人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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1990_中南米の旅・回想記(0)

2006-02-05 | 1990_中南米・回想記
1990_中南米の旅・回想記

● 序言,この回想記の執筆にあたって!
 この回想記の執筆・連載を開始しようと思い立ったのは昨年(2005)のことである.ちょうど15年前,1990年の夏に私は約3ヶ月にわたる中南米の旅に出た.一人旅ではなかった.先輩友人の男性と女性それぞれ1名ずつを旅仲間とする3人旅であった.しかし,われわれの旅は,どこかの旅行社のパッケージツアーに参加するという形態はとらず,あくまでも独自企画による各自の一人旅がたまたま多くの旅程で重畳する自立的な旅であった.事実,この長旅の過程では,部分的ながらも,この3人が三者三様の完全な一人旅となる局面もあった.

 この旅を終えた直後には,同行した先輩友人の手によって記録がまとめられ,一冊の本としてすでに上梓されている.その内容は,この旅に参加したわれわれ3名の当時の共通テーマに沿い,そして3名がおおむね一致して行動した旅程の大部分の記録となっている.この書籍は,1991年6月の発行だが,現在でも入手は可能であり,検索サイト等で「中南米編」というキーワードからリストアップされる中に見出すことができるかもしれない.ただ,ここでは「ブログ」という性格上,その書名等を明示的に特定することは避けておこう.その著書が扱った主要なテーマに関しては,必ずしもこのブログに連載されていく内容があまり関連性をもたないし,また回想記というスタイルからも,きわめて個人的な色彩をもつからである.

 したがって,以下に連載していく記事はあくまでも筆者個人の旅の回想記であり,その意味では,私にとっての一人旅であった側面に基本的な視点が置かれることだろう.ただし,この3ヶ月という旅程そのものの事実記録では,上記の著書と多く重なる部分もあるし,また著者の諒解のもとにその記述から参照・引用させていただく個所も多々ある.これにつき,あらかじめ快諾していただいた先輩友人に心から感謝の意を表したい.

● 1990年,それはどういう年であったのか?
 この旅の企画が持ち上がったのは,1989年のことであった.日本の元号が「昭和」から「平成」へと変わった年である.この年は,世界にとって,また私個人にとっても,実にたいへんな年であった.まず4月,中国では胡耀邦前総書記が死去したことに端を発する大規模な民主化要求運動が発生,これが6月の北京での天安門事件へと発展する.折から私は,上海から来日した女性の留学生(就学生)の保証人を引き受け,その女性のアルバイト先での指の怪我などの問題処理で走り回り,これが縁で当時北京や上海から来ていた多くの中国人学生とも付き合っていた.天安門事件は,いったい彼ら,彼女らの胸に,どのような衝撃を与えたであろうか.そんな想いに,私自身の眼も心も熱くなっていたのである.片言同士の日本語と中国語で,夜を徹して語り合ったこともあった.

 同じ6月には,ヨーロッパで大きな変化が生じていた.ポーランドの国会選挙で,あの「連帯」が圧勝したのである.私はかねがねポーランドには大きな関心を寄せていた.そしてこの年のわずか2年前,1987年には,他用もあってそのポーランドを訪れていた.ワルシャワには1週間ほど滞在したであろうか.その足で,崩壊寸前の社会主義・東ヨーロッパ諸国を駆け足で回って帰国していた.急に,そのときのワルシャワでの光景が思い出された.危険だから行かないほうがいいといわれていたにもかかわらず,旧市街の暗い飲み屋に立ち寄ったが,そのホールで自暴自棄としか見えない青年たちが熱い紅茶にウォッカをたっぷり入れて踊りまくり,そのあげくにバタバタと床に倒れこむ姿を目の当たりにしていた.あの青年たちは,いまどうしているだろうか.そんな想いが,また私の胸を熱くしていたのである.

