コメント
♪大和平野に聳え立つ 生駒の峰の松風が。。。大阪と奈良との境目に位置する大阪桐蔭☆
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なにわのヒバゴン
)
2014-09-20 19:02:21
大阪桐蔭は夏出場8回で優勝4度。ベスト4も1度ありますから、名門だとか強豪という一般的な呼称ではなく化け物クラス。何度挑んでも全国の頂点に立てない常連校が多い中、安定した戦績とハイレベルな人材育成を平行して成果を上げている西谷監督の手腕はまさに‘リーダーとはかくあるべき’を身をもって証明しています。遠方から‘強い’‘技術向上’‘のびのびと野球に集中できる’etc魅力が溢れているがゆえ同校野球部を志す球児が多いのでしょうね。今の(おっさんの私でさえ)若者は理不尽なことは受け入れられません。いくら甲子園に比較的簡単に進められそうな参加校少数県の強豪私学であっても意味不明な虐めや暴力、上下関係を強いられてまで甲子園に出たいと思わないのでしょう。伸び伸びと思う存分野球を楽しめる(そりゃ練習はしんどいでしょうけどね)環境がまず第一。その延長線上に甲子園やプロ野球があるのではないでしょうか?PLは春夏連覇のあと桑田問題なども影響してか丸4年甲子園にご無沙汰。夏は当時のネームバリューからして考えられない8年もの低迷を強いられました。私は高校野球=基本地元校でプレーという考え方を持ち続けているゆえもう昭和の遺物そのものですね(笑)憧れの、目標を持って3年間を過ごせる環境の中で自分らしく高校生活を送る。寮生活も自立する大切さ、協調性を養うなど自宅通いの生徒以上に社会勉強しているわけですからプラス面の方が多いことに違いはないでしょう。この西谷イズムが変わらなければ大阪桐蔭はまだまだ進化を遂げ、いよいよ中京大中京の優勝7度越えも現実のものになっていきそうですね。4年後には大会三桁に突入。ニュー高校野球がどう歩みを辿っていくのか興味を持って見守っていきたい所存です☆
もはや一人勝ち
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こーじ
)
2014-09-21 11:00:15
>なにわのヒバゴン様
たしかに西谷監督が就任した00年以降 大阪勢の夏の大会の勝ち星は30勝してますが、大阪桐蔭以外はPLの4勝と
履正社&東大阪大付柏原がそれぞれ1勝づつの6勝ですから
いかに桐蔭が甲子園で強いか分かりますよね。
一時期は大阪が参加校が多過ぎて出場が難しいという事から田中将大や坂本勇人らのように東北や北海道に流出してましたけど一人勝ちのチームが出てくると人材も集中し始めますからね。
しかも甲子園で優勝できる可能性があるだけでなく、上のカテゴリーで活躍できるのなら好素材の集中も当然です。
もっとも地元組だけでダメかといえば智弁和歌山のように県内組のみでも十分強かったし、高嶋氏に言わせると県外組が多いと審判などからも嫌われ不利なジャッジをされる事も多いようです。
ちなみに私の祖父は津久見の出身ですが甲子園で好成績を収めた年はレギュラー9人中7~8人が関西をはじめとした県外組だったようです。
浦学モリシ、日大三小倉両監督もナイスな名将ですよね☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-21 15:03:35
なるほど興味深いですね。審判も人の子ですから、露骨に県外出身者で固めた勝利ありきのチームに対しては好感を持てないのかも知れません。広島の広陵も関西出身が多いらしいのですが、07年決勝の8回裏の例の一球にも心の何処かにストライクコールできない複雑な思いも交錯していたのでしょう。あの年は野球留学(越境入学)の問題について取りただされてましたから佐賀北旋風の意義はより大きかったのだと。。。平成の26年間で公立の優勝は佐賀商、松山商、佐賀北の3校のみ。観戦する我々オールドファンからしてもプロ野球予備軍のような私学が毎年優勝では寂しい限りですからね。 津久見のような伝統公立校に古くから関西出身者が越境(ですよね)入部していたとは驚きです。吉良投手よりもさらに昔の時代ですよね。津久見市は割と大分県では大きい町なのかな?とイメージしがちなのですが、5万人にも満たない小都市だったとは驚きです。なのに春夏全国制覇など九州で屈指の名門であることは周知の事実。大田卓司や川崎憲次郎など名選手も多数輩出してますから‘やはり’地元オンリーでもなかったわけですね。小嶋監督が一代で築き上げたイメージも強く、箕島や池田、銚子商にも通じる高校野球が町を活性化。地元貢献を果たしてきた功績は少々の訳ありはあっても見事と言う他ありません。吉田監督が去った長崎の清峰も5年間の旋風で終わりを告げたのか?来年あたりは地元色の濃いチームの活躍も少しは期待したいなと願う今日のこの頃です。
