する限りは,たいへん好印象をもったと記憶している.
カラカスの街並み(1) カラカスの街並み(2)

 ベネズエラという国は,中南米ではめずらしく石油が出る国である.普通に考えるなら,裕福になっていい国だ.しかし,私が訪れた頃のこの国の経済状況は,たいへんに深刻なものだった.それまで続いていた石油ブームの恩恵から一時は繁栄を謳歌したものの,その後の原油価格の急落と,経済政策の失敗とかで,結果的に膨大な対外債務を抱えてしまい,経済はどん底状態にあるとのことだった.ラテンアメリカでいちばん「リッチな」はずのこの国で,「小さな村は地獄,大きな町は最大の地獄」だと地元の人たちは言っていた..
カラカスの街並み(3) カラカスの地下鉄駅

● ウルグアイ・ラウンドならぬ,「カラカス・ラウンド」!?
 この旅は,厳密な意味では,私の1人旅ではなかった.企画に賛同した3名(男2名,女1名)によるめずらしい組合せでの長旅だった.東京を出発してから10日余りが経っていたが,やはり複数の人間の四六時中の統一行動には難しい面も伴う.南米での第一夜の夕食時に,この3人の間で多少険しい議論が発生した.つまりは,お互いのリズムや感性の違いからくる不満とわがままのぶつかり合いであった.

 議論の傾向には,両極があった.せっかく3人で旅をしているのだから,ずっと3人が同一行動をとるべきだ,という傾向と,いやたまたま3人で旅をしているが,これは自立しためいめいの1人旅が重なって行動しているだけで,各々はそれぞれの自己責任に基づき旅程に合わせて振舞えばそれでいい,といったものであった.

 いろいろと議論の末,完全な一致を見たわけではなかったが,お互い,なるべく依存心は捨て,自立の上での助け合いは図りながら,思い思いに楽しもう,ということで決着した.当時,世の中では,貿易と関税にからんだウルグアイ・ラウンドという言葉が流行っていた.それをもじって,われわれは「カラカス・ラウンド(協定)」などといって,旅の終わりまでの金言とした.

【次は,マラカイボから国境越えしてコロンビアへ向かいます.】
(2006/02/22,回想執筆時,筆者)