 そして11月,あの「ベルリンの壁」が崩壊した.いや,打ち砕いたのである.その後,東西ドイツは急速に統合に向かうこととなる.さらに12月には,極めつけの事件がルーマニアで発生した.チャウシェスク政権が崩壊したのである.その末路の劇的な映像は,TVを通じて多くの人の目に焼きついているだろう.そのチャウシェスクという名前には,ある特別な記憶が私の中に残っていた.20年余り遡るだろうか,その頃,知人の某大学教授がルーマニアを旅したことがあった.当時,まだ若かったチャウシェスクは破竹の勢いであった.その教授によれば,数々の改革施策が参考になるということで,たびたびルポルタージュを現地から国際郵便で送ってきていた.私は,それを国内の関係者に配布するために「チャウシェスク便り」などと銘打ってシリーズ版に編集し,印刷する作業を引き受けていたのである.内容に関してはもはや忘却のかなただが,そのチャウシェスクという名を忘れることはできなかった.そしてその記憶が,あのルーマニアの政権崩壊の末期的映像とダブって,複雑な想いの底に私を投げ込んだ.

 こうして1990年が明けた.3月には,ソ連でゴルバチョフが大統領に就任した.ソ連共産党は解体寸前であった.東ヨーロッパに起こった政変,それがソ連本体をも揺すぶって,ソ連自体が崩壊しようとしている.6月にはコメコンが解散し,7月にはワルシャワ条約機構が解体された.ソ連・東欧ブロックには,大きな地殻変動が起こっていたのである.「冷戦体制」,「東西対立」という言葉が,あれよあれよという間に風化しつつあった.もちろん疑問も次々に湧いてきた.中国はいったいどうなるのか,そしてベトナムは,また北朝鮮は,そしてあのカストロのキューバはどうなってしまうのか,などなどである.

● キューバでイベント? そして中南米を回る? よし,行こう!
 こうした情勢下の1989~1990年にかけたある日,前述の先輩友人が一つの提案をした.この年(1990)の夏には,折から中米のキューバで一つの国際的イベントが開催されることになっていた.かつてポーランドのザメンホフという眼科医が提唱し,約100年にわたって地道な普及活動が行われてきたエスペラントという国際語があるが,その活動を統括する世界エスペラント協会(本部:オランダ)は毎年1回,いずれかの国で「世界エスペラント大会」なるイベントを開催している.それが折りしもその年,キューバにて開催される運びとなっていたのである.

 日本にも,この普及活動を司る団体はあるが,たまたまわれわれ3人もその活動にいささかかかわっていた.そんなミーティングのある夜,先輩友人が「オレはどうしてもキューバに行くぞ,そしてそのついでに2~3ヶ月くらい中南米を回るんだ!」と,酔った勢いも手伝って言い出した.「いっしょに行かないか」とも誘う.私は,一も二もなく賛成していた.「良いアイデアだ,ぜひ行きましょう!」と,酔いが深くなりすぎないうちに話をまとめていた.その後,何人かの人には声もかけたが,結局賛同者は3名となった.旅程の企画と手配には,もっぱら私があたることとなった.その2年ほど前,南米のペルーに一度行ったこともあったからだった.私自身,他の中南米諸国も,ぜひ機会があればゆっくり回ってみたいとの密かな想いも抱いていた.こうしてこの3名,その想いこそそれぞれに異なる面はあったが,とりあえず行きと帰り,そして公約数的な共通テーマでは行動を共にするスタイルで,以下に回想する長旅の企画が実現したのである.

 この旅は,1990年7月9日に成田を出発し,10月5日に帰国するという,正味で89日間にわたるものであった.成田空港からまずロスアンゼルスに飛び,メキシコを経由してキューバに入り,ドミニカ経由でベネズエラに渡り,そこから南米大陸を反時計周りに一巡し,最後のブラジルからは再びメキシコ経由で中米の何ヶ国かを回るという旅程であった.記録によれば,訪問国は全体で15ヶ国,訪問都市は39ヶ所にのぼった.ブログ読者の参考のため,以下には,この旅の行程を示した中南米の簡単な略図を示しておこう.なお,次号からの連載では,必ずしも周期を固定していない.筆(キータッチ)の流れと,時間的余裕にまかせた連載(更新)になることを,あらかじめおことわりしておこう.
1990_中南米の旅・回想記(略図)

(2006/02/05,この記事の連載開始にあたって,筆者)