それがですね・・・・
(
こーじ
)
2014-09-21 23:52:09
>なにわのヒバゴン様
例えば77年に大鉄の川端からサヨナラ満塁HRを打たれた投手は私の地元出身なのですよ。
つまり津久見は人口3万台の小さな町で市内の高校はここしかないので野球部のサポートをするセメント工場のオーナーやミカン農家のオーナー達が関西方面に出張で出かけたついでにスカウト活動し中3の時に津久見に連れて来て彼らの家に授業料を出しながら通わせていたとの
事です。
最近の低迷は ただでさえ小嶋仁八郎氏が亡くなった事からOB達がバラバラになっただけでなく、後援をしていたセメント工場やミカン農家のオーナー達が不況で資金繰りに苦しんでいるため先述したような事が出来づらくなったようです。
そう言われると津久見みかんと書かれた段ボール箱は何度か見たような気もします。気候が温暖なのでしょうね☆
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-22 02:54:38
なるほど。そんなカラクリが小嶋監督時代の津久見には存在していたのですね。関西出身の津久見有名選手は何方か居ましたか?高橋直樹、吉良、水江、伊東、上島、川崎とりあえず関西人ではないですよね。70年代初頭までは他県との地区大会も勝ち抜かなければ甲子園に出場できない今よりずっと厳しく重みがあった時代。津久見は大分商や日田林工などの県内ライバルを倒したあと熊本勢の中九州大会も突破。コンスタントに甲子園に出ていたのにはスカウトの力が大きかったわけですね。戦後長く76年まで夏にブランクのあった熊工は恐らく津久見に何度も苦杯を舐めていたのだと想像します。選抜は50~70年代に掛けて割と出てますからね。川上氏も夏の復活時はホッとされたことでしょう。77年の津久見は初戦で阪神入りした巨漢エース服部を擁する京都商に大勝。大鉄は酒田工には快勝したものの初戦の初陣・土岐商戦は何とか振りきっての勝利。なので津久見打線に前田が早い回に捕まらなければいいな等、不安を抱いてテレビ観戦していましたよ。乱打戦で6―6。星野投手(ですよね)が後半ヘバって球威、制球が明らかに落ちてきたことがサヨナラ弾へと繋がりました。鍛冶本の先頭打者アーチで勢いづくはずが、投げてみないと解らない前田のノーコン&痛打病が‘やはり’発令。リリーフした浜口が踏ん張ったことで猛反撃を断ち4強まで進出できたんですよね。大鉄は準優勝した71年春でさえ1大会3勝だったのに最後の甲子園で過去最高となる4度の校歌。準決勝も東邦を終盤までリードしていただけに逆転負けは悔しかった!網監督(土井や福本も指導した大ベテラン)もハラハラし通しの中、さぞ楽しく采配を振るえたのではないでしょうか‥☆
前田は各年どころか
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こーじ
)
2014-09-22 23:39:00
>なにわのヒバゴン様
大鉄の前田は初戦の土岐商戦がノーコン乱調で、2回戦の酒田工戦は好投ときてましたから津久見戦は乱調ではないか?と思ったら予想は当たり1回戦同様3塁手の浜口がリリーフしましたよね。
津久見が勝てばベスト8は高知でしたから、67年春決勝と74年春初戦で1勝1敗のラバーマッチになるところでした。
ちなみにこの年の高知は2回戦で福井商に7-6で打ち勝ってますが福井商とも72年春と75年春で1勝1敗のラバーマッチを勝ち抜いてましたから回戦を1つ飛ばしての対戦になっていたわけですね。
小嶋仁八郎氏は68年夏に2回戦で選抜優勝の大宮工に
完勝しながら3回戦で盛岡一に完敗し頭に来てダッグアウト上の金網を乗り越えてスタンドから逃走したものの、
役員に捕まって強引にインタビューを受けさせられ終了後30分以上高野連のお偉方に怒られるという武勇伝があります。
大鉄戦後のコメントは‘0の数がウチの方が多いので負けは仕方ない’でしたし、81年夏に岡谷工の金丸を打てなかった時には‘週刊朝日から騙された、何が七色の変化球投手だ!豪腕じゃないか’と毒づいてます。
なお氏の後釜に座った監督が77年度の主将・大津でして、その後4番or3番を打った山本一孝が監督に就任しましたよ。
懐かしい( ノД`)…半パンの小学生時代が蘇ります。働くおじさん、みんななかよし&明るい仲間。。。
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-23 02:09:03
いや~思わず昭和50年代が走馬灯の如く蘇ってきましたよ。津久見を最初に見たのがその77年だったので黄金期は想像の域に過ぎないのですが、小嶋氏ハチャメチャ過ぎます(笑)書かれている盛岡一戦が敗戦インタビュー拒否の試合だったのでしょうか?飛行機嫌いで海外(アメリカでしたか)遠征に同行しなかったなど武勇伝まだまだ有りそう。その半端ない情熱さが2度の優勝をもたらしたと言っても過言ではないでしょうね。まあ私には好々爺のイメージしか思い浮かびませんが。。。津久見と高知もう一度見たかった気もします。77年は両校ともやや投手力が弱かった印象なので打ち合いになったかも。小嶋氏以降に出場の85年春は開幕戦で東洋大姫路豊田から2ホーマーし快勝。夏も最強PLと好ゲーム。88年はエース川崎で春夏8強でしたから、まさか以後これほど長期低迷を迎えるなど思いもよりませんでした。福井商北野監督の記念すべき初勝利が72年春の高知戦ですね。3度の対戦すべて熱戦の様相。75年春は福井商が前側が絶好調、中盤までリードしていたので勝ったと思いましたが。。。まだまだ北陸と四国のレベルは目に見えない格差があったのかも知れません。77年は翌春準優勝チームより打線は強力だったとの声もありますね。こーじさん、九州産のエース梅津はプロから指名されなかったのでしょうか?福島商三浦との投げ合いは見応え十分。多くのオールドファンの記憶に残っているものだと想像します☆
梅津は
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こーじ
)
2014-09-23 23:18:40
>なにわのヒバゴン様
九州産業の梅津は社会人の門司鉄道管理局に入社しましたが、今ひとつパッとしないまま消えました。
三浦も優勝投手の松本と共にブレーブスに入団したものの、あっさり引退してプロゴルファーになってますし。
決勝点は後にバファローズ入りしたショート加藤のエラーが2つ絡んでますから、あのエラーがと当時は思ってましたね。
ちなみにこの勝利が福島商の夏の甲子園初勝利だったわけですが、まさか次で熊工に無失点記録を破られただけでなく3-0から追い付かれ最後は押し出し死球による
サヨナラ負けとは思いませんでしたよ。
津久見の小嶋氏は本来なら市役所務めだったわけで、
有給休暇を潰してまで熱中していたら甲子園で優勝しても給料は減らされており後にそれを聞いて激怒したものの存命中から胸像を建ててもらっていたそうです。
ちなみに津久見市内では津久見が試合中に買い物に来た客を‘津久見の試合が終わってから来い’と追い返す店が多かったとの事です。
強いが人気に四苦八苦の阪急。MMコンビ(日ハムはSSコンビ)には私も期待していましたが。。。
(
なにわのヒバゴン
)
2014-09-25 06:14:14
津久見野球部の地元における存在感はやはり凄かったようですね。新湊も甲子園で試合がある時間帯には地元から人が消えるなどと言われるくらいの野球狂の町。地方都市にありながら箕島、池田、銚子商、津久見は名物監督が長く率いて全国制覇も成し遂げましたから、過疎化が進む地域復興としては申し分のない偉業。もうこんな時代は来ないんでしょうか。 77年九州産は吉竹春樹も阪神他で活躍したことから高いポテンシャルを持った好チームだったのですね。イメージとしては80年の田川に似てますよ。初陣らしかぬ堂々とした戦いぶりでの惜敗。以後の期待を抱かすも2度目の甲子園を果たせずじまい。梅津も村田も長身右腕のイメージですし。よく似た校名の九産大九州は別の高校ですよね。 福島商は71、00年は選抜で8強入り。81年も左腕古溝を擁して初戦負けも御坊商工・藪とナイスな投手戦が印象に残っています。福島商のあとは学法石川や日大東北などが福島をリードするも全国区の強豪とは成らずに終わった印象。8年連続出場で県内無双ぶりを続ける聖光学院が悲願を達成できるかどうかですね。79、82年に出場の安積商(現帝京安積)もグレーのユニ、ベイ監督中畑清の母校でもあり久々に姿を見たいと願っています☆
共に九産大付ですが
(
こーじ
)
2014-09-25 23:26:43
>なにわのヒバゴン様
九州産業は大宰府の近くの筑紫野市にありまして77年に初出場の後にも昭和の時代は強豪でして81年にも予選の準決勝で9回2アウトから逆転2ランで勝ったりしてます。
ただ監督の松島氏(07年に大牟田の監督として出場)が移動した頃から弱体化し、最近はベスト16に残るのも珍しくなりました。
一方の九州は香椎にありまして逆に90年代後半から強くなってきましたね。
だから現在は九州産業大付といえば九州になってます。
余談ながら77年の九州産業のロゴはKYUSANだったのが
甲子園出場してから(九産大付・九州産業)という漢字の2段文字という当時としては珍しいロゴになりました。
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たしかに西谷監督が就任した00年以降 大阪勢の夏の大会の勝ち星は30勝してますが、大阪桐蔭以外はPLの4勝と
履正社&東大阪大付柏原がそれぞれ1勝づつの6勝ですから
いかに桐蔭が甲子園で強いか分かりますよね。
一時期は大阪が参加校が多過ぎて出場が難しいという事から田中将大や坂本勇人らのように東北や北海道に流出してましたけど一人勝ちのチームが出てくると人材も集中し始めますからね。
しかも甲子園で優勝できる可能性があるだけでなく、上のカテゴリーで活躍できるのなら好素材の集中も当然です。
もっとも地元組だけでダメかといえば智弁和歌山のように県内組のみでも十分強かったし、高嶋氏に言わせると県外組が多いと審判などからも嫌われ不利なジャッジをされる事も多いようです。
ちなみに私の祖父は津久見の出身ですが甲子園で好成績を収めた年はレギュラー9人中7~8人が関西をはじめとした県外組だったようです。
例えば77年に大鉄の川端からサヨナラ満塁HRを打たれた投手は私の地元出身なのですよ。
つまり津久見は人口3万台の小さな町で市内の高校はここしかないので野球部のサポートをするセメント工場のオーナーやミカン農家のオーナー達が関西方面に出張で出かけたついでにスカウト活動し中3の時に津久見に連れて来て彼らの家に授業料を出しながら通わせていたとの
事です。
最近の低迷は ただでさえ小嶋仁八郎氏が亡くなった事からOB達がバラバラになっただけでなく、後援をしていたセメント工場やミカン農家のオーナー達が不況で資金繰りに苦しんでいるため先述したような事が出来づらくなったようです。
大鉄の前田は初戦の土岐商戦がノーコン乱調で、2回戦の酒田工戦は好投ときてましたから津久見戦は乱調ではないか?と思ったら予想は当たり1回戦同様3塁手の浜口がリリーフしましたよね。
津久見が勝てばベスト8は高知でしたから、67年春決勝と74年春初戦で1勝1敗のラバーマッチになるところでした。
ちなみにこの年の高知は2回戦で福井商に7-6で打ち勝ってますが福井商とも72年春と75年春で1勝1敗のラバーマッチを勝ち抜いてましたから回戦を1つ飛ばしての対戦になっていたわけですね。
小嶋仁八郎氏は68年夏に2回戦で選抜優勝の大宮工に
完勝しながら3回戦で盛岡一に完敗し頭に来てダッグアウト上の金網を乗り越えてスタンドから逃走したものの、
役員に捕まって強引にインタビューを受けさせられ終了後30分以上高野連のお偉方に怒られるという武勇伝があります。
大鉄戦後のコメントは‘0の数がウチの方が多いので負けは仕方ない’でしたし、81年夏に岡谷工の金丸を打てなかった時には‘週刊朝日から騙された、何が七色の変化球投手だ!豪腕じゃないか’と毒づいてます。
なお氏の後釜に座った監督が77年度の主将・大津でして、その後4番or3番を打った山本一孝が監督に就任しましたよ。
九州産業の梅津は社会人の門司鉄道管理局に入社しましたが、今ひとつパッとしないまま消えました。
三浦も優勝投手の松本と共にブレーブスに入団したものの、あっさり引退してプロゴルファーになってますし。
決勝点は後にバファローズ入りしたショート加藤のエラーが2つ絡んでますから、あのエラーがと当時は思ってましたね。
ちなみにこの勝利が福島商の夏の甲子園初勝利だったわけですが、まさか次で熊工に無失点記録を破られただけでなく3-0から追い付かれ最後は押し出し死球による
サヨナラ負けとは思いませんでしたよ。
津久見の小嶋氏は本来なら市役所務めだったわけで、
有給休暇を潰してまで熱中していたら甲子園で優勝しても給料は減らされており後にそれを聞いて激怒したものの存命中から胸像を建ててもらっていたそうです。
ちなみに津久見市内では津久見が試合中に買い物に来た客を‘津久見の試合が終わってから来い’と追い返す店が多かったとの事です。
九州産業は大宰府の近くの筑紫野市にありまして77年に初出場の後にも昭和の時代は強豪でして81年にも予選の準決勝で9回2アウトから逆転2ランで勝ったりしてます。
ただ監督の松島氏(07年に大牟田の監督として出場)が移動した頃から弱体化し、最近はベスト16に残るのも珍しくなりました。
一方の九州は香椎にありまして逆に90年代後半から強くなってきましたね。
だから現在は九州産業大付といえば九州になってます。
余談ながら77年の九州産業のロゴはKYUSANだったのが
甲子園出場してから(九産大付・九州産業)という漢字の2段文字という当時としては珍しいロゴになりました。